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夜の海

彼女は多分一回しんでいる。

「海へ還りたかったの」

 そう言った彼女の微笑が忘れられない。ただのクラスメイトでしかなかった彼女が、自分のなかで全く別の何かになった瞬間だった。


 □


 規則正しい潮騒が聞こえてくる。嗅ぎ始めだと思わず眉をひそめてしまいそうになるような磯の香りが嗅神経をこれでもかと刺激する。

 はっきりと視認できるのは真白な波と広がる黒、それから遠くにぽつぽつ見える船の灯りだけだった。

 その日は明るい月の出ている夜だった。浜から海へ突き出すように作られている桟橋は、普段なら自分の他に夜釣りを楽しむおっさんとかがいたりするのだが、今日は俺と彼女と彼女のペットしかそこにはいなかった。

「春宮くん早まらないで!」

「別に早まったりしないよ」

 主人が興奮しているからか彼女の連れている柴犬らしき犬も元気にワンワン吠えている。夜釣りを楽しむおっさんがいなくて良かった。こんなに騒がしくしてしまったら、魚だって逃げてしまう。

「悩みがあるんなら聞くから早まらないで!」

「だから、俺は別に海に飛び込もうとかそんなことを考えて桟橋まで来たわけじゃないから」

 暗闇の中でぱちりと目が合った。縋るように俺のシャツを掴んでいた彼女が俺を見上げている。俺を見上げている目からぽろりとひとしずく、重力に負けた涙が落ちていった。彼女の落ちる涙に、俺の視線は釘付けになる。クラスメイトの涙を見る機会なんてそうそうあるもんじゃない。

 なんだかとても居心地が悪くて、後ずさろうとして途中で止まる。そうだ、彼女にシャツを掴まれたままだった。

 ああ、なんでこんな、全く喋ったことのないクラスメイトと、しかも、泣いている同世代の女子と夜中の桟橋の上で対面してるんだろう。

「とりあえず、手を離して」

「…飛び込んだりしない?」

「しないよ…俺がここにいるのは単に夜の海が好きだからだし」

 いい加減信じて欲しい。気の抜けたような俺を労わるみたいに犬がわふっと鳴いた。


 彼女こと倉賀野さんはクラスメイトだ。それ以下でもそれ以上でもない。倉賀野さんにとっての俺もまたそうだと思う。今までに話したことなんてあったかどうか…それすらあやふやだ。クラスの中には、そりゃ男女の垣根無くやってける奴もいるっちゃいるけど、俺はそこまで社交的な方ではないし、何より思春期真っ只中だから女子となんか業務連絡以外じゃ話さない。ていうか話せねえ。

 倉賀野さんもどっちかと言うと俺のように同性同士で団子みたいに固まってるタイプだから、なおさら彼女と俺との接点は無に等しい。


 だから何を話したら良いのか分からなくて気まずい。しかも相手は自分が自殺を志願しているように見えてたわけで。気まずさ増し増しだ。

「あの、まず最初に聞きたいんだけど、なんで俺が飛び込むと思ったの?」

「荷物も何も持たないでフラフラーって桟橋に引き寄せられてたから」

「…それだけ?」

 確かに、俺が釣り道具とかを持っていたら彼女は勘違いしなかったのかもしれない。けれどだからといっていきなり自殺と決めつけるだなんて、早合点にも程があると思う。二秒くらい見つめあって、先に折れたのが彼女だった。「わ、私も昔、いろいろ嫌になって飛び込もうとしたことがあったから」と、悪いことを白状するみたいに彼女は言う。そしてバツが悪そうに「春宮くんは違うんだよね?」と駄目押しをしてきたから「ただ単に海を見にきただけだよ」と返す。

 日課とまではいかないが、補導される時間ギリギリまで外で散歩をするのは俺の趣味だ。散歩コースはその時の気分によって変わるが、この桟橋は個人的に好きだからよく来る。釣りをしに来たおっさん達と会話をしたり、海面に出来た月の光の道をぼんやり眺めたり、たまにレジャーシートを持ち込んでは星を眺めたりする。桟橋の上には電灯がないから、新月の夜なんかはかなり星が見えて良い。ここは絶好の天体観測ポイントなのだ。おっさん達には「春坊よぉ、人が倒れてるみたいでびびるからやめろー」と、かなり不評だがやめる気はさらさらない。

 薄暗い中だと女は魅力的に見える、って話はどこで聞いたんだったか。憂うような表情ではあるけど頬がほんとり色付いている。ように見える。そんな倉賀野さんが視線をあからさまに俺から逸らして口を開く。

「春宮くん、私ちょっと海の方に向いていい?」

「どうぞ」

「春宮くん、ここで今叫んでも大丈夫かな」

「ここらに民家は無いし、桟橋の先だから海に向かって叫べば誰の迷惑にもならないんじゃない」

「コタロウのリード持ってもらってもいい?」

「うん、いーよ」

 犬の名前はコタロウなんだな、なんて考えながらリードを貰い受ける。コタロウはなかなかに賢い犬らしくて、主人が落ち着いてからは大人しい。

 波の音に紛れて、すぅっと大きく息を吸うような音がした。それから手をメガホンのように形作って彼女は叫んだ。それは文章にも単語にもならない意味のない音だった。叫んでからちょっとして、落ち着いた様子の彼女がぼんやりした月の光の下で笑う。

「いきなり泣くし飛び込もうとしてたことがあるのカミングアウトするし唐突に叫ぶし私って結構情緒不安定だね」

「まあ、うん、俺たち思春期だし仕方ないんじゃね」

「思春期なら仕方ないのかな」

 困ったように笑っていたから何かしらフォローをしなければ、と思った。あんまり言葉が纏まらないけど、思ったことを思ったように口にする。

「たぶん。俺だってクラスメイトが自殺?しようもしてたらビビるし、たまに叫びたくなるし、それに長い人生だから死にたくなるときだって…これはきっと誰にでもあんだろ」

 バカな話は仲間同士で沢山する。けど、こういう話は誰かとしたことがなかった。だっていかにも真面目くさった話題でなんだかむず痒い。きっと明るいところでは話せない類の内容だ。

「春宮くん」

「うん?」

「ありがと」

「どういたしまして。あの、倉賀野さん」

「なに?」

「コタロウ撫でても良い?」

「いいよ」

 この桟橋が出来たのはここ二年の話だ。倉賀野さんとは一年生のときから三年生に至るまで同じクラスだったが、いつでも彼女は明るかった気がする。勿論いつも彼女の顔を見ていたわけではないから、たまたま目に付いたのがそういった状態の彼女だったのかもしれない。しかし少なくとも俺の知っている彼女はここから海へと飛び込むだなんて、そんなことをしそうには見えなかった。


「海に、なんで飛び込もうと思ったの」

 言葉にしてから、あ、デリカシーに欠ける発言だったな、と気が付いた。コタロウを撫でる手を止めて今度は俺が彼女を見上げる。


「辛いこととかそういうことは一つも無かったんだけど、」

 遠く、船の灯りを見ているようだった。その視線がこちらに戻って来てぱちっと交わる。


「海へ還りたかったの」


 彼女は薄く笑っていた。こんな顔もできるのか、と女が少し怖くなる。

 その時はじめて俺は彼女のことを新月の夜の海のようだと思った。天体観測に持ってこいな新月の夜は当然暗い。船もいない新月の日の海は本当に暗くて海と空の境界がどこなのかも分からない。ひたすら続く黒は恐怖を煽る。何が潜んでいるのかが分からない闇。もしかしたら得体のしれないものが這い上がって来るかもしれないという恐れ。おおきな生き物が大口を開けて橋の下で自分を待っているんじゃないかという恐怖が胸のなかで頭をもたげたりするのだ。

 夜の海を飼っている彼女は続けて言葉を紡いだ。心なしか楽しそうな声だった。


「生命の始まりは海でしょ。なら終わりも海であるべきだと思わない?」

「そうかな」

「そうだよ。だって私たちって海から生まれたんだよ。それなのに大地の上で死ぬって何だかエネルギー保存の法則に反するでしょ?海はいつでも私たちを待っててくれてるのにさ」

 なかなかに変なことを言う。わかるような、わからないような。普通な彼女の変わった一面を覗き見ているみたいで少し怖かった。怖い、と思うのと同時に強く惹かれた。

「…意味わからん。でもさ、それなら海へ還りたがってた人が何で海に還ろうとしてる人を引き止めるんだよ?」

 倉賀野さんが海へ還ることを推奨しているのなら飛び込もうとしてた俺を止めるのは彼女のポリシーに反するのではないか。彼女はキョトンとしたあどけない表情を見せたかと思うと次にはまた笑っていた。今度はクラスメイトに見せるような笑顔だった。


「そりゃ引き止めるよ。春宮くんだったし」

「え」

「気になる人が海に飛び込もうとしてたら誰でも止めるでしょ」

「は」

 声よりも多く空気が外へ出ていった。いたずらが成功した子どものように彼女はくすくすと笑う。さっき叫んだおかげで怖いものは何も無いらしい。逆にこっちはかなり揺さぶられた。頬に熱が集まっている。今自分がどんな表情をしているのか。多分明るい場所では見せられない表情に違いない。

「今のは告白?」

「かもしれない」

「いや、どっち」

「断られると悲しいから、どっちつかずで水に流してよ。幸いここには沢山水があるわけだから」

「気にするなってことならそれは無理だろ」

「海水に流れない?」

 流れるわけないだろ!叫びたい気持ちをぐっと堪えて平静を装う。慎重に、慎重に。

「流れねえよ。むしろ流そうとしても波で返ってくるよ」

「まじかー」

 ん、と手を差し出される。ソレが何を訴えているのか察して、その小さな手の上にコタロウのリードを乗っけてやると彼女は満足気にリードを握った。あ、これは。意図的に目を合わせるとニコッと笑われた。下手な愛想笑いはやめろ。そのまま逃げ帰る気満々らしい。逃がすわけないだろ。

「送ろうか」

「え、」

「海へ還る話、倉賀野さんが良ければもうちょっと聞きたいから」

 半分は純粋な疑問だけど半分は下心だ。下心は上手く夜の闇に紛れさせて真面目な顔を作る。

「面白い話じゃないよ?」

 彼女は困り果てたような顔をする。けど引く、という選択肢はなかった。これでそのまま帰ってしまえば明日から俺たちはまた唯の『クラスが一緒の人』に戻ってしまう。

「いいよ」

「あと、誰にも話したことがないから…秘密にして欲しい」

「わかった。二人の秘密だ」

 俺の言葉の後、謀ったようにコタロウが鳴いた。…多分こいつは人の言葉が理解できてる。

「…二人と一匹の秘密だな」

「だね」

 さっきよりも少し威勢の良い満足そうな声でワンッとコタロウが鳴いた。二人で顔を見合わせて、それからコタロウを見れば、くるりとした二つの瞳がこちらを見上げていた。今日はよく見上げられる日だな、と思った。波の音に乗せるみたいに俺たちは笑いあった。

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