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魔人の花嫁  作者: 秋月 忍
第一章 呪われた生
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呪われた生

 月が出ていた。

 イリスは白いネグリジェに着替え、城の中庭を歩く。レイナス川から引いた水が、さらさらと音を立てて流れている。満月に照らされた水面が僅かに光を反射していた。

 夜の空気はひんやりとして、肌を刺す。それにもかかわらず、イリスは、石に腰を下ろすと、白い足を冷たい水の中に浸した。水は、氷のように冷たく、足は痺れるように痛い。

ーー馬鹿みたい。

 そう思いつつも、足を水につけたまま、ぼんやりと月を眺める。

 水の冷たさが、自分を清めてくれるような気がする。そんなことは無意味と知っていながら、足を浸し続けた。

「イリス公女?」

 痺れるような感覚に身をゆだねていたイリスは、男の声で我に返った。

「ゼクス殿下」

「何をしている?」

 イリスの足が水に浸かっていることに気づいたらしい。

「お気になさらないで。ただの気分転換ですから」

 イリスの言葉を聞かず、ゼクスは問答無用で、駆け寄るとイリスを抱き上げた。

「夜更けに水遊びをするには、寒すぎる」

 怒気すら感じる口調だ。突然のことに、イリスは抵抗できず、ゼクスの肩に顔をうずめる格好になった。鍛えられた厚い胸板を通して伝わるゼクスの温もりを意識して、イリスの鼓動が早鐘のように打つ。

「部屋まで送ろう。早く火にあたったほうがいい」

 暖かな優しさがこもった言葉に、イリスは戸惑う。甘い感覚に酔いそうな自分に、感覚のなくなった冷たい足が、理性の警笛を鳴らした。

「大丈夫です。降ろしてください」

 イリスは、冷たい足に意識を集中する。このままゼクスの腕に抱かれていたいという、甘い幻想を必死で振り払った。

「ーーしかし」

「そこのベンチに降ろして下さい。お願いです」

 しぶしぶといった顔でゼクスは、イリスの身体を中庭に据えられたベンチの上に座らせてくれた。

「ありがとうございます。大丈夫。もう無茶なことはしませんから」

 内心の感情を悟られまいと、取り繕って笑おうとする。だが、ゼクスの大きな黒い瞳に射抜かれた。イリスの強がりを完全に見抜いている。

「ごめん。足を触るぞ」

 言いながら、ゼクスの手が、イリスの足に触れた。固い指の温もりが遠くに感じる。

「氷みたいに冷たい。なぜ、こんなことを……」

 ゼクスは眉根を寄せる。呆れているのだろう。

 なぜ、と言われても、この行動に意味がないことくらいイリスも知っている。説明するのは難しい。

「俺に、できるかどうかはわからないが、目を閉じてくれないか?」

 ゼクスはイリスの両足に手をのせた。イリスはゼクスの意図を知り、一瞬ためらったが、瞳を閉じて全てを委ねた。

「我が血に流れし聖なる血よ。命の光を」

 ゼクスの唇から呪文がこぼれる。驚くイリスの足に、ゼクスの手から、暖かな春の陽だまりのようなものが流れ込んできた。

 どくん、とイリスの心臓がなる。先ほど感じたゼクスの暖かな温もりに全身が抱かれているような感覚。イリスが思わずその温もりに身を任せると、びくんと、ゼクスの手が震え、ギュッと足が握りしめられた。途端、イリスの全身は、感じた事のない甘い解放感に満たされた。

「あっ」

 思わず、息が漏れる。解放感が全身からぬけていくまで、イリスは微動だにできなかった。今まで、癒しの魔法をかけてもらったことはあったが、こんな感覚は初めてだった。

「できたようだ」

 ゼクスは、温かみの戻ってきたイリスの足から手を放す。

「たった一度だけ体験しただけの魔法なのに」

 驚くイリスに、ゼクスは得意げに笑った。

「ちょっと、自分の中で仮説を立ててみた。出来たところを見ると、意外と当たっていたみたいだな」

「どんな?」

 イリスの問いに、ゼクスの顔が少し赤らむ。

「まだ、言えない。その、かなり適当な仮説だから」

 イリスは自分の足を触り、その感覚を確かめた。

「ゼクス様は、やはり天才ですね」

 何度説明しても、使えるものが少ない魔法を、ただ一度体験しただけで自分のものにしてしまうゼクスの才能にイリスは感心した。

「それより、なぜ、水に浸かったりしていたのだ?」

 思い出したように、ゼクスが怒りを込めてイリスに問いただす。

「意味はあまりないです。ただ……」

 イリスは蒼い月を見上げる。イリスは甘い夢から現実に引き戻された。

「穢れている自分を清めたい、それだけです」

「清める?」

 不思議そうなゼクスに、イリスは頷いた。

「もちろん、無駄なことはわかっています。どんなことをしても、この傷がある限り」

 イリスは左頬の傷を指をさす。

「私のこの傷は、魔傷痕。魂にまで刷り込まれた、魔人レザルがつけた所有物の証。彼を倒さない限り、私は彼の所有物です」

 冷静さを保とうとすればするほど、イリスの目から涙があふれる。

「レザルは私を花嫁と呼びました。それが人の世の妻と同じなのか、単に凌辱する対象なのか、それとも単に魂を喰らうだけなのか誰も知らない。呪われた生を生きるより、死ぬ方が皆の為になると思う。魂なんてどうなったって構わないとも思うけど、それでも……」

「もういい。何も言わなくていい、イリス」

 震えるイリスの肩をゼクスが抱き寄せた。

 青白い月が二人を照らす。イリスの涙をゼクスの指がそっと拭う。

 その手を拒絶しなければと、イリスは思う。思いながらも、ゼクスの優しさを振りほどけない。

「俺が、封印石について知りたいと言わなければ、君をこんなふうに追い詰めることはなかった」

 ゼクスの言葉に後悔が滲むのを感じて、イリスは首を振る。

「封印石の真実を知りたいのは、私も同じです。魔人レザルの姿をお見せしたのは、誰も知らない封印石の現実。次期皇帝陛下に、私ができる唯一の忠誠とお受け取り下さい」

 イリスは、ゼクスの手をほどき、ゼクスの前にひざまづく。その手を取り、しかめっ面でゼクスは再びベンチに座らせ、自らも隣に座った。

「今日は俺の知っている価値観を覆すことばかりだ」

 明るい口調でゼクスはそう言った。

「ラパ茶も、癒しの魔法も、封印石……そして、イリス、君も」

 言いながら、ゼクスは首を振り、立ち上がり、イリスに背を向ける。

「皇太子という立場を考えれば、俺は、君と距離を置くべきなのかもしれない」

 ゼクスの言葉は棘となり、イリスの胸に突き刺さる。封印石に近づけない魔人の所有物である公女など、帝国の次代の要となるべき皇太子が許して良い存在ではない。

「私は、近いうちに公女を退くつもりです。そして、国を出ます。ゼクスさまの戴冠式に参列できないのは残念ですが、お目にかかることはもうないでしょう。私の呪われた生でお気持ちを煩わす必要はありません。今夜はお話しできて、光栄でした」

 別れの言葉は、思いのほか辛く感じた。それでも、イリスは懸命に笑顔を作る。走り出して、逃げ出したい気持ちもぐっとこらえた。

「違う。そうじゃない」

 ゼクスは、振り返った。全てを射抜くような瞳で、イリスを見つめる。

「もし、君が嫌じゃないなら、君に苦痛を与えるかもしれないけれど、いっしょに来て、封印石の謎を共に解いてほしい」

「え?」

「帝都の封魔士が束になっても、君の発想の柔軟さに勝てる者はいない。建国以来の謎を解くには、君が必要だ」

「私は、封印石のそばに行ってはいけない女です」

 熱心なゼクスの口調に、イリスは、戸惑う。封印石以上に、貴男の傍にいてはいけない。その想いは、胸が張り裂けるほどに、痛い。

「君は知らないだろうが、封印石というのは、場所ごとに少しずつ形が違う。どこでも魔人が見えるとは限らないし、君が望まないのであれば、封印石そのものは見なくても構わない。ただ、俺やレキナールの話を聞いて、共に考えてくれれば、それでいいんだ」

 イリスは、必死で首を振った。心の奥底の痛みを絞り出す。

「私のような汚らわしくて呪わしい人間が、どんな理由にせよ、ゼクス様のような方の傍らにいるなど、許されるわけがありません」

「イリス」

 ゼクスは、イリスの名を呼ぶと、手を伸ばし、銀色の髪に触れた。

「君は、汚れていない。君ほどに澄んだ目をした女性に会ったことが俺はない。自分を卑下するのはやめろ」

 ゼクスの指がそっとイリスの左頬に触れる。

「魔人が勝手に、君を選んだだけだ」

「ゼクス様」

 イリスの唇がわななく。

「ゼクス様は、私が恐ろしくはないのですか?」

「怖いさ。だが、たぶんそれは、君の言う意味ではない」

 ゼクスの手が、優しくイリスの髪をなでる。

「即答は無理なのもわかっている。たぶん、ラキサス公もレキも反対するだろうな」

 ゼクスは頭を掻いた。

 中庭の木々の葉に、夜露が降りて、月光に反射している。

「答えは俺が出発するまでにくれればいい。今宵は冷える。もう、部屋に戻ったほうがいい」

 イリスは素直に頷いた。冷たい風が、身体を冷やしていたが、心は寒くはなかった。

「それから…これは、余計なことだが」

 ゼクスは暗い中でもわかるほどに、顔を赤らめた。

「男の客人がいる時に、そんな恰好でここを徘徊しない方がいい」

 イリスは自分の姿を思い出したように見る。

 薄物の白のネグリジェは、大きく胸元が開いており、胸の谷間がくっきりとわかる。滑らかで柔らかな服地は、下着をつけていない無防備な二つの乳房を艶めかしく包み、くびれた腰の曲線を描いていた。魔人の事で茫然自失の状態だったとはいえ、若い女が人前に出られる格好ではない。

 イリスは今さらのように顔を赤らめ、胸元を隠した。


「賛成できる訳はないでしょう」

 翌朝。ゼクスの話を聞いたレキナールは、開口一番にそう言った。

「イリス公女は、封印石の結界を綻ばせてしまうのですよ。それがわかっていて、封印石の前に立たせるのは危険です」

 レキナールの言葉は予想したとおりのものだ。

「そもそも、公女自身、大変なストレスなはず。誰のためにもなりません」

 レキナールの口調がきつくなる。

「確かに、イリス公女は聡明で見識も深い。封印石の謎を解く大いなる助けになるかもしれないという、殿下の言い分もわかります。しかし」

 レキナールは、息をついた。

「公女を連れていきたい理由は、本当にそれだけですか?」

 その言葉に、ゼクスは答えない。

「皇太子としてのお立場をわきまえておられますか?」

 レキナールの口調がきつくなる。言葉以上に、ゼクスの身を案じているのも、ゼクスは知っている。知っているが、譲歩する気にはなれなかった。

「何が言いたい?」

「はっきり申し上げます。イリス公女は、あなたの妻にしてはいけない女性です」

 魔傷痕を受けた人物の記録はそんなに多くない。真実はどこにあるのか、推測するのは無理なのかもしれない。しかし、昨日ラキサスは言った。

 記録があるのは、七人。魔人を倒したのは、ただ一人。六人はそれぞれに生き死んだ。ただ、うち、結婚していた二人の死後、その伴侶は謎の死を遂げている。

 イリスが、誰にも嫁ごうとしない理由の第一は、そこにある。

「正直に言えば、救国の英雄であり聡明で人柄もよく、顔に傷があろうとも、美しいイリス様ほど、殿下とお似合いの女性は、私がお会いした中では誰もおりません。ゼクス様が惹かれるのも無理はないとも思います。」

 レキナールは首を振った。

「今ならまだ、ほんの少しの感傷で終われます。時を重ねれば、別れは一層辛いものとなるのではありませんか?」

 ゼクスは、窓の外を見た。中庭に植えられた花が朝日に照らされて、花開いている。

 月明かりの下、幽鬼のように中庭をさまよっていたイリス。自分は魔人の所有物だと言って泣いた彼女の肩を、抱き寄せずにはいられなかった。

「たぶん、レキの感覚は正しいと思う」

 ゼクスは呟く。それでも。

「陛下から頂いた帝位につくまでの猶予は、二十五になる三年後」

 三年のうちに、后を迎え入れ、帝位につく。帝位を望まぬゼクスに対して、封魔の技を納得するまで磨くように言ったファルタ帝。結界の謎は、ファルタが帝位につく前から抱いていた疑問だったという。

 だからこそ、ゼクスに時間をくれたのだ。

「呪われた生だと、イリスは俺に言った」

 昨夜、見た、美しくもおぞましい魔人レザルの姿が脳裏に浮かぶ。イリスは、いずれレザルのものになるのだ。そう思うと、胸が張り裂けそうになった。

「魔人を倒さねば、彼女の孤独も苦痛も癒されない。俺にその力があるわけでもない」

 封魔の術も、武術も、それなりに自信はある。だが、魔人は妖魔とは違う。たとえ、レザルを単独で戦いの場に引きずり出すことができたとしても、勝てる保証はほとんどない。

「せめて時間が許す限り、彼女に笑顔をつくってやりたい。彼女自身が穢れているわけでないことを伝え続けたいと思うことが、それほどまでに、罪なのだろうか」

 レキナールは、険しい顔で口をつぐんだ。さまざまな事がレキナールの中で渦巻くのが見て取れる。

「結界の謎を解明すれば、彼女の運命は、きっと変わる」

 保証はない。しかし、そんな確信がある。ゼクスは、レキナールの言葉を待った。

「一年間」レキナールは、そういって、指を立てた。

「一年だけです。そして、その間、イリス公女に指一本触れることはないと誓うことが出来るなら、私がラキサス公とイリス公女を説得しましょう」

「レキナール」

 ゼクスの笑顔に、レキナールは苦笑した。

「私とて、あのような方を、みすみす魔人にくれてやりたいとは、思っておりません。」

「……ありがとう」

 ゼクスの言葉をレキナールはますます苦々しい表情を作った。

「後悔なさるかもしれませんよ」

「お前の言うとおりだと思う」

 ゼクスは頷く。

「しかし、ここで彼女と決別しても後悔はする。それなら、自分のしたいことをしたいんだ」

 ゼクスの言葉に、レキナールは深いため息をついた。



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