第二章 13
「エレナ……オルビットの気持ちは、私も少しだけ分かります」
「皇妃様……」
「あなたの描いたデザインは、どれもすごく素敵でした。私のドレスを採寸している時も、ずっと真剣で……ドレスづくりが、本当に好きなんだと思いました」
「……」
「もちろん、世間に評価されることがすべてではないと思います。けれど……私は、懸命に頑張っている人はもっと、見つけてもらっても良いと思うんです……」
恥ずかしながらツィツィーも最初、このヴェルシアでは、女性のデザイナーというだけで敬遠されるかもしれない、という諦念は抱いていた。
だがこの国は今まさに変わろうとしている――他ならぬガイゼルの手によって。
(陛下のお話を聞いた時は、私も無謀かもしれないと思っていた………でも皇妃である私が、その変革を信じないでどうするの?)
どれだけの時間がかかろうとも、どれだけの人が否定しようとも。ガイゼルの望む、争いのない世界を生み出すためには、今、この一歩を始めなければ意味がない。
ツィツィーはスカートを押さえていた手を、ぎゅっと握りしめた。
「この国は変わります。私たちが、変えて、行きます。……どうかそれまで、エレナにも、自分の本当の気持ちを諦めないでいてほしいんです……」
残酷なことを願っている、とツィツィーは理解していた。
世の不条理と戦え、女性が働くことを認められない世界で、先陣を切れと言っているようなものだ。ツィツィーの言葉を聞いていたエレナは、何かに苦しむように視線を下ろした。今にも泣きだしそうな彼女を、オルビットもまた痛苦の面持ちで見上げている。
すると扉の方から、良く通るルカの声が飛び込んで来た。
「――申し訳ありません、なんだか入りにくい空気になっているようで」
「ルカ、お前……」
途端にオルビットの顔が険しく変貌した。
一方ルカはこの沈み切った空気を感じていないかのように、普段通りの流暢さで言葉を続ける。
「まったく……とっくの昔に婚約を解消したというのに、まだ付きまとっていたとは」
「あれは一方的な破棄だった! おれが真実を知ったから――」
「これはうちの問題です。君が口を出す権利など微塵もない。切羽詰まったあげく、泥棒の真似事までして――本当にいい迷惑です」
「――くそッ!」
今にも噛みつきそうなオルビットとは対照的に、エレナはルカが現れた時点で、すっかり畏懼していた。瞼を伏せ、唇を噛みしめるエレナを前に、ルカはすうと目を細める。
「エレナ。あなたのためを思って、罪を犯した男まで出てきた。おまけに皇妃様まで巻き込んでしまった……ちょうどいいから、この場ではっきりとさせておこう」
「……」
「あなたはどうしたいんです? あなた自身は」
「わたし、は……」
今にも消えゆく蝋燭のような、か細いエレナの声がたゆたう。ツィツィーもまた、祈るような気持ちで彼女に視線を送った。
すると一瞬だけ、エレナの瞳がツィツィーとぶつかり――すぐに瞼が伏せられた。
(エレナ……負けないで……)
長い静寂を経て、ようやくエレナが口を開く。
「わたし……一度でいいから、戦ってみたい……」
「――ほう」
「きっと兄さんのように人気は出ないし、全然売れないと思うけれど……わたしは、わたしの名前で、作品を、作りたい……」
一言一言が、涙の雫で出来ているようだった。
エレナが数年かけて蓄積させてきた苦しみや悲しみが、ゆっくりと溶けだしたかのような――彼女がこれを言うのに、どれほどの勇気を要したことか、ツィツィーの想像にも難くない。
エレナの言葉は限界を迎え、やがて途切れた。
ルカは静かに瞑目しており、彼女の言葉を反芻するかのように時を待つ。だがすぐに睫毛を押し上げると、それは美しい笑顔で微笑んだ。
「では、やってみなさい」
「――え?」
短く重なった声はエレナではなく、絨毯に座ったままのオルビットと、目を潤ませていたツィツィーのものだった。どこか気の抜けた二人の返事を受けて、さらにルカは嬉しそうに目を眇める。
「具体的には、今度立ち上げる新ブランドのデザイナーを、あなたに任せます」
「に、兄さん、急にどうして」
「別に思い付きで言っているわけではありません。……元々、そうする予定でした」
するとルカは胸ポケットから、小さな紙片を取り出した。以前ツィツィーも見せてもらった『Ciel Etoile』の名刺だ。くるりと返した裏面には『デザイナー/エレナ・シュナイダー』とはっきりと刻まれている。
「この国で女性として働くことには、いまだ大きなハンデがあります。実際、私の名前で売り出さなければ、最初の頃のドレスなど歯牙にもかけられなかったでしょう」
ですが、とルカはカードで口元を隠す。
「あなたが懸命に作り上げたドレスは、今や社交界垂涎の的だ。誰もが欲し、手に入れたがる。ここまで機が熟せば誰も――『女性が作ったから』などとくだらない理由をあげつらう者はいないでしょう。なにせ素晴らしい現物が、既に多くのご婦人方の手に渡っているのですから」
工房のドレスを買い求めているのは、貴族でも有力者ばかり。彼女たちが愛用しているものを、わざわざ批判するような命知らずはなかなかいないだろう。ルカは工房の発展を進めつつ、同時にエレナのデザイナーとしての土壌を作り上げていたのだ。
ツィツィーがルカの技量に感嘆する一方で、エレナは突然のことに事態を理解出来ないようだった。
「もちろん今までのドレスについても、私の方から公表します。多少泥を浴びる覚悟は必要ですが、話題性は間違いないからね。デビューとしては悪くないだろう?」
「兄さん……」
「……本当はもっと早く、舞台を用意してあげたかったんだけどね。遅くなって、本当にすまなかった」
苦笑するルカを見て、エレナはぼろりと涙を零した。
次々と溢れてくるそれを必死に手のひらで拭っていると、たまりかねたルカがそっと抱きしめる。するといよいよ感情が抑えきれなくなったのか、エレナは兄の胸の中で声もなく泣き続けた。
ツィツィーはその姿に、つられるようにして瞳を滲ませていた。












