女神のもたらすもの(2)
無言で見つめ合う。
やがて、アルベルトがテーブルの上に左手を置いた。ファナの目を見たまま、手のひらを天井に向けて開き、静かに言った。
「ファナは俺に触れる?」
「私が、アルベルト様にですか?」
「そう。俺に人の心を読む能力があると知った上で、俺の肌に触れることができる?」
テーブルに置かれた手に目を落とす。馴染みがあり、見ただけでそれが誰の手かわかる。アルベルトの手。その手に、ファナは何度となく助けられてきた。先程、ナイフを向けられたときも、身動きできなかったファナを掴んで引き寄せて、守ってくれた。
身長差・体格差もあるが、自分の手とはずいぶん違う。指の長さも、大きさも。そこに自分の手を重ねたら、すっぽりと覆われてしまいそうだった。その光景を、感触を思い浮かべると妙に緊張してきた。
迷わぬうちに、ファナはアルベルトの手の上に、自分の右手をのせた。
勢いがついて、指と指が絡み、テーブルに縫い付けるようにアルベルトの手を力づくで押さえ込んでしまう。
「ファナ」
「触れますよ。私の大好きなアルベルト様の手です」
(いつも守ってくれる。私を大切なものとして扱ってくれる。私にとってもかけがえのない)
予想外だったのか、珍しく狼狽しているアルベルトに対し、ファナはにこりと笑いかける。指を絡ませたまま重ねて言った。
「心が読めると言うのなら、読んで頂いて構いません。私はアルベルト様に対し、隠し立てするようなことは何もありません。隅々まで調べてくださっても大丈夫です。私こそ、アルベルト様に『わからせ』てあげますよ、私のすべて。それでアルベルト様の心にかかった霧が晴れるのなら」
アルベルトの手からは力が抜けていて、ファナにされるがまま。指の先まで動かぬほど消耗しているのかと、心配になる。
繋いだ手から、自分の力が分け与えられたら良いのにと思いながら、さらに強く手を押し付けた。
少しの間を置いて、アルベルトが柔らかな苦笑を浮かべた。包み込むような、優しさで。
「俺にファナの心は読めないよ。能力を使って知ろうと思ったこともないから、それはそれで良かったけど。……躊躇いもなく、こんな」
呟きながら、手に力を込めてくる。アルベルトからも指を絡め取られ、ファナは軽く小首を傾げた。
「読めないんですか? その力は誰にでも有効というわけではなく?」
「俺の力はそんなに強くないんだ。これはかつて地上に下りた翼ある女神アタルガ、その血に連なる者に時折顕現するといわれる能力だが……、自分より強い能力者には効かない」
アイスブルーの瞳はファナをまっすぐに見ていた。ファナはその視線よりも、今しがた耳にした事実に素直に驚いていて、問いを続行した。
「アルベルト様は女神の血脈ですか……! たしかに、有翼種の痕跡を持つひとは時々生まれると聞きますし、神殿もそういった事実を否定しませんけど。そっか、アルベルト様……」
ふっと、アルベルトが笑みをもらした。下になった手をかるく持ち上げ、上に乗ったファナの手を弄びながら、ひそやかな声で言う。
「気にするところが違うだろ。俺はいま、ファナの話をしている」
「私の?」
「触れ合ったこの手から、ファナの力が俺に流れ込んでくる。すごくホッとする。能力を使った後のしんどさが嘘みたいに消えていく。ファナの力は綺麗で強い。俺よりもずっと」
「私はただ、いまアルベルト様が消耗しているなら、触れ合ったところから私の元気を奪っていってくれていいのに、とは考えていましたが……」
(アルベルト様の能力が、自分より強い能力者には効かないだなんて。それはまるで、私が)
きゅっと、力を込めて手を握られてから、指先で手のひらを内側から撫でられる。ファナは吐息して、アルベルトの顔を見た。澄んだまなざしに見つめ返された。
「つまり私も……、女神の血脈……? 何かきっかけがあれば、そういった力を使えるようになるということですか」
「そう。もっとも、それをファナに教えることに、俺はずっと慎重な姿勢を貫いてきたつもりだ。だけど、いつまでも隠してはおけないとも思っていた。俺がこうして、神殿の管理下で警察組織に協力を請われて受けているように、ファナも近いうちにその力を誰かに望まれる。そのときに、良いように利用されないために、自分の力をよく知っておく必要がある」
女神の血脈。伝説の有翼人種。不思議な力。
ファナは空いた手で自分の胸をおさえた。血の巡りが激しい。ドキドキと心臓が強く鼓動を打っている。座ったままだというのに、くらくらと目眩がしてきた。目の前が白と黒に明滅する。
瞬きごとに、現実の景色に重なって、覚えのない光景が視界に広がる。
二人の少年がいる。
ひとりは、白銀の髪の少年。完成された美貌はすでに、いまと何ほども変わらず、ただ幼さが残る。
もうひとりの少年は、濃い色の髪の持ち主。ついいましがたまで、この場にいた青年の面影がある。
青年となった彼らの面影と曖昧な記憶が重なった瞬間、記憶の中の少年たちの世界に色がつく。
(アルベルトさまと、ガリレオさん?)
少年たちが話している。自分の方を見ている。口が動いて何か言っている。聞こえない。
見られている自分は「ファナ」なのだろうか? この光景は誰の目を通して見ているものなのだろう?
ファナ、とひどく遠くでアルベルトに名を呼ばれた気がした。
(アルベルトさま……、私はここに……。どこかへ連れて行かれそうです、掴まえていて。私の手を)
声を出すことができず、心で願う。いつしか強すぎる鼓動も感じられなくなっていて、体の感覚そのものが消えていた。自分がいまどんな状態にあるかもわからない。
目を開けても、視界は真っ暗。現実の光景も、少年たちも何も見えない。本当に目を開けているかもわからない。
ここはどこ?
問いかけた刹那、いくつもの光景がめちゃくちゃに目の前を駆け抜けていった。早すぎてそのひとつひとつはまったく視認できない。覚えのあるものも無いものもあったように感じる。
立ち上がろうとした。
そのとき、鋭い痛みが背中に走って、ファナはその場にうつ伏せに倒れ込んだ。
ギシギシと、おぞましい音が背中から聞こえる。激しい痛み。血が噴き出す感覚。喉が裂けそうなほど叫び声を上げた。手足をおさえられている。身動きできないまま、ばきりと何かが折られた。
悲鳴すら、上げられない激痛。見開きすぎた目から涙が溢れる。
誰かの声を聞いた。
――翼ある乙女も、翼を切り落としてしまえば、ひとと変わらぬ。
意識はそこで、完全に途絶えた。




