第二章 16
(ごめんなさい……)
心配をかけたくないと思っての行動が、逆にガイゼルに不安を与えてしまっていた。そのことにツィツィーは深い反省と、同時にガイゼルがここまで思ってくれることに、言葉にならないほどの感謝を感じていた。
応接室の窓からは穏やかな陽の光が差し込み、室内は暖かい静寂に包まれている。ツィツィーは黒く美しい獣を撫でながら、そうっと彼の額に自身の額を近づけた。
(――私の心の声も、陛下に届いたらいいのに……)
ごめんなさい。ありがとう。
――すき。大好き。
言葉でいうのは簡単で、伝わらない感情ばかり。どうしたらこの思いが本物だと、ガイゼルに伝えることが出来るのだろうか、とツィツィーはもどかしさを募らせた。
やがて睫毛を押し上げたガイゼルは、物言わぬままツィツィーを瞳に映していた。水底のような濃艶な虹彩の中に、乞うような切望を感じ取ったツィツィーは、いざなわれるように顔を傾ける。
「――」
ガイゼルの唇が、ツィツィーに触れる。いまだぎこちない口づけは、少しの時間を置いて一旦離れた。
すると今度はツィツィーの方からガイゼルの頬を手に取り、再度角度を変えて重ね合わせる。
鳥のさえずりのような、短い水音が何度か落ちたかと思うと、ツィツィーは両手で、そろそろとガイゼルの顔を引き離した。ガイゼルは大きく目を見開いており、それを見たツィツィーは一瞬で顔を赤らめた。
(わ、私……全然だめだわ……)
一応ガイゼルの真似をしてみたのだが、まったく届かず、ただいたずらに入り口付近に触れただけで終わってしまった。それでも相当恥ずかしい、とツィツィーはいまさら自責の念に駆られる。
「へ、陛下、ごめんなさい、うまく出来なくて……」
「……」
なんとか誠意だけは伝わっただろうか、とツィツィーは反応を待つ。だがガイゼルは喜ぶどころか、何故か眉間に深い皺を寄せ始めた。しかも二本。なかなかの葛藤度だ。
(や、やっぱり、呆れられたかしら……)
完全に苦悩の表情を浮かべるガイゼルだったが、膝の上のツィツィーを改めて抱き直すと、頬に手を添えて上向かせた。強制的にガイゼルの目を見させられたツィツィーは、彼の瞳に込められた感情が大きく揺れているのを察する。
先ほどまでは、敬虔な信者が神の慈悲を待つかのごとくだったものが――今は完全に、獲物を前にした空腹の肉食獣のようで――
『もう無理だ。悪いが、あと一か月もないし誤差の範囲だろう。俺はよく耐えたと思う』
(誤差⁉ 誤差って何⁉)
ツィツィーの仰天を知る由もなく、ガイゼルは噛みつくようなキスを寄越した。
先ほどまでの優位はどこへやら。ツィツィーは受け止めるだけで精いっぱいになり、次第に上体がソファに傾いているのが分かる。
「――ん、」
時折ガイゼルが吐き出す息に、思わず声を上げてしまいそうになる。だが奮闘も虚しく、背もたれに押し付けられたかと思うと、ツィツィーはすぐに逃げ場を失った。
「ツィツィー……」
再び唇が近づいて来て、ツィツィーはもう観念するしかない、と強く目を瞑る。すると触れ合う寸前で、コンコンという乾いたノック音が響いた。
「――ガイゼル様。ランディ様から、火急の案件がありますので、王宮にお戻りいただきたいとの伝言が」
『ランディーーーー貴様またかーーーーー!』
今までで一番大きな心の声に、ツィツィーは反射的に身をすくませた。するとそれを怯えと感じ取ったのか、ガイゼルはすぐにツィツィーの体を解放する。
ドキドキと言葉を待つツィツィーを前に、ガイゼルは前髪をかき上げたまま「あー」「その」と何度か繰り返した後、絞り出すような声で
「……今後は、ちゃんと護衛を伴うように」
とだけ釘を刺した。












