第一章 6
軽く唇を開き、ついばむようにガイゼルはキスを何度か繰り返す。やがてツィツィーが息苦しさに顎を引くと、ようやく口づけの嵐を止めてくれた。
だが吐き出す息には明らかに欲が混じっており、ツィツィーはおずおずとガイゼルを見上げる。
ガイゼルもまた視線に気づいたのか、押し黙ったまましばらくツィツィーを眺めていた。だが突然強く瞼を閉じると、眉間に深い縦皺を刻んでしまう。
あまりの変わり身に驚くツィツィーに、必死になって自らを律するガイゼルの声が届いた。
『だめだ……あと一時間後には朝議がある……。それに昨日ランディから言われたはずだ……結婚式が終わるまでは、ツィツィーの体を労わるようにと……祝い事であっても、何かあっては困るからと……』
(私を労わる?)
疑問符を浮かべていたツィツィーだったが、隠された意味に気づいて再び赤面した。
もちろん無理をさせないという意味が大半なのだろうが――万一身籠りでもすれば、注文したドレスが着られなくなるのはもとより、式自体の開催も危ぶまれてしまう、と心配されているのだろう。
ガイゼルもその考えは尊重したいらしく、しばし苦悶する時間を置いた後、渋々といった様子でツィツィーの体を解放した。名残惜しそうにツィツィーの髪を撫でながら、少しだけ口角を上げる。
「先に寝てしまって、悪かったな」
「い、いえ! よく眠れましたか?」
「ああ」
ツィツィーも遅れて上体を起こす。ガイゼルはベッドの端に腰かけると、昨日投げ捨てた上着を拾い上げていた。
少しでも一緒にいたい、とツィツィーはせっせとベッドの上を移動し、ガイゼルの隣に並ぶ。
「昨日であらかたの仕事が片付いた。今後は以前のように戻れるはずだ」
「ほ、本当ですか⁉」
思った以上に喜色満面なツィツィーの声に、ガイゼルは苦笑した。ぴょんと跳ねたツィツィーの前髪を直してやりながら、軽く額に口づける。
臣下たちの前ではけして見せない穏やかな笑みの一方で、重罪を課せられた咎人のようなガイゼルの重い沈痛が聞こえてくる。
『半年か……俺は本当に耐えきれるのか……?』
(……へ、陛下……)
返事をするわけにもいかず、ツィツィーは出来るだけ顔色を見せないよう苦慮しながら、喜びと恥ずかしさに苛まれていた。
結婚式の話が出てから二週間。
儀典長から『ティアラに使う宝石が到着した』との報を受けて、ツィツィーは応接室に向かっていた。ガイゼルは隣国での会議があるらしく、今日はツィツィー一人での打ち合わせだ。
部屋に入るともふもふ眉毛の儀典長のほかに、見知った姿が目に飛び込んで来た。
「ヴァン! どうしてここに?」
「陛下から特別な指示がありまして。皇妃殿下の良きように計らうように、との厳命をいただいております。あとはまあ……護衛代わりといいますか」
「護衛、ですか?」
はい、と答えたヴァンは、ちらりと儀典長に目配せした。ツィツィーがソファに座ると、先ほどから手にしていた箱をそっと差し出す。
するとどこか得意げな様子で、儀典長が恭しく手振りを始めた。
「お待たせいたしました妃殿下。――こちらが『レヴァナイト』でございます」
「わあ……!」
ヴァンが蓋を開けた瞬間、ツィツィーは思わず嘆息を漏らした。
深紅のベルベット地の中央に鎮座する、大粒の宝石。澄み切った冬の夜空のような濃艶な青色をしており、ツィツィーが想像していた以上に、ガイゼルの瞳の色によく似ている。
オーバルにカットされた断面は、光の加減によって紫や白、金といった直線的なきらめきに溢れていた。
「いやはや、現物はまた実に見事な色合いで……。これでしたらきっと、妃殿下にも満足いただけるものに仕上がるのではと」
「はい……本当に綺麗ですね……」
手で触れる勇気はさすがになかったが、あまりに見事な美の結晶にツィツィーは言葉を忘れてしばし見入っていた。
美しいものには力があるというが、このレヴァナイトという宝石は、本当に人の心を惹きつけて離さない、桁違いの魅力を秘めているようだ。
男性陣もツィツィーと同じ気持ちだったらしく、儀典長もヴァンも、うっとりとその輝きに見惚れている。やがて咳ばらいをした儀典長が、資料を手にして読み上げた。
「それではこちらを元に、デザイン画を作成いたします。何か意匠などに希望がございますか?」
「す、すみません、あまり詳しくないもので……出来ればあまり派手でないものだと嬉しいです」
「分かりました。伝えておきましょう」
どうやらデザイン画は既にいくつか準備されているらしく、数日中に候補を持ってくるとのことだった。
儀典長の指示のもと、ヴァンが再び蓋を閉める。レヴァナイトの輝きは箱の中に封じ込められ、張り詰めた緊張の糸がふつと切れるようだった。
「それではこちらは、一旦王宮の金庫へと移動させておきます。また詳細を決める時にはご用意いたしますので」
「はい。よろしくお願いします」
「俺も責任重大ですよ。こうして持っているのも怖いくらいです」
そういうとヴァンは、はあと苦笑した。不在のガイゼルが心配して寄越してくれた、とのことだったが、まさか国宝級の宝石の騎士まで仰せつかるとは思っていなかったのだろう。
しかし儀典長と二人きりかと身構えていたツィツィーにとって、顔馴染みのある相手が同席してくれたのは本当に心強かった。ガイゼルに感謝しなければ。
「そう言えば陛下は、いつ頃戻られるのですか?」
「夕方には帰ると言っていました。無理をせず泊まるようにも伝えたのですが、聞いてくださらなくて」
やれやれ、と眉尻を下げるヴァンだったが、その口調はどこか楽しそうだ。
もしかしてガイゼルが昨夜のことを伝えたりしたのだろうか、とツィツィーは途端に気恥ずかしくなる。昨日の一件がそんなに堪えたのだろうか。
「陛下からしつこいほど『皇妃殿下の様子を逐次観察しておくように』と言われておりますので、これを置いてきたらまた本邸に戻ってきますね」
「す、すみません……よろしくお願いします」
ガイゼルの過保護が日に日にひどくなっている気がして、ツィツィーはそっと額を押さえた。
いくら信頼のおける人間が近くにいた方が良いだろうとはいえ、たびたびヴァンを巻き込んでは申し訳ない。
(陛下が戻ってきたら、大丈夫ですからとお伝えしましょう……)
ツィツィーの表情に何かを察したのか、ヴァンと儀典長は揃って微苦笑を浮かべた。












