解けたのは魔法か呪いか
化粧をして自身を着飾るという行為は、わたしにとって魔法に等しい行為だった。
可愛い洋服を着て化粧をし終えたわたしは、いつも表面をぴかぴかに磨いてもらった綺麗な石になったような気持ちになる。実際はそこら辺にに転がる石ころにすぎないような自分でも、きらりと光る宝石になったような気持ちになれた。
鏡台の三面鏡の中にはわたしがいる。父譲りの黒目がちの瞳、スッと通った鼻筋、母譲りの薄い唇、すっきりとした目元。
肌は綺麗な方だから、日焼け止めの上に薄く薄く下地やファンデーションを塗っていく。主張し過ぎない程度に頬紅を乗せて、仕上げにおしろいをはたいて、それから唇に色付きリップを塗って完成だ。鏡の中には変身したわたしがいる。控えめにレースがあしらわれている白いブラウスに、空色のスカート。
姉は「中学生のくせにマセてる」とか「生意気」なんて言ってわたしの額を小突いたりするけど、わたしはそんなことを気にしない。
鏡の中のわたしは、元のわたしを完全に打ち消していた。
△
八月下旬、夏休み。その日のわたしは母親から命じられて近所のスーパーまで買い出しに出ていた。茹だるような暑さのなか、そこまで中身の入っていないエコバッグを肩に掛けて家までの道のりをひたすらに歩く。
せっかく化粧をしたのに、汗で台無しになってしまうかも。とか、ふとももに汗をかいてるからスカートが貼り付いて不快だな。とかそんなことを考えながら、早足かつ大股で家を目指した。
ふと、わたしの耳は蝉の鳴き声以外の音を捉えた。軽快なリズムの足音。初めは「この炎天下の中、ランニングをしている人もいるんだな。大変そうだな」と思ったのだけれども、やがてその足音の主は呼び声を伴ってわたしの鼓膜を振動させた。
「リーーツーー!」
知った声だった。周りに人がいないことを素早く確認して、振り向きたくない気持ちをどうにか抑えながらぐるりと振り向く。最後に会ったときと比べて、随分様相が違っていた。だからわたしは思わずその人を凝視してしまった。
半袖の黒いシャツにカーキ色の七分丈カーゴパンツ。大きなスポーツバッグに、あとそれから運動靴。わたしの前に駆け足でやってきたその人は「リツひさしぶり!」と言って太陽のような笑みを浮かべた。
「……ひさしぶり」
「買い物してたの?」
会っていなかった時のブランクなんて一切感じさせない、何でもないような顔でそんなことを聞いてくる。頷いて、そこそこ遠くから来たであろうその人に「うん。そっちは?わざわざこっちまで来て何か用?」と聞いてみる。するとやっぱりニコニコとした笑みが返ってきた。
「リツの家に用事があるんだ。だから会えてよかったよ」
ごく自然な流れで一緒に歩くことになった。ニコニコしている隣人の名前は深澄 明という。アキラは昔からの友達で、いわゆる幼馴染というやつだった。前まで家が近所だったのだけど、わたしが引っ越してしまったから最近はなかなか会えていなかった。
「何の用事?」
聞けばアキラは少しだけ視線を宙にさ迷わせた。これは言いづらいことを言う前のアキラの癖だ。
何となく嫌な予感がする。アキラが肩に掛けている大きなスポーツバッグも中々に怪しい。遊びに来るだけでこんな大きなスポーツバッグが必要になるのだろうか。
「何?」と身構えて聞くと、随分渋ったあと「んーー、お泊り」という答えが帰ってきた。おとまり。お泊りとは。
「誰ん家?」
「リツの家以外どこがあるのさ」
形の良い猫目がキョトンとわたしを見る。何も問題は無いのだと信じて疑わない目だ。
「年頃の男女がいるのに、泊まり?部屋も多くないのに?」
「さすがに部屋は男女別でしょ。ノリ姉ちゃんの部屋があるんだからそこで寝ればいいんだよ。二人一部屋で」
確かに姉である法子の部屋があるにはあるけど、そういう問題ではない。けどこれ以上文句を言うのも何だか憚られる。
だってアキラの家はわたしの家から県を超えて電車をいくつか乗り継いだところにあるのだ。ここでこの幼馴染を放り出せば、電車賃と時間が無駄になってしまう。今は夏休み期間だから時間には余裕があるけど、電車賃が無駄になるのは中学生的には中々に手痛い。
「はぁ。もう来ちゃったものはしょうがないか」
「そうそう」
じとっと見つめてやるけど、歯牙にも掛けてくれない。植樹された木々が作り出している影をステップを踏むようにアキラは前へ出る。そして今思い出したかのように「そういえば!」と言ってアキラは振り向いた。木陰の中で幼馴染は笑っている。
「水色のスカートと、化粧。似合ってて、すごく可愛いよ」
他意は無いのだろう。アキラのそれは純粋な賞賛だ。そう思ったから言っただけ。
「ありがと」
だからこそ、苦しくなる。
△
冷房の効いた居間のソファーでだらしなく寛いでいたノリ姉ちゃんこと姉の法子はアキラの姿を認めると黄色い悲鳴をあげた。予想はしていたけどやっぱりうるさい。
「アキちゃん!服の趣味変わった?その姿だと女の子にもてちゃうでしょ~~!」
「久しぶり、ノリ姉ちゃん」
姉の一方的な熱い抱擁にはにかみつつ、アキラはされるがままだ。母さんからのお使い命令をわたしに押し付けておいて。姉はわたしに感謝してしかるべきなはずなのに、その態度はいかがなものか。無言で姉とアキラを引き剥がしてやると性格の悪い姉はにんまりと笑ってわたしを見た。
「嫉妬は醜いぞ?」
「うるさいな」
「まぁまぁ。そんなに怒んないでよ!お邪魔虫は退散しますからね」
壁掛け時計をちらりと見て、姉はスタコラサッサと居間を出た。そういえば午後から用事があると言っていた。
アキラには適当なところにスポーツバッグを置いてもらってソファーに座ってもらう。スーパーで買ってきた野菜と豆乳を冷蔵庫に入れて、二つのグラスに麦茶を注ぐ。速攻で準備を終えたらしい姉は、わたしの隣に立って麦茶を掠め取っていった。ごくごくと腰に手を当てて、ビールを飲むおっさんのように麦茶を飲み干した彼女はニヤリと笑った。
「母さんは五時くらいに帰って来るって」
「うん、知ってる」
「それまでアキちゃんと二人きりねぇ」
「姉ちゃん、何が言いたいわけ?」
「なーーんにも!麦茶ごちそうさまでした!」
やかましい姉が「アキちゃん、リツをよろしくねえ」とか何とか言いながらドタバタと家を出て行く。溜息を一つついて、新しいグラスを出しているとソファーで座っていたはずのアキラが今度は隣に立った。
「ノリ姉ちゃん、相変わらず賑やかだね」
「うるさいったらありゃしない」
「えーー、そう?賑やかなのはいいじゃん。うちは男兄弟ばっかだからさ、あんな姉ちゃんが欲しいよ。リツの化粧はノリ姉ちゃん直伝でしょ?」
「……よく分かったね」
「優しいお姉ちゃんじゃん」
アキラは、まなじりを下げて笑う。子どもの頃には見せなかったその笑みは大人が浮かべるような表情で胸のあたりがちくちく痛んだ。
アキラはそんなわたしの気持ちなんかちっとも気付いていないようだ。「麦茶飲んでいい?」という問いに首肯すれば美味しそうにごくごくとそれを飲み干した。上下する喉仏。自身のものとは明らかに違うその部位についつい目がいってしまう。
「アキラ」
「んーー?」
「なんで、」
わたしのものよりも、ずっと平坦な喉。突起していない喉仏。
「なんで、髪の毛をバッサリ切ったの?」
「暑いから」
「……それだけじゃないでしょ。服だって前までもっと女らしいの着てたよね。なんで?」
好奇心に輝く猫の目がこちらを向いた。
「それはこっちのセリフだよ、リツ君」
近頃出っ張ってきたわたしの喉仏を人差し指でなぞって、アキラちゃんは笑った。
△
リツこと浅桐 律は男であり、アキラこと深澄 明は女である。そして浅桐 律は今年の六月あたりからずっと登校拒否をしている。
去年通っていた中学校では見た目が男らしくないとかいう雑な理由で弄られ、最終的にはイジメられた。
だから転校した先の学校では出来る範囲でなるべく男らしくあろうと……周りから異分子扱いされないようにしていたのだけど、生来の体の薄さだとか周りに比べて遅い成長期だとか、そういうものが原因でやっぱり弄られた。わたしの顔がどちらかというと女の子らしかったのも良くなかった。
それでも前の中学の時よりかはずっと扱いは良かったし、なにより、五月の終わり頃にやっと成長期の兆しが見えてきたことで状況が打開できると思ったのだ。
……結果から言えば、状況は打開できるどころか寧ろ悪化した。前みたいに、弄りがイジメに変わったわけじゃない。むしろ子どもらしさが少しだけ抜けて、周りの、特に女子からの評価は上がったくらいだ。
女の子らしい見た目から中性的な見た目へ。このまま順調に成長期を過ごせば男らしくない、だなんて言われて弄られることもなくなるだろう。じゃあ、何が問題だったか。
「ねぇ、リツは今も大人の男の人が駄目なの?」
「……」
「それってさ、私が」
「何度も言うけど、アキラのせいじゃない」
問題は、わたしが大人の男を嫌悪しているという点にある。その問題には、深澄 明も関わっていた。
わたしとアキラは小学生の頃、変質者に連れ去られそうになったことがある。二人一緒にいたところを、車に押し込まれそうになったのだ。
変質者は、見た目だけなら大人しそうで可愛らしいアキラを主に狙って犯行に及んだらしい。わたしはほとんどオマケみたいな扱いで誘拐されそうになった。
わたし達を誘拐しようとした男は大きな男だった。無精髭を生やした、目がとても怖い大人の男だった。太い腕がわたしとアキラの腕を掴んで、男はわたしの方を一切見ずにアキラへ笑いかけた。
幼いわたしには、その笑みにくるまれている何かが一体何なのか正確には分からなかった。けど分からないなりに、男の下卑た欲について察していたのだと思う。その笑みは気持ち悪くて、怖くて、わたしは声を上げることすら出来なかった。
「リツ、泣いてるの?」
「ああ、本当だ。お嬢ちゃんのお友達は泣いてしまったね。でも大丈夫、おじさんが車でドライブしたらきっと楽しくなるから」
「おじさん、リツのこと何で泣かせるの?」
「えっ」
「どっかいって!ばかーー!」
声も出せずにぼろぼろ泣くわたしとは対照的に、アキラは大いに暴れた。普段から兄二人とよく喧嘩をしていたアキラの声は変質者が驚くほどに大きく、そして家の中に引っ込んでいたご近所さんを外に引っ張り出すくらいの音量だった。
その上アキラが噛むわ暴れるわでほとほと困ったおじさんは退散していき、そして最終的には警察に捕まったらしい。
それ以来、わたしは大人の男が苦手になったのである。
そして今。わたしの体は大人の男のものへと変化しようとしている。それが嫌で嫌で仕方なかった。
あの日アキラを拐おうとした、あいつみたいな男になってしまう。それが心底恐ろしかった。
素の自分を鏡で見るたびに、声を発するたびに見ないふりをしてきた事実がのし掛かってきた。
蓋をして、理性で押さえつけていた嫌悪が勢いよく噴き出して、自身の体が著しく変わろうとしていることをはっきりと自覚してからは男の格好が出来なくなった。本来の性別を隠すように化粧をし、女物の服を着た。
けど、それじゃ駄目だ。わたしの成長は止まってくれない。声はどんどん低くなっていくし、膝は成長痛のせいで毎日痛む。今着ている服も似合わなくなるのだろう。望んでいないのに、体はどんどん子どもから大人へと変わろうとしていく。
「大人になりたくない。アキラを汚そうとしたあいつみたいに、なりたくない」
一口も飲んでいない麦茶のグラスの中でカラン、と氷が音を立てた。
「なんないよ。リツはあいつみたいに」
「なるかもしれない。だって、ぼくは随分前からアキラのことが好きだから」
視線が交わる。髪を切っても、男の子のような格好をしていても、やっぱりアキラは特別だ。ぱちぱちと瞬きをして彼女は首を傾げた。
「それって告白?」
色素が少し薄い、茶色い瞳の中の瞳孔が開いていた。彼女の瞳にぼくが写っている。
「違う、告白じゃない。こんな女装野郎、嫌だろ」
「嫌ならわざわざ遠路はるばる慰めに来ないって」
「慰めに来たの?」
「そう。んで、リツの気持ちを少しでも知ろうと思って髪も切ったし兄ちゃんのお下がりも着てきた」
髪は勝手に適当な鋏で切ったから母さんにはチョーー怒られたけどね、なんて言ってアキラはグラスの中の溶けかけの氷をぐいっと飲み込んだ。ぼりぼり氷を歯で砕いて、べ、と舌を出す。冷たい、と当たり前な感想を述べて、にやりと悪い顔。彼女は素早くぼくの唇に口付けを落とした。
数秒にも満たない口付けのあと「嫌ならキスだってしない」と口角をあげる彼女から目が離せなかった。初めてする口付けに味は無く、ただただひんやりとした感触だけがずっと残った。
「人の気持ちを分かろうとするのは、難しいね。リツと同じように異性の格好になってもリツの気持ちはちっとも分かんないや。
でもリツの気持ちは分かんないけどこれだけは言えるよ。リツはあんな大人にはならない」
凹凸のない喉。ぼくのより高い声。丸みを帯びた体。何もかもがぼくとは違う。
「アキラ」
「うん」
「手、握っていい?」
「うん」
あいつがアキラに感じていたであろう感情は沸き起こらない。泣きたくないのに涙は沢山出てくる。
「私、リツが男の子の格好してても女の子の格好しててもいいと思うよ。女の子の格好をしてて周りの目が気になるんなら、釣り合いをとるために私が男の子の格好をしてもいいし」
「ありがと」
でも、多分。
「これはぼくが乗り越えなくちゃだから」
ぼくは自分で自分にかけた魔法を、いや、呪いを自力で解かなきゃいけない。
「自分で前に進みたい。
……けど、出来ることなら隣にはアキラがいて欲しい」
ぼくの視線を受けてアキラは挑戦的な笑みを浮かべた。
「いいよ。エスコートなら任せて」
おどけて笑うアキラにぼくの口元も思わず緩んでしまった。時間は掛かるかもしれない。しんどいかもしれない。でもアキラと一緒なら大人になることなんかきっと怖くない。それにエスコートは、されるよりもしたかった。
一口も飲んでいないグラスの中に入っていたはずの氷は、いつのまにか溶けて消えて無くなっていた。




