第三章 2
戴冠の後は中庭に移動し、今日の良き日を祝う市民たちに向けて、ツィツィーの顔見せが行われた。敷地内に入りきれなかった人々が、城壁の外や大通りにまで溢れかえっており、ツィツィーはその賑わいに緊張しながらも懸命に手を振る。
特に元気よく飛び跳ねている姿に目を向けると、ディータの娘であるアンリが両手を高く掲げていた。ディータ自身は王宮内の警護責任者に任命されていたはずなので、付き添いの大人と一緒のようだ。
「陛下、見てください。アンリがあそこに」
「ああ、本当だ」
隣に立つガイゼルにこっそりと耳打ちすると、彼もまた懐かしむように微笑んだ。
ツィツィーはアンリに向けて精いっぱい手を振り返すと、再び他の歓声へと視線を戻す。そうして数刻ほどの披露を終えたツィツィーたちだったが、まだまだ休むには程遠かった。
「素晴らしきヴェルシアの母の誕生に――乾杯」
今度は王宮内の大ホールで、諸侯らとの食事会だ。
乾杯、と会場のあちこちからグラスが掲げられる。ようやく喉を潤せるとツィツィーが一口傾けると、薄金色の液体からしゅわりと泡が立ち上った。舌に絡む独特の味にアルコールだった、と後から気づく。
食事といっても挨拶の場であることに変わりはなく、上座に並ぶツィツィーとガイゼルの元には、ひっきりなしに貴族たちが訪れた。次々と交わされる謝辞と返礼、ガイゼルに忠誠を誓う声、ツィツィーに向けられる賛辞。
やがて現れた一組の夫婦を前に、ツィツィーはぱあと笑顔になる。
「陛下、このたびは誠に良き日になりまして、心よりのお祝いを申し上げます」
「カリダ公爵!」
嬉しそうなツィツィーの様子に、隣に立つサラ夫人もにっこりと相好を崩した。
「グレン、来てくださりありがとうございます」
「こんな素晴らしい日に当然でしょう。皇妃殿下も実にお美しい」
「ありがとうございます」
ツィツィーが丁寧に膝を折ると、グレンは感極まったかのように目を細めた。ガイゼルに向き直ると、穏やかな口調で告げる。
「わたしは……ずっと不安でした。公爵とはいえ、片田舎の領地しか持たないわたしが、皇子殿下をお引き取りして、本当にお育て出来るのかと」
「グレン……」
「ですがこんなにも、立派に成長なされた。もうこれ以上、何を望みましょう」
気づけばグレンの目は、艶々とした涙で満たされていた。ガイゼルもまた、グレンをしばらく見つめると、視線を落とし控えめに口を開く。
「――俺がここに立っていられるのは、お二人がいてくれたおかげです」
「陛下……」
「父に見捨てられ、兄たちに厭われた俺を、あなたたちは迎え入れてくれた。実の子と同じように叱り、愛してくれた。……本当に、感謝しています」
ありがとう、とガイゼルがゆっくりと口元を緩める。
すると涙腺が限界を迎えたのか、ついにグレンが嗚咽を漏らし始めた。サラもまた大きな目を充血させており、ハンカチで押さえながら何度も頷いている。
やがてグレンは呼吸を整えると、心の底から満足そうに笑った。
「陛下――どうか、皇妃殿下とお幸せに」
夫妻と別れた後、ガイゼルは隣に立つツィツィーを見て、一人眉を寄せていた。
「どうしてお前が泣く」
「だ、だって……なんだか感動してしまって……」
化粧を崩さぬよう、懸命に涙をこらえているツィツィーの姿に、ガイゼルはふ、と笑いかけた。指を伸ばすと、ツィツィーの目尻に残った雫を拭う。
「疲れただろう、少し休むか」
「い、いえ! まだ全然大丈夫で……」
「無理をするな」
「う、……は、はい……」
たしかに以前のお披露目会よりも招待されている貴族の数が多く、先ほどから息つく暇もない。
ツィツィーはガイゼルの優しさに感謝しつつ、会場からサロンの方へと移動した。すると避難した先でも見知った背中に遭遇する。
「あら、エレナ?」
「皇妃様!」
そこにはツィツィーたち同様、喧騒から逃れてきたシュナイダー兄妹とオルビットの姿があった。ルカはすぐさまガイゼルに向けて深々と腰を折る。
「これは陛下、本日はおめでとうございます」
「ああ」
残された二人も慌てて頭を下げた。三人揃っている様子を見て、ツィツィーはエレナから聞いた話を思い出す。
――エレナを思ってのこととはいえ、オルビットのしたことは間違いなく犯罪だ。
しかしティアラが無傷で完璧な保管状態であったことや、当のアスティル伯が被害の訴えを起こさなかったこともあり、騎士団の面々による丸三日間の厳重注意で解放されることとなったらしい。
だが『注意』という優しい言葉はまやかしで、実際は下手な罰金や軽懲罰よりも、遥かに堪える罰則だったという。
中でも特に恐ろしかったのが、熊も素手で締め上げられそうな屈強な体つきに、山男のような髭を生やした強面の騎士だったらしく――オルビットは生きて帰れる気がしなかったと、ガリガリにやつれた状態で釈放されたそうだ。
そんなオルビットはツィツィーの前に立つと、額が膝に付きそうなほど謝罪した。
「皇妃殿下、式典用の大切なティアラを、本当に申し訳ございませんでした……!」
「無事に戻ってきましたし大丈夫です。私の方こそ用水路から助けて下さり、ありがとうございました」
「こ、皇妃様……」
捨てられた子犬のような目をしたオルビットは、まるで聖母を見出したかのようにツィツィーを崇める。
だがツィツィーの隣から、研ぎ澄まされた刃のようなガイゼルの視線に貫かれ、一瞬で姿勢を直線に正した。一連の流れを見ていたエレナが、呆れたようにため息をつく。
「本当に……いくらわたしのためとはいえ、どうしてそんな無茶をしたんですか」
「ほ、他に思いつかなかったんだよ……ルカの奴は何でも完璧だし、……大体、新ブランドのデザイナーの話も言ってくれたら良かったのに……」
「聞かなかったのはお前の方だろう、オルビット。というか、まだ婚約者面しているようだが、そもそもあの婚約は両親が勝手に決めたもので、正式な手順を踏んで解消したはずだが?」
「で、でも、貴族ならいつかは結婚が必要だろうし、それにおれは、エレナのことが、ずっと、……」
次第にオルビットの語尾が弱くなる。すると何かが琴線に触れたのか、普段冷静沈着なルカが、珍しく苛立ちを隠しもせずにまくしたてた。
「ずっと我慢してきたが……結婚? ハ、馬鹿馬鹿しい! 家と家とのつながり? 身分? そんなものくそくらえだ! 婚姻など金がかかるばかりで何の得も利益もない! 無駄だ! 本当にエレナが好きになる男が現れるまで、俺は絶対に嫁にはやらんからな!」
「に、兄さん、声が大きいです……」
今まで決して丁寧語を崩さなかったルカが、オルビットに対してはくだけた物言いで反論している。
ツィツィーは一瞬理解が追い付かなかったが、エレナと同じく、ルカとオルビットも幼馴染――しかも同い年であるという話を思い出し、なるほどと手を叩いた。
だがそれにしても荒ぶっている、とツィツィーはこっそりエレナに尋ねた。












