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翼のないペガサスはただの馬

この世は弱肉強食

「そういった意味でおれは相谷(あいたに)さんが好きだよ」


 最初は穏やかな草食動物めいた笑みだったはずだ。少なくとも私はそう思っていた。しかしどうだろう。彼の笑みは本当に肉食動物に狩られる側の笑みなのだろうか。

 今の私は彼の前で震えることしかできない。彼は確かに虎であり、私は哀れな馬だった。


 ◻︎


 普段からあまり病気にならない私であるけれども、その日はどうにも具合が悪かった。具体的に言うと何となく貧血気味で頭が地味に痛かった。


 二時限目の終わり、休み時間で賑やかな廊下を抜けて職員室やら事務室やらがあるそれなりに静かな一階までよろよろと向かい、私は覇気のかけらもない死にそうな声で「失礼します」と保健室の引き戸を開けた。

 病気の生徒を労わり心安らかにさせるためなのか、微妙に子どもっぽい内装の保健室に先生は居なかった。先生はいなかったけど、見知った人が部屋の中にいて思わず「あ」という気の抜けた声が出てしまった。


宮島(みやしま)先生なら、今ちょっと出てるよ」


 養護教諭の宮島先生の代わりに私を出迎えたのは隣のクラスの波戸里(はとり)君で、にこりとした笑みを湛えて彼は壁際の長椅子に座っていた。

 波戸里君は静かな雰囲気の、いかにも草を食んで生きています、といった感じの空気を醸し出してる男の子だ。

 波戸里君は私の好きな人である。一年の頃同じクラスだった彼のことを、私はいつの間にやら好きになっていた。

 そしてそのことを彼は知っていた。


 これは私の独断と偏見であるけれども、大体の女子は恋バナとウワサが好きな生き物だ。そして好きな人が出来ると浮かれてしまうのは人が抱える悲しき(さが)で、私は私が波戸里君のことを好きだという事実を放課後の教室で友達に暴露した。

 放課後の教室で行われた恋バナ大会は、それはもう大いに盛り上がった。聞くのも話すのも楽しく、私達のテンションをゲージ表示したならそのテンションはゲージをぶち破り、成層圏あたりにまで突入していただろうと断言できた。

 そしてそんなテンションだったからこそ、たまたま教室に寄ったクラスメイトのチャラ系男子AとBの恋バナ大会参加を容認することになってしまったのである。それが全ての間違いに繋がってしまうとも知らずに。


 その恋バナ大会に関する箝口令は敷かれなかった。私達はみんな好きな人のことを語っていたからだ。

 それはすなわち、皆等しくお互いに人質をとっていることと同義であった。バラせばバラされる。皆他人の口から自分の気持ちを相手にバラされるのを忌避していた。だから分かっているよね?と無言の圧力をお互いにかけあうだけで、あえて箝口令を敷かなかったのである。

 しかし恋バナ大会に飛び入り参加してきたチャラ系男子AとBは暗黙の箝口令なんてなんのその。無言の圧力なんて微塵も感じなかったに違いない。

 憎らしいことに、恋バナ大会参加者のうち私だけが彼への気持ちを、他人の口から、暴露されてしまったのである!


 文化祭のクラスの打ち上げの時におふざけで「相谷ってハトリが好きなんだよな~!」とチャラ男Aに言われたとき、私は途方もなく泣きそうになった。だって、私の気持ちは笑いながら大人数がいるところで他人の口から言われていいものじゃない。

 一緒に恋バナをしてた友達がフォローしてくれたから泣かないですんだ。けど、驚いた表情の波戸里君を視界に入れたとき、咄嗟に口から飛び出た「そうなんだよ!波戸里君ってなんだか癒し系の草食動物っぽくて好きなんだよね」という真剣味が一ミリもない言葉はどう考えても悪手だった。


 冗談で場を流してしまった以上、私は前に進むことが出来なくなってしまい、波戸里君とは業務連絡以外で話せなくなってしまったのである。 許すまじチャラ男。お前なんか好きな女の子に好きバレしてしまえ!


 だから今も挨拶するだけでも少し気まずくて二人きりで話すなんて、もってのほかなのだ。なのに波戸里君は私が好きな笑顔で「相谷さん今日はどうしたの?」なんて聞いてくるんだから困る。


「ちょっと貧血と頭痛が……」


 言うと波戸里君は立ち上がり、長椅子に座るよう促してきた。そして勝手知ったる用具箱、といった感じで絆創膏や包帯、湿布の入った用具箱の中を漁り体温計を取り出した。


「それで熱測って、こっちの保健室の利用名簿に名前とクラスと症状書いてね」

「あ、ありがとう」


 やけに手馴れていてびっくりしていると彼は「保健室には割りと世話になってるから」と言う。なるほど。

 手渡された名簿を確認すると、角ばった字で波戸里君の名前が書いてあった。症状の欄には頭痛、と記してある。その下に自分の名前とクラスと症状を書き込んで彼に名簿を返す。


「波戸里君も頭痛なんだ」

「うん。気圧に弱くて」

「私も。今回の気圧は特に良くないね」

「相谷さんはベッドで横になる?」

「いや、大丈夫」

「ずっと手に握ってるけど、ちゃんと体温測ってね」

「あ、忘れてた」


 無言。一旦会話が途切れる。なんとなく気まずくて体温計を脇に挟みながら周囲を見回すと絵本や占いの本が並んでいる棚を見つけた。何故絵本。何故占い。先生の趣味なのだろうか?

 私の視線を追ったらしい波戸里君は先生の机に名簿を置いたあと、数冊の本を手に取り私の隣に座っ……えっ。

 何でもないような顔をしてナチュラルに波戸里君は私の隣に座った。席が隣になるとか、そういうのとは次元が違う。近い。なんかすごく爽やかな石鹸の匂いがした。

 ただでさえ近いのに、彼はファンシーでデフォルメされた動物が描かれている占いの本を開いて更に寄ってきた。反射で思わず引いてしまいそうになるのをグッと堪える。あんまり意識しすぎで引かれたくない。ここは冷静にならなければ!


「子ども用の絵本の方が良かった?赤い縞々模様の服着た人探すやつ」

「いや、うらないで」


 顔に出ていないか心配だ。どぎまぎしながら本に集中する。波戸里君の顔が見れない。

 動物占いは誕生日を使って占うらしい。占いの仕方を教えてもらって計算すると私の動物はムードメーカーなペガサスだった。


「ペガサスって動物なの……」

「あはは」

「波戸里君は?」

「おれ?おれは安定感があるらしい虎だよ」


 それっぽいなー、と思いつつ平静を装ってペガサスのページの相性の欄に視線を滑らせる。


「あ、おれたち相性良いんだね。おれが虎で相谷さんがペガサスでしょ」


 どきりとした。心を見透かされたのかと思った。波戸里君のしなやかな指先が相性の欄に向いている。暴れ馬のごとき活躍ぶりを見せる私の心臓よ、今だけ鎮まりたまえ!と願っても心臓は暴れるのをやめない。



 脳内が沸騰直前!といったところで、ようやく体温計が鳴り、ひとまず胸を撫で下ろす。体温計は平熱より少し高い温度を示しているけど絶対に波戸里君のせいだ。


「熱はあった?」

「ううん、平熱。これって鳴ったらどうするの?」

「そこのビンにアルコール含ませた脱脂綿が入ってるから、それをピンセットで摘んで消毒するんだ」

「そっかー」


 そそくさと立ち上がり、体温計を消毒する。丁寧過ぎるほど丁寧に消毒していると波戸里君が隣に立った。やっぱり距離が近い。もしかして彼はパーソナルスペースが狭いのだろうか。


「相谷さん」

「うん」

「顔赤いけど本当に熱無いの?」


 思わずピンセットを落とすところだった。隣の彼に視線を向けると、心配そうな表情で私を見ていて何だかくらくらしてしまう。


「やっぱり横になる?」

「い、いや、大丈夫」

「でもなんか具合悪そうだし座りなよ」


 先程まで座っていた長椅子に腰掛けると、やっぱり波戸里君はあんまり距離を空けないで私の隣に座った。スカートの上で軽く握った手のひらが緊張で湿る。


「せ、先生来ないね」

「そうだね」

「……」

「……」

「相谷さん」

「はい」


 波戸里君は頭を下げ、俯きがちな私を覗き込むようにしてクスクス笑った。


「耳まで赤いんだけど、本当に大丈夫?」


 もう全身の水分が沸騰してしまうかと思った。指摘されたことによって体温はぐんぐん上がっていく。そして私は唐突に理解してしまった。この人は、分かってやっているのだと。



「波戸里君、からかってる?」

「からかってないよ。でも、確認したかったから」

「一体何を確認したかったの」

「相谷さん、おれのこと好きなんでしょ」


 驚いて言葉が出て来なかった。彼は続けて言う。


「そういった意味で好かれてるのかどうか、あのときは分からなかったから。うん、勇気出して確認してみて良かった」


 波戸里君は勝手に一人で納得して勝手に頷いている。なんなんだ。どうなっているんだ。なんだか素直に認めてしまうのが癪で私の口は「いや、でも私、そういった意味で好きだって口にしてないし……」なんてまた無駄なことを言ってしまった。

 彼はキョトンとしたあと、にこりと穏やかに笑う。


「ペガサスは、癒し系の草食動物だよね」

「は?」


 いきなり何を言いだすんだ。今度はこっちがキョトンとする。


「相谷さんはさ、おれのことを草食動物みたいって言ってたけど。相谷さんこそ草食動物みたいだなって思ってるよ」

「どこらへんが……?」

「気持ちを暴露されて泣きそうになってたところとか。捕食される前の草食動物っぽいと思ったよ」

「やめて……!そのことを思い出させないで……!」

「恥ずかしくなると涙目になるのは体質?」

「そうだよ!自分じゃどうにもならないんだよ!わるい!?」

「いや、悪くないし可愛い」


 は、と息を吐いて波戸里君の顔をじっと見る。冗談を言っているような顔には見えなかった。そして彼は私に追い打ちをかけるように口を開く。


「そういった意味でおれは相谷さんが好きだよ」



 最初は穏やかな草食動物めいた笑みだったはずだ。少なくとも私はそう思っていた。しかしどうだろう。彼の笑みは本当に肉食動物に狩られる側の笑みなのだろうか。

 その笑みと一言で、虎の彼はいとも容易くペガサスの私を墜落させた。空を翔けることの出来ないペガサスとは、つまりただの馬であり、食物連鎖的に言えば虎の彼に馬の私が勝てる要素など、まるで無いのであった。素直に食われる道だけが、そこには存在していて、私は負けを認めるしかなかった。

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