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水槽の中の人魚

人魚を拾いました。どこで保護したら良いのか分からなかったので取りあえずプールに入れてみました。

シーズンオフの海には誰もいない。そんな海に臨むように建っているリゾートホテルも、シーズンオフには全くといっていいほど儲からないから今は閉鎖している。

 そんな一時閉鎖したリゾートホテルに隣接する温水プールのプールサイドに、おれは立っていた。いつもはシーズンオフにプールなんか誰も使わないから、水はきっちり抜いてあるのだけれども今回だけ特別に水は入れてあった。初めは贅沢におれのための貸切プールにしてしまう予定だったのだが、予定は予定にしかならなかった。おれの代わりに、今は彼女がこのガラス張りの室内プールを独り占めしている。

 ぱしゃん、ぱしゃん、と規則的に水の跳ねる音がする。音を出しているのはプールのなかにいる人魚だ。

 プールの縁に肘をついて彼女はとろけるような、それでいてどこか挑発的な笑顔でおれを見上げていた。

 天井上からから差し込む冬の、いくらか元気のない弱々しい太陽の光が水と水の中にある人魚の鱗をきらきらとしているように魅せる。ちらちら反射する光が時々眩しい。

 プールの底は明るい水色で綺麗だが、そんな美しさが褪せて見えてしまうほど、人魚の鱗は綺麗だった。艶やかな鱗はどう形容していいのか分からない位に美しくて、おれは見るたびに見とれてしまう。


 おれはつい昨日、浜辺で人魚を拾ったのだ。ここにきてから日課になっている散歩の途中でおれは彼女を発見した。人魚は白い浜辺で身体を折り曲げるようにして倒れていた。

 今年は大寒波が訪れていて、冬でも暖かいこの土地も、寒い寒い雪の降る土地となった。南国の植物がこの土地にはあるのに、そんな南国の植物に雪が積もっているものだから、おれは朝起きて外を初めて見たときに思わず笑ってしまった。

 大寒波のせいでお客さんはホテルにこない。それに、リゾートホテルのある場所は民家なんかが近くには無い場所だから自然と地元民も全く来なかった。完全に陸の孤島だった。

 リゾートホテルはあんまり大きくなかった。一人で十分管理出来るくらいの大きさだ。オーナーである老夫婦は海外旅行に行くとかなんとかで、学校が冬休みでのんびり暇してたおれにホテルを任せてくれた。本当の祖父母のように小さい頃から慕っている人たちだったから、頼りにされたことが、とても嬉しかった。そうしておれは、オーナー夫婦が留守にしている間だけホテルの管理人になったのだ。

 管理人の仕事のなかに見回りがある。というかこれがメインの仕事だ。ホテルの中、外、それからホテルのプライベートビーチを見て回るのだ。

 いつもは異常が見られないのだが、昨日だけは違った。

 雪の降り積もるプライベートビーチに人魚が打ち上げられていたのだ。人魚が凍死するのかどうか知らなかったけど、おれは人魚を目にして、このままじゃ彼女が凍死してしまうと思いえっちらおっちら人魚を抱えて慌ててホテルの温水プールに投げ入れた。意識のない人間を運ぶのはなかなかに至難のわざで、プールへはもつれ込むように入っていった。

 ばしゃーんという水の音がおれと彼女以外誰もいない空間に波紋として広がる。大丈夫だろうか。はたして彼女は生きているのだろうか。

 どきどきしながら人魚が沈んでいったプールを見る。彼女はあがってこない。

 もしかして今の衝撃で死んでしまったとか。真偽のほどは定かではないけど、魚類の中にはそういうものもいると聞いたことがある。それが本当の話だったらきっと半分魚な彼女にも適用されてしまうのやも。いやもしかしたら殺菌用に入れてある塩素系の薬がよくないのかもしれない。ああ、どうしよう。もしも本当に死んでしまっていたら。殺人ならぬ殺人魚を犯してしまうだなんて。いや、でも人魚に法律は適用されるのかな。人のルールと人魚のルールは違うだろうから、きっとされないんだろうな、なら平気かも。いやいや平気だとしてもマズイことには変わりないしなあ。

 そこまで考えたとき、ざぱりと水面が動いて彼女が顔を出した。初めて人魚が動いているところを見たおれは感動したが、それよりも人魚が生きていることにとても安堵した。

「よかった、生きてた!」

「よくないわよ。死ぬかと思ったわ!」

 ばっしゃーん。人魚の怒りの一撃は塩素の匂いと物理的な痛みで構成されていた。尾鰭で人魚は攻撃をしてきたのだ。顔に生ぬるい塩素臭いプールの水が掛かる。

「わ!」

「ざまあみなさい」

「命の恩人に何てことを」

「誰も助けてだなんて言ってないわ」

 プールサイドに腕を乗せて彼女はおれを見上げた。

「君、とっても美人なのに残念だね」

「あらありがとう」

 つーんとした態度で自身の短く切りそろえられた髪を弄る人魚。まったく、これっぽっちも可愛げがなかった。言いたいことが二言三言あったけれど、それらを飲み込んで、おれは質問をした。

「ねえ、君、倒れてたけど大丈夫?」

「ええ、大丈夫よ。ほら」

 人魚はすいすいと泳いでみせた。とりあえずホッとした。

「寒くて倒れてたの?」

「寒くて乾燥してたから倒れてたの」

「乾燥してたら駄目なの?」

「干からびちゃうでしょう」

「へえ」

 すいすいーっとプール内をぐるぐる泳ぐ彼女。半分が魚だけあってやっぱり泳ぎは上手かった。


 人魚は帰りたいとも戻りたいとも言わなかったから、その日からおれは人魚をプールに放しておくことにした。もちろんおれは彼女が帰りたいと言ったら返すつもりだった。だってこんなにすいすい泳げる人魚がプールのなかでしか泳がないだなんてかなり勿体無い。籠の鳥ならぬ水槽の魚だなんて窮屈で仕方ないに違いない。

「何食べるの?」

「にんげん」

「えっ嘘」

「嘘よ」

「……」

 数日間観察していて分かったことがある。彼女はちょっとお茶目さんなのだ。彼女がお茶目なユーモアをおれに言っていなければ、人魚はご飯をあまり食べなくても保つらしい。しかし何故だか人魚は個体数がどんどん減りつつあるみたいだ。何故なのか、おれは聞いてみたのだが彼女はニコニコしたまま黙ってしまって何も聞けなかった。何かのっぴきならない事情があるのかもしれない。代わりに彼女が打ち上げられていた日について聞いてみたのだが、どうやらあの浜辺で彼女が倒れていたのは、にんげんの世界に出てきてみたかったかららしい。

「人間の世界に興味があるの?」

「そりゃあもう!海は飽き飽きなの」

「でも尾鰭があったら上がってこれないじゃないか」

 おれのそんな言葉に人魚はクスクス笑った。アーモンドの形の綺麗な目が馬鹿にするようにこちらを見上げる。彼女はこの表情が一番生き生きしている。

「とっておきの魔法があるの」

「魔法?」

「教えてあげないけど!」

 そんな言葉と同時に水を掛けられたおれは、非難の眼差しで彼女を見たが、水の底に隠れてしまった彼女から、おれの目から発射されている非難光線は、きっと見えなかったに違いない。

 ああ、それにしてもここは一応室内なのに何でこんなに寒いんだろう。そういえば、寒気もそうだけど最近体調が優れない。何故なんだろう。おれも寒さに慣れていないから、体がついていかないのかな。寒波が早くどこかにいけばいいのに。


 人魚を拾って二週間目くらいのことだった。

 驚くくらいに穏やかな時間がこの二週間には満ち満ちていた。彼女は多くを語らなかったけど、おれの面白くもない話を楽しそうに聞いてくれた。その日も日課となりつつある人魚との密会をするつもりだったのだが、どうも体調が優れなかった。人魚を拾ったあとくらいから、しばらくの間優れなかった体調だが、それが顕著になってきているような気がした。思い当たる節は全くないから首を捻ってしまう。

 体が熱っぽくて頭がくらくらする。あんまり動きたくないけど、彼女に万が一のことがあったら大変だ。プールにいかなければ。

 風邪だと、もしかしたら人魚にうつしてしまうかもしれないから、おれはマスクをしてプールへと向かった。

 マスクをつけたおれを見て、彼女はビックリした。

「なに?それ」

「マスク」

「ますく?」

「風邪引いて。君にうつらないようにって思って」

「……かぜ?それはなに?」

「病気だよ」

「びょうき!」

 悲鳴をあげるみたいに彼女は言って、それから心配そうにおれを見上げた。

「大丈夫なの?」

「うん」

 落ち着かない様子の彼女は神経質そうに尾鰭をぱしゃぱしゃさせている。

「寝れば治るから」

「じゃあ今すぐ寝なさいよ」

「眠くない」

「じゃあ何か歌うわ。私歌はとても上手なの。きっとすぐに寝れるわ」

 プールサイドの床を手のひらで、ぺちぺちと叩いて彼女は「座りなさい」と言った。座ると彼女は本当に歌を歌ってくれた。

 彼女はお茶目さんだから、また水をかけてくるのかと思ったのだけれども、違った。どうやら本当に心配してくれているみたいだった。

 彼女の歌は本当に素晴らしかった。プールサイドでおれは眠ってしまった。人生のなかではじめてプールサイドで眠った。


 微睡みのなか、おれは彼女の声を聞いたような気がした。

「前にあなた、何を食べるのかって私に聞いたでしょう」

「私はにんげん、って答えたわ」

「実はあれ、半分ホントウなの」

「人魚はね、にんげんの近くにいるだけで、にんげんの力を吸ってしまうの」

「それからね、あなた前に、にんげんの世界を見るには尾鰭が邪魔だって言ったじゃない」

「実は、一人のにんげんの力を全て吸えば、私たち人魚はにんげんになれるのよ」

「にんげんになるのは簡単だわ。だって私たちにはこの美しさがあるもの。にんげんを虜にしちゃえばそれで終わり」

「とても、簡単なことなのよ」

 とても悲しそうな声音だった。


 目が覚めたのは夜だった。月の光が冷たく降り注いでいる。プールの中では人魚が泳いでいた。とても美しかった。太陽のもとで溌剌と鱗を光らせる彼女も素敵だけど、月のもとで静謐に鱗を光らせる彼女の姿も素敵だった。動物の瞳みたいに彼女の瞳は暗闇の中で光っていた。

「ねえ」

「うん」

「寝る前に、私の話を聞いた?」

「聞いたよ」

 プールサイドに腕をついた彼女は寂しそうに「そう」と言って、おれを見上げた。憂うような表情を押し込めて彼女は真っ直ぐな視線をおれに寄越した。

「なら話が早いわ。私を海に帰して」

「やだ」

「何言ってるの。このままじゃ、あなた死んじゃう」

「うん。でも、やだ」

 ほとんど泣きそうな顔で人魚は「どうして」と言った。

「君、言っただろ。虜にしちゃえばそれで終わりって。おれ、君のことが存外気に入ってるんだよ」

「ばかじゃないの。死ぬのよ」

「別にいいやって思えるんだ。不思議だよね」

「ばかね。あなた軽すぎるのよ、恥を知りなさい」

 彼女は堪えきれなくなったのか、わんわん泣いた。泣いても人魚は綺麗だった。おれは背負ったとき以来触れていない彼女に、恐る恐る触れた。頭を撫でようと触れた彼女の髪の毛は想像以上に冷たかった。


 次に目が覚めたのは朝方だった。うっすらと明るい外の景色をガラス越しに見てから、おれは一番最初にプール内にいる彼女を探した。

 あれ、と思ったけど声は全く出なかった。まるで凍ってしまったかのように喉は震えなくて、おれはかなり焦った。徐々にはっきりしてくる意識は、彼女のいないプールについて思考することを拒絶しようとした。

 いない。どこにも、いない。

 おれの隣に、まだ乾ききっていない水の痕があってそれは出口の方へと続いていた。ああ、そんな、まさか。

 急いで駆け出す。途中で何度も転びそうになった。無事外に出られたらしい彼女は、海に向かっていったみたいだ。きっと不便だろうから、帰りたいのならおれが運んでやったのに。そこまで思って、その考えをおれはすぐに否定した。いや、だけどおれはもう彼女を帰すことは出来なかったかもしれない。だから彼女は一人で行ったのだ。

 アスファルトにきらきらとした鱗が光っている。おれの為にざりざりとアスファルトの上を這う彼女のことを思うと涙が溢れて仕方がなかった。

 何かを引きずったような痕は砂浜にも続いていた。

 海に向かって彼女の名前を叫ぼうとする。そこでおれはようやっと気がついた。おれは彼女の名前を知らなかったのだ。


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