第五章 4
さすがの言い分に、ツィツィーは眉をひそめた。
ガイゼルもまた不快感をあらわにし、ルクセンに対して渋面を見せる。だがルクセンは自らの所業を、悪いこととは微塵も認識していないようだった。
「――自分が何を言っているか、分かっているのか」
「当然でしょう! わたくしはディルフ様の右腕だった男です!」
ガイゼルに胸倉を掴まれたまま、ルクセンは氷の瞳を爛々とさせる。
「先代陛下……ディルフ様は素晴らしい王でした。圧倒的な暴力で多くの国を蹂躙し、奪い、そのたびに我らは潤った! ヴェルシアが、ここまでの大国となったのはすべて陛下のお力と、あまたの戦いがあってこそ!」
「貴様……本気で言っているのか」
「もちろんです。陛下は本気で、この大陸のすべてを支配するおつもりでした……それなのに志半ばで亡くなられてしまうなんて……」
そう言うとルクセンは、絶望を思い出したかのように、目尻に涙を滲ませた。澄んだ水のようだった美しい光彩は、今や過去の狂気と妄信に染まり切っている。
「ですからわたくしは、陛下のご遺志をかなえるためにも、この国を、世界で最も強い国にしなければ……。そのためにはイエンツィエも、他の国も、すべてを! 我々の支配下に置かねばならんのです!」
悲痛とも思えるルクセンの叫びは、まるで舞台の終焉を告げるかのようだった。
周りを取り巻いていた臣下たちは、自らの立場を恐れてか誰も発言しようとはしなかった。ツィツィーの隣に立つヴァンも、王佐の凶行ぶりに放心状態だ。
やがてその静黙を破るように、ガイゼルがぽつりと零した。
「――そのために、どれほどの命が失われると思っているんだ」
するとガイゼルは、ルクセンの拘束を乱暴に解いた。
突然支えを失い、バランスを崩したルクセンは絨毯の上にくずおれる。そんな彼を見下ろしながら、穏やかな――しかし威厳満ちた声でガイゼルは告げた。
「俺は、父と同じ王になる気はない」
「……そ、んな」
「無意味な侵略も、領地を奪う行為もだ」
「なんと、いうことを……」
「腑抜けな王だと笑うなら笑え。今まで我慢してきたがもうたくさんだ!」
ガイゼルは顔を上げると、怯える臣下たちにも目を向けた。
「先代ディルフ王はもういない! 俺は俺のやり方で、この国を守る。それが嫌な奴は、全員とっととこの国から消え失せろ!」
空気を震わせるほどの激昂に、事の成り行きを見守るばかりだった面々は、ひい、と肩を震わせた。ガイゼルは、伏せたままのルクセンを見やりもせず、大股で会議室の出入り口へと向かう。
「時間がない! 俺に従える奴だけついてこい!」
そう言うとガイゼルは、振り返ることもなく、再び戦場へと戻っていった。ヴァンは慌ただしく、すぐにその背中を追いかけていく。
一方で残された諸侯たちは、突然のことに対処に惑っているようだった。
「……わ、我々は、ど、どうしたら……」
「へ、陛下をお助けした方が良いのでは……」
「しかし……」
互いに目配せし、相手がどう動くのかを見計らっているようだ。それを見たツィツィーは、彼らに向けて静かに問いかけた。
ガイゼルの言葉が、煮え滾るマグマのような激情だとすれば、ツィツィーの言葉はそれを受け止める、透き通った氷の湖のようだ。
「……皆さんの心は、もう決まっているのではないのですか?」
「皇妃、殿下……」
「――私も行きます。失礼いたします」
同じくガイゼルを追って駆け出すツィツィーを、臣下たちは黙って見送っていた。すると一人の若い公爵が席を立ち、廊下へと飛び出した。それを見てもう一人、さらに二人の貴族たちが戸惑いつつではあるが、新しい皇帝の元へと続く。
いつしかほとんどの貴族が会議室からいなくなり、起き上がる気力を失ったルクセンは、一人がくりと膝をついていた。
戦いの場に戻ってきた三人を、各部の隊長格が出迎えた。
場所は半壊した塔の上で、眼下ではたくさんのヴェルシア兵が走り回っている。少し視線を動かすと、城壁周辺でイエンツィエ軍が蠢いていた。その数はこちらのおよそ倍はあり、ガイゼルは隊長の一人に短く尋ねる。
「状況は?」
「先ほどよりは随分とましになりました。ですが、こちらの兵士の数が圧倒的に足りません」
「負傷者も多く、援軍が来るまで耐えられるかどうか……」
「せめて、かつての騎士団長さまがいてくれたら……」
焦燥を浮かべる隊長たちを見て、ガイゼルはわずかに眉を寄せた。
「……援軍は来ない。俺たちだけでなんとかするしかない」
「なっ⁉ そ、それはどういう……」
だが説明をするよりも先に、城門側で爆発音が響いた。いよいよイエンツィエも最終兵器を投じてきたようだ。時間がない、と明らかな劣勢を知りながらも、ガイゼルは剣を地面に突き立てると、騎士たちに向けて声高らかに叫んだ。
「――聞け! 俺はヴェルシア第八代皇帝、ガイゼル・ヴェルシア! 今からお前たちの命、俺に預けてもらう!」
その声に、城内にいたすべての兵士がガイゼルを仰ぎ見た。中には戻りを知らなかった者もおり、逆賊のそしりを受けたはずの皇帝がいることに驚いている様子だ。
しかし黒い外套をたなびかせ、幾多の敵を切り払った長剣を手にするガイゼルの姿は――まさに『戦神の化身』と呼ぶにふさわしい勇猛さと高貴さを称えていた。
黒髪の合間から覗く目は、神に近い石と呼ばれるサファイアのような、ほの暗く、しかし実に見事な青色。瞳の奥からは怒りとも決意とも言い表せない、強い感情が滲み出ており、ヴェルシアの騎士や兵士たちは、その美しさと迫力に一様に息を吞んだ。
「我らが倒れれば、次に犠牲となるのは貴様たちの家族だ。愛する者を守りたいのなら、絶対にここを守り切れ! いいな!」
はっ! と短く、力強い声が城壁内に響き渡った。兵士たちの顔つきが変わったのを確認すると、ガイゼルは背後にいたヴァンに指示する。
「お前はツィツィーを礼拝堂へ連れていけ」
「承知しました」
「へ、陛下⁉ 私も」
「だめだ。俺が行くまで、そこに隠れていろ」
ですが、と言い淀むツィツィーを前に、ガイゼルはそっと彼女の手を取った。すくい上げ、その指先に口づける。同時にガイゼルの心の声が流れ込んで来た。
『――愛している。必ず、生きて戻るから』
「……陛下」
「ここは危険だ。早くいけ」
急き立てるように、ヴァンに手を引かれる。ツィツィーは後ろ髪を引かれるような思いで、ガイゼルを残し走り去った。二人の姿を見送ると、ガイゼルもまた隊長たちを引き連れて、自らの戦場へと向かっていった。












