3章15話 The Witch’s Memories Resonating with Doubt Stirred by Cthulhu
『その通り。あの者はいつか必ず、お前を見捨てるぞ? クリフよ』
「……!!」
クリフは体内の触手がぐにゃりと歪みながら心臓をなぞるような感覚を覚えて身を震わせた。
最も自分の心臓部分に近い場所に埋め込まれている触手が蠢くとき、クリフは死を覚悟する。
クトゥルーと意識を共有するそれは普段眠りについているクトゥルーが起きない限りは語り掛けてくることなどない。
触手が蠢く時はクトゥルーが果てしないまどろみの中で、気まぐれを起こした瞬間だ。
――いつか『これ』は、僕の心臓を確実に刺し貫いて殺すのだろう。
クリフはその確信を持っていた。すべての記憶を司る神のほんの気まぐれか、それとも分け与えられた力を自身で制御をできなくなったときに。
「クトゥルー。一体なぜ僕に語りかけてくる?」
『教えてやろう。ある記憶を……』
その瞬間、クリフの頭の中にあるヴィジョンが流れ込んできた。
一人きりで牢獄のなか、約束の日に兄を待ち続ける自分。
薄暗闇の中、どこからか足音が響いてくる。
だが、待ちわびてようやく来たのは……自分をついぞ愛してくれなかった、冷酷な父王の姿だった。
「なぜ!? あ、あの日は……兄さんが来たはずなのに……!」
冷酷な笑みを浮かべ、半神たちの命を犠牲にする冷酷な姿。
あふれる激しい憎しみと愛から、アダムから立場も何もかも奪って、半神にして首輪をつけた。どこにも行かせないように。
「こ、こんなのは知らない……僕じゃない!」
『どう違うのだ? お前は『やはり』、憎み、嫉妬し、奪い、縛る以外に人を愛する手段を知らない』
「ち、違う!! 僕はこんなの知らない!!」
クトゥルーの悪趣味な高笑いが響き続ける。
『そうか? ――これもまたお前の『真実』だ』
激しい混乱で頭が割れそうになる。
真実……? そんなはずがない。
今見たのはただの幻。だって、だって……兄さんはちゃんと僕を助けに来てくれたじゃないか!
クトゥルーは記憶を司る神。
戯れに、偽りの記憶を見せたのだろう。自分を痛めつけるために。
心をしっかり保たなくては……! この記憶を振り払わなければ!
クリフは途切れ途切れに宣言し、自分の心を必死で落ち着かせた。
「僕は……クリフ・クトゥルー・オールドワン……この国の王。クトゥルーの『嘆きの残滓』を制御しうる、強い意志を持つ!! まやかしを信じたりなんてするものか!」
そうしなければ、今にも体内の触手が暴走し、全てを壊しかねないと直感したからだ。
気づくと、触手の動きが止まった。
『そうか……ならばお前も『眠って』いるがいい……。『真実』から目を背けてな』
その言葉と共に、クトゥルーの気配はやがて消えていった。
クリフはそのことにほっとしながらも、穏やかでいられずに荒く息を吐く。
クトゥルーと意識が繋がり、破壊衝動に襲われるときは常に自分の意識の消失とのせめぎあいだった。
いっそ、神食によって壊されてしまったほうが楽かもしれない。そんな思いにとらわれてしまうほどに。
もう一人の創生神クトゥルーの『嘆きの残滓』は一人の人間が抱えておくには、あまりにも負担が重い。精神的にも、身体的にも、追い詰められていく。共存できることは一生ないのだろう。
クリフはそっと祈るように呟く。
お願い。誰か、僕のそばにいて……。
あまりに心もとない。誰でもいいから、隣にいてほしい。
兄さんが目覚めたのに、どうしてこんなにも不安で寂しいのだろう?
兄さんがさっき見た幻のように自分を裏切るなんてありえない。
それでもクリフの心のどこかには常に恐怖がある。いずれ目覚めたアダムに見捨てられるような気がしてならないのだ。
きっと、アダムが本当の自分を知れば、軽蔑されるし、失望されるだろう。
王として至らない自分を。うわべでは国民の為と言いながら、『忌神』の『嘆きの残滓』を移植した半神たちを酷使し続ける矛盾。
アダム以外の人間を本心では大切に思えない自分を。
組紐に仕込んだ装置で監視していなくては不安でいてもたってもいられない弱い心を。
この醜さを誰にも知られるわけにも、さらけ出すわけにはいかない。
ただ一人以外には……。
「相変わらず、寂しがりややな。血は争われへんようや」
煙の香りと共に現れた炎龍はそう言って微笑む。
だが今日は、それと同時に獣の血のような香りが交ざっていた。首元にはまたあの刻印が刻まれている。まだ新しいのか、それは赤い色をしていた。
「陛下、どうして僕のそばにいつでも来てくれるの?」
「さあ? 呼ばれたからとちゃうか?」
「呼んでいません……」
血の香りを感じながら確信する。
この人はきっと、僕たちと同じ、通常の世界で生きている人間ではない。
世界に消され、存在しないはずの忌神の『嘆きの残滓』を一体どこから得ているのか不明だが、何か合法ではない手段で手を汚していることは間違いない。ルルイエに協力するのも、自国の利益の為だ。
わかってはいても、クリフは不安を吐露せずにはいられなかった。
「兄さんが目覚めてから、余計に寂しいんです。ずっと話したかったのに。それが満たされたら、今度は失うのが怖くなる。兄さんがこの戦いで死んでしまうのも、僕から離れていくのも耐えられない……! やっぱり、ずっと眠っていてほしかった……。こんなの、王として失格ですね」
「ああ、一国の王としては風上にも置けんな。でも、ヘレナの息子としてなら話は別や」
アダムに見捨てられる幻を振り払うように、クリフは煙にまじった血の香りがする炎龍にすがりつくように抱きつく。
この男はそれを拒んだりしないとわかっているからだ。
母と同じ顔をした僕に、何も求めずに甘やかし続けてくれるから。
「母上も、寂しい時はあなたを呼んだ?」
「あいつに呼ばれたんは、たったの一度だけ。いつもは頃合いを見て会いに行くだけの、都合のいい男やった」
「それは母上が『魔女』だったから?」。
「ああ、魔女や。死してなお、永遠に人の心を離さない精霊……あながち、アーサーの言葉に間違いはなかったんかもな。クリフちゃん、お前はどう思う?」
その言葉には、炎龍らしくない哀惜があるような気がした。
「何がです?」
「お前の母、ヘレナがどんな存在だったか」
クリフは記憶を必死でたどろうとする。だが、いくら考えても彼女は国王を裏切った魔女の姿としてしか浮かび上がらない。
それ以上考えようとすると、気が狂うほどの頭痛やめまいに襲われてしまう。
痛みを恐れ、クリフは恐れながらもたどたどしく、記憶のはしくれを手繰り寄せようとする。
だが、記憶のかわりに辿り着いたのはある『感情』だった。
「幼い頃にはもう彼女は幽閉されていて、面倒を見てもらった記憶もありません。人から聞いた母の記憶しか、僕にはない。それなのに不思議と、僕はずっとあの人と一緒にいる気がする。一緒にいるというと、語弊がありますね。共鳴に違い感情です。母もきっと、寂しくてしょうがなかったんだと思います。焦がれ、愛した英雄には見向きもされず、気が狂ってしまったという話がどこまで真実かはわからない。でも……僕は孤独を感じるたびに、覚えていないはずの母の気配を感じる。きっと、彼女と同じ孤独を感じているから」
「つまり、今も……?」
「ええ。孤独を思うと、彼女がそばにいる気がする。ほんのわずかに……淡い幻のようにですが」
炎龍はその言葉を聞き終えてから、ゆっくりとクリフから離れる。そして煙管を再びくわえ、深く紫色の煙を吐いた。
「おおきに……『もろた』で」
「え……?」
「いや、こっちの話や。悪いけど、急ぎの用ができたから、ほなまたな」
そして再び、煙と共に炎龍は姿を消した。
クリフはその煙が紫色に光っていたことにわずかな違和感を覚える。
炎龍の吐き出す煙の色はその時々でよく変わるが、時折紫色のものが渦巻くことがある。それぞれの色の理由を彼が教えてくれたことは一度もない。
クリフ、そして母の目の色と同じだからか、あの紫にはなぜか、強く引き付けられてしまう。だが、理由を突き止めることもできないために尚更だった。
クリフは大きなため息をつく。いまだに見えない真実、一人ではなくなったことで生まれた新たな孤独と不安、そしてシールド崩壊の危機が迫りくる中、自分は王として、正しく執政できるのだろうか――?
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閉鎖された黒い箱のような一室に紫の煙が渦巻き、炎龍は再び顕現した。
「息子の『感情』との共鳴に紐づけた記憶とは、隠し方がうまいな。暗号秘匿魔術で作った小箱とは、やるやないか。これなら魔脳にも感知されへんからな。まったく……ようやく見つけたはいいけど、人をどれだけ苦労させるんや」
箱の中には無機質な細い丸テーブルがあり、その上には断片的な帳面が載っていた。
炎龍は震える手でそれを掴む。
その瞬間、また彼の首にはツタのような刻印が刻まれた。だが、慣れた痛みに炎龍は顔を歪めることすらしなかった。
「なあ。あとどれだけ、俺はいまだ孤独に眠るお前の『真実』を集めればいい……? ヘレナ」
そして、ゆっくりと古びたページをめくった。




