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湯の中の蛙

 湯と風呂蓋との距離は遠くなくて、私はのぼせそうだった。視界は蓋に遮られていて、湯船の外側は見えない。むわりとした湿度の高い空気が私の肺を充たす。


「美弥子、また風呂の蓋を閉めてるの。まったく、あれほどキツく教え込んだのに蛙の話は忘れたの?」


 お祖母ちゃんの声がした。


「お湯の中の蛙はねえ、湯の温度が高くなってもそれに気づかないんだ。湯の熱さに気付かず、じわりじわりと煮られて」


 分かってるよ。だってその話は、もうたくさん聞いたから。


「その熱さで死んでしまうんだよ」


 祖母のその声はどこか厳しい声だった。咎める声だった。私は湯船の中に浮かぶ蛙を思い浮かべて、そっと目を閉じた。


 □


 湯船の湯は、昔から熱めにいれていた。湯が熱すぎると文句を言っても、風呂を用意してくれる祖母は「お前の爺様は熱めのお湯が好きだったからねえ。癖でついつい」と笑って湯の温度を下げてくれなかった。

 お陰で自立して一人暮らしを始めてからも、湯船の湯をついつい熱めにいれてしまうのが私の癖になってしまっていた。


 他人から見れば、今までの私の人生は幸せなものではなかったと思う。両親は物心つく前からいなかった。でも、我ながら薄情であるとは思うけど、それについて悲しいと思ったことはなかった。

 悲しいと思ったことはなかったけど、悔しいと思うことは多かったように思う。私が悲しいと思うことは私にしか分かり得ないことなのに、周りの人間は──特に、距離がそこまで近くもない大人たちは──幼い私の気持ちを勝手に枠にはめてしまった。何故かそれがとても悔しかった。


 祖母が遠くの病院に行っていて、授業参観に親類が来られなかったことがあった。小学生の低学年の頃だ。そのとき偶然聞いてしまった「お父さんとお母さんがいなくて可哀想」という誰の言葉ともわからない大人の言葉は、力づくで私の心の柔らかいところを変形させようとしてきた。腹が立って仕方がなくて、でもその場では泣けなくて、通学路で私は泣いた。体の水分がすべて涙になって出て行ってしまったんじゃないかと思うくらいに泣いて泣いて私は祖母に訴えた。

「なにも悲しいことなんかない!」

 不便はあった。周りの子と違って不満に思うこともあった。それでも祖母は私に優しく真摯に向き合ってくれていた。祖母が一生懸命幼い私と向き合ってくれていたことは、幼心にも分かっていたから、だから本当に悲しいことなんか無かったのだ。

 昔の話だから、きっと私は要領を得ないことばかり言っていたと思う。でも私の記憶にいる祖母はきちんと話を聞いてくれていた。良い匂いのするタオルで顔を拭ってくれた。


「かわいい顔が台無しねえ。お風呂に入って、すっきりしてきなさい」


 祖母のその言葉を聞いてお風呂に入れば大抵のことは水に、というかお湯に流せた。でもその日の私は泣いても話を聞いてもらってもすっきりすることが出来なかった。そしてどうしようもなくなってしまったとき、私は決まって湯船の中に引きこもった。

 体と頭を丹念に洗う。風呂蓋をくるくると半分くらい巻いて、むわむわと立ち昇る湯気を目視する。爪先から、温度を確認するように体を湯に沈めて、肩まで入る。天井を見つめ、そろそろと後頭部を湯に浸からせながら、顔が沈んでしまわないように気をつけて、半開きだった風呂蓋を完全に閉める。

 風呂の内側には私しかいない。蓋を閉めた浴槽はとても狭いから、私が入ってしまえば、そこには私以外は入ることができない。ただ一人私だけ。そう考えると酷く心が落ち着いた。私を傷付けるものは何一つなかった。ぐるぐる回る換気扇の音と、水滴が落ちる音。熱めの湯。

 もともと長風呂なほうではなかったけど、嫌なことがあるとどうしても引きこもりたくなってしまう。

 そんなとき、浴槽の中に引きこもった私を呼んでくれるのが祖母だった。


「美弥子」


 名前を呼ばれても反応をしないと祖母はガラガラと引き戸を開けて、蓋越しにお得意の蛙の話を聞かせるのだ。祖母はそれはもう怖い声で私を脅した。いつもいつも煮られて死んでしまう蛙を思い浮かべて、私はふやけた手で蓋をどかした。すると薄暗かった世界が明るくなって、私は一人ぼっちではなくなる。

 いつも迎えにきてくれるのは祖母だった。


 □


 育ての親であった祖母が病気で亡くなった。そこそこ長い闘病生活を送っていた祖母が、最期苦しまずに眠りにつけたことは僥倖だった。喪主は一番祖母に近しく、成人していた私がつとめた。

 祖母が亡くなってからバタバタしていたこともあって、ここ数日間はまったく湯を溜める気にならずシャワーだけで済ませていたのだけど、その日はいつの間にか家に来ていた恋人が湯を溜めて私の帰りを待っていた。せっかく溜めてもらった湯だ。厚意はありがたく受け取ることにした。


 裸足で入る浴室はひんやりとしている。お風呂の椅子は冷たかった。風呂蓋を少しだけ開け、桶で浴槽から少量の湯をとり、それを椅子に掛けた。椅子に腰掛け、体は丹念に丁寧に洗う。爪先から頭まで全てを磨くように。

 浴室がシャワーから出た湯で十分に温まったところで私は風呂蓋を半分開けた。子どもっぽい癖は思春期あたりから封印していた。けど、久しぶりにあの感覚を味わいたかった。


 私は久しぶりに風呂の中に閉じこもった。昔よりも随分と窮屈で、でも何だかホッとした。風呂蓋を完全に閉じてしまえば、そこは外とは隔離された世界になる。一人きり。

 そして私は思い出してしまった。こうして一人きりになると、最初のうちは平気でも、そのうちどうしようもなく心細くなってしまうということを。そんなとき、いつも私をここから引き上げてくれたのは祖母だった。でも今、祖母はいない。永遠に私はここから引き上げられず、一人きりになってしまった。泣けて泣けてしかたない。風呂の塩分濃度が上がっていく。


「美弥子」


 しくしく泣いていると声がした。祖母の声だと思った。


「美弥子」


 二回目の呼びかけは少し怒っているような声音だった。よくよく聞いてみると祖母の声では無い。決まっている。だって祖母はもういないのだ。

 風呂場に住まう妖怪みたいになってしまった私に彼は辛抱強く声をかけ続けた。応える気にはなれなくて泣き続けていたら風呂蓋が遠慮のエの字も無いくらいの勢いで開けられた。


「煮蛙にでもなりたいのか」


 濡れるのなんてお構いなしに、普通に服を着たままの彼は裸の私を風呂から引きずり上げた。肩に掛けてたバスタオルをぐるぐる私に巻き付けて、やっぱり少し怒っているようだった。彼はぎゅうと私を抱き締めた。


「美弥子が風呂に引きこもったら伝えてくれって言われてた」


 私のしょうもない悪癖を知っているのは、こうしてここに乗り込んできた彼以外一人しかいないはずだ。


「湯の中の蛙は煮られてるのに気付かない。でも美弥子は蛙じゃないんだから、自分で湯から出なさいって。でもそれが無理そうだったら、遠慮なく他の人に頼って引き上げてもらえって」


 しゃくりあげて泣く私に少しだけ躊躇うような間を空けて、でも真剣な声で彼は言った。


「美弥子さんを嫁にしたいです、って言ってあるし美弥子が良ければそれで良いって許可は貰ってある」


 実際のところ、私はお風呂があまり好きではなかった。一人で泣けるところはとても良かったけど、その実、温い湯の中で一人で泣くのはどうしようもなく心細かったのだ。


「そんな話聞いてない…」

「言ってないから」


 でも、彼の服を、湯だか涙だかでびしょびしょに濡らしながら思う。こうして湯から引き上げてくれる彼がいるんなら、そこまで好きではなかった風呂も、とても好きになりそうだと。


 それまであった疲労感と悲しい気持ちは涙と一緒に湯に溶けて排水口に流されたのだろう。私の中に住んでいた湯の中の蛙は、浴槽からぴょこんと出ていった。多分きっと、もう戻ってくることはないのだろう。

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