1947独立戦争謀略戦2
第一次欧州大戦終盤頃から日本帝国の農商務省が強引な農地の整理を行うことが可能であったのは、農村部に広がる先行きへの危機感を利用していたからだ。
急速な工業化の進歩に農村が取り残されるという予感があったからこそ、地主達もどうしても整理による有利不利が生じる田畑形状の変更や交換に応じたのだ。
それにこの時期は、民主化運動が広まっていった戦間期と比べると国家が強権を発動させることを容認する条件が揃っていた。世界大戦の戦場は遙か欧州に限られていたとはいえ、日本帝国は少なくない戦力を派遣しており国内も戦時体制に置かれていた。
輸出用トラクターを転用した農村部の改良といった荒療治が可能だったのもこの時期しか無かったのではないか。
もし農村の機械化が実際よりも遅れていれば、各農家が勝手に農業機械を導入することになって、区画整理が不十分なままで機械化による効率化の恩恵を十分に受けられなかった筈だった。
日沙商会が運営するサマラハン農園において15年ほど前に日本人農家の組織的な入植が行われた時にサラワク王国政府が当初期待していたのは、日本本土で行われていたような農村の機械化による能力拡大にあったのではないかと谷技師は考えていた。
元々サラワク王国が日沙商会に要請していたのは米の生産量増大を狙った農業支援だった。その頃はまだ谷技師が入社する前だったから詳細は知らないが、来日したブルック王家の関係者から直々に日沙商会に依頼があったらしい。
本来この土地で主食となっている米の自給能力に関してサラワク王国には苦い経験があった。
第一次欧州大戦では英国の保護国であるサラワク王国にも相応の協力が求められていたが、大人口を抱えるインドなどとは違って原生林が広がる同国の人口密度は低く、兵力の供出は実質上不可能だった。
身分を隠した国王が1英国人として前線に赴くといった冒険譚はあったが、サラワク王国が国家として行ったのはゴムなどの物資の供与に留まっていた。
ところが、大戦の余波は意外なところからやって来ていた。周辺地域を含めて戦時体制に入った結果、食糧などの必需品である物資が不足してしまっていたのだ。
周辺地域から食料を輸入するのは難しかったし、サラワク王国の現地人が行う農法は原始的で生産性が低かったらしい。サラワク王国が日本式農法の導入を日沙商会に求めていたのはこの時の飢餓の記憶があったからだ。
だが、結果的に見て日沙商会による稲作事業は失敗と言ってよかった。サマラハン農園に併設されていた田圃の収穫量は期待を大きく下回っていたし、入植した日本人の大半は離農してこの国を去ってしまっていたのだ。
失敗の原因はいくつかあった。日本本土と赤道近くのサラワク王国では自然環境が大きく違っていた。しかも同地ではスコールなども多く発生していたのだが、その環境の差にも関わらず科学的な知識に乏しい入植者は日本にいたのと同じような農法を行うばかりだった。
初期入植者達の認識からして誤っていた。社内関係者の伝手を使って集められた入植者は沖縄の離島出身者ばかりだったが、彼らはすでに耕作地は田畑の形になっているものと考えていたらしいのだ。
実際にはサマラハン農園に新たに設けられた田圃は原生林からの伐採作業こそ済んでいたものの、倒木の処理から進めなければならない未開の地でしか無かった。
耕作作業用に何台かの耕運機が用意されていたのだが、悪い事に初期の入植者は誰も使い方を知らなかったらしい。
日本本土と比べると沖縄の工業化は遅れていた。日本本土で工業化が進んでいたのは、大規模な発電所や出入荷用の港湾施設を持つ沿岸部か、内陸部でも整備された主要道路や鉄道で港湾部に容易に到達できる地域から始まっていた。
主要港から遠く離れた上に資源地帯でもない沖縄は工業化の条件に当てはまらなかったから、機械化の切っ掛けとなる農村からの人口流出も起きていなかったのだ。
裏を返せば沖縄諸島では農村の機械化は本土ほど進んでいなかった。高価な農業機械を導入するよりも溢れているほどの人力を投入したほうが効率が良かったのだ。
初期入植者達は沖縄離島の農民として平均的どころか貧民層であるものが多かった。そうでなければ住み慣れた土地を出て南洋に旅立とうとはしなかっただろう。
当然農業機械に触れていたものも居なかったから、工業地帯に隣接する農村では当然のように使用されている耕運機の使い方に慣れたものもおらず、稲作に適さない状態のまま強引に田植えされた田圃の収穫効率を悪化させる原因となっていた。
サマラハン農園の稲作部では次第に入植者達に間に不満が募り、契約を破棄して日本に帰国するものも出ていたが、谷技師が日沙商会に入社したのもこの時期だった。
元々、谷技師は技術者として雇用されたわけではなかった。それどころか今でも公的な免許は何一つなく、技師という肩書も何となくサマラハン農園に派遣されてきた本職の技術者の助手を兼任している間に作業内容を覚えていたら社内で技師扱いされていたというだけの話だった。
谷技師は生まれは日本本土だったが、幼少期を過ごしたのはサラワク王国から東シナ海を挟んだ対岸に位置する英領マレーだった。日英関係が良好な為か同地には日本人の商会などもかなり進出しており、谷技師の父親が営んでいた理髪店の様に日本人社会相手の商売も多かった。
その後は高等教育は日本本土で受けさせるという父親の方針で一度帰国して学生生活を送っていたのだが、そこで谷技師はマレー語が喋れるということで対岸のサラワク王国を活動範囲とする日沙商会に雇われていたのだ。
当初谷技師の仕事は通訳だけだった。将来的にはサマラハン農園で行われている稲作は現地人に広く伝えなければならないから、マレー語に精通した谷技師が雇われたのだが、実際には稲作の行き詰まりを受けて耕運機やゴム園で使用される機械類の修理や保守の方が仕事は多かった。
第二次欧州大戦が勃発したことでそれ以前から行き詰まっていた稲作事業は殆ど中止されたようなものだった。
第一次欧州大戦と同様にゴム製造の需要は大きく増大し、買取価格も上昇していた。農業従事者を含む国内の労働者も雪崩を打つようにゴム農園に向かっていた。
そのまま手をこまねいていれば先の大戦同様にサラワク王国全土に食糧危機が訪れる筈だったが、実際には20年前とは状況は大きく変化していた。ゴムの輸出と引き換えにするように食糧の大規模な輸入が行われていたからだ。
第二次欧州大戦中にサラワク王国に輸入された食糧品の多くは、満洲共和国で生産された麦や高粱だった。従来主食とされている米と比べると馴染みのあるものではなかったが、生産量の減少した米と混ぜられて炊飯される他に、首都クチンなど沿岸部を中心に満州風の食文化も輸入されているようだった。
一国を賄うとまではいかないものの、食糧の大規模な輸入が可能となったのは2つの理由があった。その1つは言うまでもなく満州における食糧生産量の増大だった。
この時期、満州には大きな政治的変動があった。日英露の支援を受けた奉天軍閥が満州地方の他勢力を糾合して満洲共和国の樹立を宣言していたのだ。
その背景にはモンゴルを足がかりに満州地方に盛んに侵入を図っていた共産主義勢力への対応というものがあったのだが、清朝時代から混沌として治安の乱れていた満州地方に強力な中央政府が誕生したのは紛れもない事実だった。
中央集権化を推し進める満洲共和国は、従来の軍閥や馬賊の寄り合い所帯であった軍事力を近代的な国軍に改めると共に、国内に跋扈する匪賊を討伐して武装解除していったが、これによって国内には余剰となる元兵士が溢れていた。
奉天政権は放っておけば治安悪化の原因ともなりかねないこの元兵士を、新たに開墾した集団農場に放り込んでいた。満州共和国の建国後に導入された日本製の土木機械と兵士くずれという労働力を集中投入することで、これまで手付かずであった荒蕪地を耕作地に変換していたのだ。
満州共和国の集団農場化はやはり時期が良かったのだろう。日本本土で行われていた農村機械化の過程で得られた教訓を反映させる事ができたし、近年急速に発展していた化学肥料の導入も大規模に可能だったからだ。
反共を掲げた満州共和国の集団農場は、皮肉な事に共産主義国家に多く見られる体系の大規模農場だったが、兵士達の帰農によって次第に通常の農村に近づいていった。
ただし、満州共和国の集団農場化にはある視点が欠けていた。国内で消費するには人口に比して増大した収穫量が過剰であったのだ。陸続きのシベリアーロシア帝国に輸出する分を除いても相当量が余剰となってしまう計算だったらしい。
実はこうした傾向は以前米国でも確認されていた。機械化による効率化によって増大した収穫が過剰生産となって麦などの穀物取引価格を著しく押し下げていたのだ。
しかも耕作機械の購入によって農家の支出は増大する傾向にあった。それ以前の牛馬を用いていた耕作では家畜の糞尿を堆肥に利用できたのだが、機械化によって馬匹の代わりにトラクターを導入した農家は更に燃料や肥料も購入しなければならなかった。
米国中部の開拓地では農業収入の減少を受けて離農して西海岸などを目指す貧民が続出していた。放棄された耕作地からは乾燥した土壌が強風の度に巻き上げられて黒い嵐が発生していたという話だった。
農村からの人口流出によって否応なく機械化を図っていた日本本土とは大きく事情が異なっていたのだ。
後発で農村の機械化が始めた満州共和国では、米国中部の惨劇を横目で見ながら農作物の価格を維持するためにも輸出先の開拓が進められていたのだが、幸いなことに同時期に画期的な発明があったことで輸出の進展が見られていた。
従来は穀物の長距離輸送は効率が悪かった。満州各地の農場で収穫されて脱穀などの過程を経て出荷状態にされた穀物は、輸送、保管用の布袋に詰め込まれた後に人力でトラックに詰め込まれていた。
よほど大きな農場で専用の引込線でもない限りは最寄りの貨物取り扱い駅で貨車に詰め替えられるが、これも何キロもある布袋を何往復もして人力で詰め替える重労働だった。
仮にこの工程を起重機などで機械化したところで最小単位が不揃いな布袋の時点で効率が上がるはずも無かった。
シベリアーロシア帝国向けを除くと満州共和国の場合はここから更に輸出穀物は海上輸送されることになるのだが、これが鉄道貨車以上に厄介な荷役作業となっていた。
鉄道の貨車と比べても貨物船に載せられる貨物は多いのだが、それだけに一隻の貨物船の船倉を空にして再度満載にするには熟練労働者の集団と途方もない時間が必要だった。
沖仲仕と呼ばれる港湾労働者の仕事は、単に船に荷物を積込むだけではなかった。港の倉庫にしまわれた雑多な荷物の重量を見ながら船毎に形状が異なる船倉の中にバランス良く荷物を積まなければならないのだ。
港湾都市に住み着く沖仲仕の仕事内容は、何百年の前の大航海時代と比べても大きくは変わっていないのではないか。貨物船の高速化、大型化が進んでいるにも関わらず荷役作業の効率がほとんど変わらないものだから、航路によっては航行日数よりも港で荷役作業中の期間の方が長いほどだった。
この状況を一変させたのは日沙商会の親会社である鈴木商店系列のある会社が開発した新手法だった。




