まとめ
感想欄で少し述べましたが。
畠山重忠の最期ですが、北条義時を始めとする多くの御家人による待ち伏せによる奇襲を畠山重忠は受け、更に郎党でさえも降伏が許されずに全員虐殺されたという史実を、畠山重忠を始め郎党全てが降伏を拒んで勇敢に戦って玉砕した、と歪曲して「吾妻鏡」が描いているのではないか、と私は疑っています。
そんな証拠は皆無だ、といわれそうですが、「吾妻鏡」の資料としての性質上、私としてはそう疑われてならないのです。
ここまで、私なりに畠山重忠について、色々と思うところを挙げてきました。
本当に「吾妻鏡」が描くように「坂東武者の鑑」と謳われる程の人物ならば、何故にこのようなほとんどの御家人が敵対する最期を遂げて、更には「男衾三郎絵詞」では悪役として描かれるようなことにまで、畠山重忠がなっているのか、私としては不思議でなりません。
更に追い打ちを掛けるようなことを言えば、畠山重忠の末子とされる重慶は、「畠山重忠の乱」の8年後に謀反を起こそうとしたという嫌疑を掛けられます。
それで、源実朝は重慶を生け捕りにせよ、と長沼宗政に命じますが、長沼宗政は重慶を生け捕りにするどころか、首を刎ねてその首を持参するという暴挙に出ます。
これに実朝は怒って、長沼宗政が自らへ出仕するのを禁止しますが、長沼宗政の兄、小山朝政が弟の為に奔走したことから、実朝は赦したという話が「吾妻鏡」に出てくるのです。
その際に実朝は、
「重忠は罪無くして誅された(だから、重慶がこうした疑いを掛けられても当然で、許したかった)」
と嘆息したのに対して、宗政は、
「叛逆の企てに疑いは無い。赦しが出ると考えて、私は首を晒した。今後、このようなことを(将軍が)言っては、忠節が軽んじられて困りますぞ」(一部、意訳)
と放言したとか。
本当に罪無くして重忠が殺されたのなら、重忠の子どもの重慶が何故にそのような目に遭うのか。
それこそ、本人に咎が有っても、その子どもはまだ幼い子だから、という理由等が付けられて、その子は助命されて、所領が削られる等のことはあっても、家を継ぐことが認められるのは、それこそ梶原家や河越家の例等、この時代にもそれなりにあることでした。
しかし、畠山家は存続したとはいえ、通説に従えば、畠山重忠の妻で、北条義時、政子の姉妹に当たる女性が、足利義兼(尚、この正妻も北条時政の娘)の庶長子になる足利義純と再婚したことから、畠山家はこの義純が継ぐことになります。
確かに畠山家と義純は、この結婚で縁ができたことになりますが、そうは言っても、ちゃんと重忠には実子(重慶)がいるのに、重忠の妻を娶って、義純が畠山家を継ぐというのはおかしな話です。
(尚、これには有力な異説があり、義純が結婚したのは、畠山重忠の妻ではなく、その娘で、その縁から義純は畠山家を継いだ、とその説ではなっています。
それならば、娘婿である義理の息子が畠山家を継いだことになり、理屈はそれなりに立つ気もしますが、そうはいっても、実子(重慶)がいるのに、と何故に娘婿が畠山家を継承したのか、とモヤっとしたものを私は感じざるを得ません)
そして、平氏だった畠山家は、このために源氏、足利家の一門となり、それこそ室町時代には管領家の一つとなるも、戦国時代になって零落し、その流れの一つが、江戸時代には高家の一つとなって現代まで命脈をつなぐことになりますが。
本当に何で畠山家はこのような扱いを受けたのか。
伊豆の小豪族に過ぎなかった北条家が力を蓄えるために武蔵への侵出を目論んでいたが、それには畠山家が邪魔だったので、畠山重忠は排除されたという有力説があり、実際に史実の流れが、そうなっていることからすれば、かなり当たっている、と私自身も考えますが。
その一方で、何故に「坂東武者の鑑」として人望の高かった筈の畠山重忠とその息子達に対して、多くというよりほとんどの御家人が敵対して、畠山重忠らが無惨な最期を迎えねばならなかったのか。
その最期と畠山家のその後の歴史の流れには、本当に目に見えない何か、裏の真相というのがある気がして、私はなりません。
そして、それは永遠に分からない話になりそうです。
これで完結します。
ご感想等をお待ちしています。




