悪魔が来たりて(2)
だが現実は――そうはいかない
(そんな言葉で、私を挫こうとしても)
前日、怯えて何もできなかった。弱いだけの人間だと、見抜かれた。そのせいでまた、こうして狙われる。
ファナはマグカップに手を伸ばして、掴む。中のコーヒーはまだ熱い。
椅子を蹴倒しながら振り返り、そこに立っているであろう相手に向けてコーヒーをぶちまけた。
ざあっと茶褐色の液体が広がり、正面の柱にぶつかって、ばしゃっと水音を立てて床に落ちる。
狙った相手は、そこにいない。
「いない?」
闇雲だったので、顔にかけるなどの急所狙いができるとは思っていなかった。それでも、騒ぎを起こしたり、相手を怯ませて時間稼ぎくらいできると思っていたのに。完全に、空振り。
どこへ行ったのかと、視線を左右に振る。
遠く。
暗い色合いのコートに、帽子をかぶった人影がさっと客の間を縫って小走りに立ち去る姿が視界をかすめた。
数日前の夜、ガレリアのレストランの階段ですれ違った相手を思い起こさせた。豊かに波打つ黒髪を背に流していた長身の男。アルベルトに声をかけ、ファナの姿を横目で見ていた人物。後ろ姿が、似ていた。
たった一瞬で走り去ったとすれば、あまりに距離が開いていたが、ファナの目にはもうその相手しか見えない。
「そこの、待って」
追いかけようとして前のめりに、走り出す。そのファナの目の前、除けられない至近距離に立った相手の胸に、どん、とまともに飛び込んでしまった。
額を打ち付けて、首まで衝撃。
何が起きたのか把握しようとして、顔を上げる。
「ああ、ごめんなさい。神官さま。お急ぎでしたか」
細かに波打つ茶色の髪を一本に括った、眼鏡の青年が立っていた。
秀でた額に、柔和なまなざし。くっきりと彫りの深い顔立ちに通った鼻筋が端整な印象だが、整っていても冷たく感じないのは、笑みを浮かべた優しげな口元のせいと思われた。
「こちらこそ。前をよく見ていなくてすみません」
ファナは素早く言うと、急ぎます、と断って立ち去ろうとした。
青年から視線を逸らしたそのとき、コーヒーの色にまだらに染め抜かれたジャケットが目に入った。右利きのファナがカップを振り回せば、液体が描いた線はちょうどそういう被害を生むのではないか、と瞬時に理解できる。それは見事な、染み。布地がクリーム色だっただけに、茶褐色の痕は大変目立つ。
「……コーヒー、かぶりましたか。すみません」
(背後に変質者に立たれて、と言い訳しようにも、無関係なひとに被害を出した事実は変わらない……。やってしまった)
ちらっと目を向けると、帽子の男はもうどこにもいない。代わりに、血相を変えて走り寄ってくるアルベルトの姿が確認できた。
「僕も、ぼーっとしていたので。気にしないでください。普段、絵を描いていて、服を汚すことはよくあるんです。この染みも、僕の知り合いは模様だと思うでしょう」
のんびりとした声に、「ファナっ」というアルベルトの声が重なる。ファナはがっくりと肩を落としながら、アルベルトに顔を向けて口を開いた。
「コーヒー、こぼしてこの方にかけてしまったんです。お詫びを……」
「本当に、僕は構わないんですよ。それより、何かお急ぎだったのでは?」
自称絵描きの青年は、邪気の無い様子で微笑み、軽く首を傾げて尋ねてくる。
そのファナの隣に、表情を消し去ったアルベルトが立った。向かい合った青年と、身長はほとんど変わらない。二人ともファナからすると壁のように背が高い。
「連れが申し訳有りません。ファナ、何かあったのか。急いでいたというのは?」
丁重だが簡潔な物言いで青年に詫びてから、すぐにファナに確認してくる。
青年の前で何をどこまで話すべきか。悩みつつ、ファナはアルベルトではなく、青年の顔を見上げた。
「私の後ろに誰か立っていたのは見ませんでしたか。黒い帽子の」
「誰か、ですか。本当に僕はただの通りすがりで、そちらのテーブルに注目していたわけではないので、見たとも見ていないとも……記憶になく。お役に立てず、すみません」
(……走り去る人影とすれ違ったなら、少しくらい覚えているんじゃないかと思うけど。ジャケットがコーヒーまみれになって注意が逸れていたなら、気づかないこともあるか)
問題の相手は見失ってしまった上に、目撃証言もなし。手がかりも残らなかったと残念に思いながらアルベルトにはひとまず人前ということもあり、無難に返事をする。
「背後から声をかけられて、びっくりして。相手の姿も確認していないんですが、話し方は昨日の相手に似ていました。声も、たぶん」
「どこにでも現れるんだな。ガリレオの姿が無いのは?」
「通りで騒ぎがあったので、念の為確認に席を離れていました。ほんのいっときのことです、すぐ戻るおつもりで向かったと思います」
そこで、連絡事項のすり合わせを終えて、ファナは立ったままの青年に向き直った。
「お召し物の件ですが、弁償をさせて頂けないかと思うのです」
「良いのに。と思ったけど、僕も貧乏絵描きだし、神官さまの負担にならない程度に何かお願いしようかな。その綺麗な黒髪が気になっていたんです。今度絵のモデルになって頂けませんか?」
「それで、埋め合わせになるとは思えないんですが」
ファナの前に、アルベルトがすっと身を乗り出すようにして立った。だめだ、と低い呟きをもらしてから青年に向き直る。
「その絵を、誰とも知れない相手に売りさばかれるのは良くない。他のことにしてくれ」
「売られるのが嫌なら、差し上げますよ。僕はただ、その綺麗なひとを描いてみたいだけです。それならお兄さんの神官さん? も納得してくださいますか」
「納得も何もない」
アルベルトはすぐさま青年に言い返す。
背後に追いやられていたファナは、アルベルトの影から顔をのぞかせ、相手の染みだらけのジャケットを見てため息をつく。そして、アルベルトのスータンの脇腹あたりの布を軽く引っ張って、「悪いのは私です。折れてください」と訴えでた。
絶対にだめだ。アルベルトの渋面にははっきりとその文字が浮かんでいたが、ファナの困った顔を見たせいか、唇を引き結んで押し黙る。
(厄介事を増やしてすみません)
心で詫びながら、ファナは青年に向き直り、具体的にいつどのくらいの時間を作れば良いでしょうか、と詳細を確認した。
青年は、一切の下心も裏もなさそうな慈愛溢れる微笑を浮かべてそれでは会う時間と場所をと話を詰めてから、名を告げてきた。
僕の名前はロザリオです、と。




