畠山重忠の最期の戦い、二俣川の戦いの謎
「畠山重忠の乱」勃発の経緯自体について、前話で述べたような闇を私はどうにも感じてならないのですが、更なる闇を感じるのが、畠山重忠最期の戦いとなった二俣川の戦いです。
この戦について、「吾妻鏡」は畠山重忠の見事な最期を描きあげていますが。
雑誌、歴史群像第175号において、西股総生氏が疑問点を幾つか提示しており。私もその疑問点の多くに賛同します。
それ故に、以下の文章の多くが、西股総生氏の文章の引き写しになりますが、ご寛恕ください。
6月22日早朝に畠山重忠の息子、重保を討った後で、北条時政は北条義時らの軍勢を、畠山重忠討伐のために向かわせます。
尚、その軍勢ですが、北条義時、時房に加え、和田義盛や三浦義村、安達景盛、足利義氏に加え、小山氏や千葉氏、他に江戸家を始めとする畠山家が属する秩父氏流の面々、武蔵七党までが加わった大軍でした。
ここで私が気になるのが、この大軍に参加した面々です。
それこそ鎌倉幕府の有力御家人のほとんどが参加していて、更には地縁や血縁から畠山重忠に味方しておかしくない面々までが、畠山重忠討伐の為に軍勢を参加させているのです。
北条義時までが参加している以上、軍勢を参加させないという選択肢は無かった、と言われるでしょうが、何だかモヤモヤしてしまいます。
更に二俣川の戦いの地形が問題になります。
畠山重忠は尾根伝いに進軍して尾根を降りた後で、義時らの軍勢に気づいて二俣川の川辺で遭遇戦を演じた、と「吾妻鏡」の記述を信じればなりますが。
普通に考えれば、尾根にいる時点で畠山重忠は義時らの軍勢に気づくのが当然で、不自然です。
西股氏は、畠山勢を二俣川の川辺で義時らの軍勢が密かに待ち伏せていて襲撃したのが、二俣川の戦いの実像ではないか、と推論しており、その傍証としてこの戦いの伝承地が二俣川の渡河点付近に集中していることを挙げています。
実際、遭遇戦ならば崩れ立った畠山勢は進軍して来た尾根方面に逃れようとする筈で、渡河点付近に伝承地が集中しているというのは、畠山勢が義時らの軍勢に待ち伏せされた、という西股氏の推測を裏付けるものと私も考えます。
そして、更に怪しさを覚えるのが、北条義時が鎌倉に帰還した日時です。
二俣川の戦いが行われたのは6月22日の午後ですが、北条義時が鎌倉に帰還したのは6月23日の午後、未の刻のことになります。
二俣川の戦いの地から鎌倉までは約16キロ、少なくとも義時らの軍勢は二俣川の戦いの後で、その場に留まって一泊し、更に午前中のそれなりの時刻、辰の刻過ぎから巳の刻頃までは二俣川近辺にいたと推論されます。
(6月なので不定時法のこの頃は、昼間がそれなりに長くなります)
何故に義時らの軍勢は、そんなに長く、二俣川の戦いの場に留まっていたのでしょうか。
これまた、西股氏の推論ですが、畠山勢の殲滅を行うために義時らの軍勢は留まったのではないか、その傍証として、畠山勢に捕虜はいないようで、討ち死にした数だけが「吾妻鏡」に挙げられていると指摘しています。
実際、この当時の合戦の通例として、合戦の際に傷ついて捕虜が出るのは当然の話です。
それなのに畠山勢に誰一人、捕虜がいなかったとは。
それだけ畠山勢が勇敢に戦った証と言われるかもしれませんが。
そう言われれば、と私にも怪しく見えてならない話です。
それに義時らにとって気に染まない戦いだったのなら、尚更、畠山勢の殲滅を図るのには違和感を覚えてなりません。
以上、4話を掛けて、畠山重忠の生涯に感じるモヤモヤを述べてきました。
勿論、明確な根拠はなく、単なる私の考え過ぎなのかもしれません。
ですが、どうにも私は違和感を覚えるのです。
すみません。
4話と予告していましたが、まとめを投稿するので、5話になりました。
ご感想等をお待ちしています。




