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特別が欲しくなる

特別じゃなくても良くない?…良くない?良くないかあ。

 現代国語の授業が好きだ。


 別に現代国語という教科自体が好きってわけじゃない。現国のお婆ちゃん先生の授業だと、たまに教科書の朗読をさせられることがあるのだが、その時間が私は好きだった。

 もちろん朗読をさせられることが好きなのではない。クラスの約四十人が私の拙い朗読を聞いている場面を想像するだけでウワアっとなって何ともいえない気持ちになる。それでも、私は自分が朗読させられることがあるかもしれない現代国語の授業が好きだった。


「じゃあ今日は二十一日だから朗読は二十一番からにしようかなあ」


 おっとりとした先生の少し大きい独り言に私は机の下できゅっと拳を作った。簡易ガッツポーズだ。


「二十一番は誰だったっけね」

「はい」


 一人の生徒が手を挙げて、私はその姿勢の良い背中をじっと見つめた。すらっと伸びた腕は指の先が綺麗に揃っていて天井を指している。半袖ワイシャツの白さが目に眩しい。彼を目に留めた先生は眼鏡の奥の瞳を和ませた。


「じゃあ冬野(とうの)さん、初めから次の段落の手前までお願いします」

「はい」


 そして彼は朗読を始めた。程よく硬質なその声は私に冬を思い起こさせる。彼の苗字ともあいまって、青く澄んだ空気で満ち満ちた冬の空が頭の中に思い浮かぶ。特別に温度を込めない声の出し方は余分なものを極限まで削いだような感じがして、その美しさに私はうっとりとしてしまう。

 うっとりとしながらも、私はきりっとした表情で教科書の文章を目で追いかけた。慎重に、心の中で思っていることを外へと出さないように。万が一にも本人に私が色々と思っていることを知られたら終わりだ。


 つまるところ、私は彼の、冬野君の朗読を聞けるのが楽しみで、現国の時間が好きなのだった。あんまりにも不真面目な理由でお婆ちゃん先生には大変申し訳ないけど、こればかりはしょうがなかった。


 ◻︎


 私が彼を初めてきちんと意識のなかに入れたのは高校二年生の初夏の頃だった。

 学校という小さな小さな社会の中では派閥が形成される。クラスの中心的な人たちが集まる派閥、そこそこ社交的でそこそこ明るめな人が集まる派閥、おとなしめな人たちが集まる派閥。その中でも私はどちらかというと、おとなしめな人たちが集まる派閥に所属していた。

 彼もまたそうであったから、かなり失礼だけど私は彼のことを初めのうちは全く気にも留めなかったし、向こうもまた私のことをきちんと意識したりなんてしなかったと思う。


 けれどそんな状況は五月の半ばくらいを境に変わる。

 前回の授業で見事朗読に当たり、短い段落の中で盛大に三度噛んだ私は穴に入って掘って掘って掘って掘って…ブラジルまで行ってしまいたい気持ちになった。

 今度こそはどうか当たりませんように。その日の現国の前の時間まで必死にナムナムとお願いをしていたらどうやら神様は私の願いを聞き入れてくれたらしく、幸いにも朗読に当たることはなさそうだった。

 一番初めに朗読する人を先生が決めて、それからは一番初めの人の後ろの人たちが順に当てられることになっている。前回は私の前の前の席の人が当たってしまったのだが、その日当たったのは私の列のすぐ左隣の列だった。

 当たらないと分かればあとは熱心に教科書の文章を目で追っているフリをすればいい。私は適度に不真面目な学生なのである。


 朗読されている教科書の文章を目で追うという行為はかなり単調で、それ故に意識がふっと眠りの向こうに持っていかれそうになる。

 そして船を漕ぎそうになって四度目で、私はその声を聞いたのだ。意識が覚醒して、たちまち頭の中がクリアになる感覚。


「あいしているんです」


 愛とか恋とか。恋に恋してるような女子高生の私でも朗読することになったらかなり恥ずかしいと思うに違いない。そんな文章を男子高校生が口にするのにどれだけ恥ずかしいと思うのか、それは想像に難くない。

 けれども彼は恥ずかしがる素振りの一つも見せずにその文章を読み上げた。違和感のないぴしりとした姿勢は彼の心を表しているのだろうか。彼が朗読しているところを聞くのは初めてだった。

 よく通る声だった。高くなく、適度に低い。色々な声が普段教室には溢れているけど、授業中のこの時間に発せられたその声はダイレクトに私の鼓膜を揺さぶり、そして心臓をも揺さぶった。


 とくとくと心臓が血を巡らせている。私の血行は良くなるどころか、良くなり過ぎていた。頭を俯けているから真正面から見ない限り私の熱い頬は横髪で隠されて見えないだろう。普段は鬱陶しくて耳にかけている髪の毛に今だけ感謝する。

 少し、視線を左に向けてみた。規則正しく平行に並んだ机の配置。私の斜め前にその人はいる。


 多分、スタイリング剤だとかそういうのはつけていない。丸みを帯びた後頭部。詰襟からはカッチリとした白いカラーが少しだけのぞいていて、その背筋はピンと美しかった。

 名前は確か、冬野君。下の名前は名簿だけじゃ読み方がよく分からなかった。

 ああ、こっちを向いて欲しい。そんなの状況的に叶わないことだし、何より今じゃなくてもクラスメイトなのだからいくらでも彼の顔を見ることは出来る。


 それでも私は、その瞬間、彼の顔が見たくて堪らなかった。勝手な熱は私の中で燻る。この火種がこれから大きくなり、めらめらとした炎になることは想像に難くなかった。


 ◻︎


 彼の下の名前を知ったのはそれから数日後だった。掃除当番で私は教室の掃除に割り振られている。教室掃除にはホウキとチリトリの係と黒板の係があり、ホウキとチリトリの係はともかく、汚れたり煙かったりする黒板の係の人気はイマイチだった。

 進んでやりたいなんていう物好きはどこにも居なくて、公正なジャンケンで黒板の係は決められることになった。


 そして私は華麗に負けた。ストレート負けだった。あまりのストレート負けっぷりに笑いが巻き起こったほどである。遺憾の意。

 テンションは駄々下がりだったけど、黒板を綺麗にして明日の日付を書いて、明日の日直の名前を書こうと思い教卓の上に置いてある名簿を見たときに、私の気持ちは風に吹かれた羽のごとく舞い上がった。明日の日直の片方は冬野君だったのだ。

 ただ好きな人の名前を書くだけなのに私はとても浮き足立っていた。我ながらチョロい女子高生である。


 名簿片手に冬野、と書いて次いで斉という漢字を書きながら「結局この字はなんて読ませるんだろ。みんな冬野君のこと冬野君って呼ぶからなあ」と独り言を呟く。斉藤さんの斉で使われる以外であんまり見ない。気がする。


「斉って書いて、ヒトシ。等号の等しいって意味と同じなんだ」


 頭を悩ませていたらストンと答えを落とされた。私はその人の声を聞き間違うことはない。


「は、初めて知った」

「うん。よく聞かれるから珍しいんだと思う」


 開いた引き戸のところで壁に寄りかかっていた。多分割り当てられた掃除場の掃除が終わって教室に戻ってきたんだろう。

 クラスメイトだけど、真正面からきちんと会話をしたことはあまり無かった。じっと彼を見ていると心がどっかに行ってしまいそうになるから、視線を逸らして黒板掃除を再開する。


「冬野君っていつもトーノって苗字で呼ばれてるから、今まで読み方が分からなかったよ」

「一応四月の一番初めのホームルームで自己紹介したのになあ」

「いや、あの、それは」

「冗談だよ。俺は下の名前あんまり呼ばれないから。覚えてなくても仕方ないでしょ」

「ご、ごめんね」


 静かに笑う人だった。体ごと彼の方に向けたくて仕方ない思いを押し殺して、ぽやんとしそうになる気持ちを引き締める。笑え。不自然じゃない程度に笑え。

 口の端を持ち上げながら「でも冬野君だって私の名前、覚えてないんじゃないかなあ」と返す。冬野君の名前を書いて、すぐ隣にもう片方の日直の名前を書きつける。穂波君。いいなあ、冬野君と日直だなんて。穂の字の画数が多くて少し書きづらい。


「春原伊都さん、でしょ」


 動揺して力が入りすぎた。チョークが一本天に召されてしまった。


「よく呼ばれてるの聞くから、下の名前は知ってる」

「それは、どうも」

「盛大に折ったね」

「……うん」


 じわじわと頬が炙られているんじゃないかと思った。その声に呼ばれたことが何よりも嬉しくて、今日の夜ベッドの上でのたうち回る未来が確定してしまった。


 ◻︎


「冬野君」

「春原さん」


 互いが互いをそう呼んだ。ただのクラスメイトという関係だからそこに特別な意味はもちろん無い。何の進展も無く定期試験が来て、何の進展も無く夏休みが目前まで来ていて、何だか色々あっという間だった。

 話せて苗字を呼んでもらえるだけでいいかもしれない。なんて思っちゃったりして。私の鼓膜を揺らすその声を聞くたびに死んでしまうのではないかと内心思っていたのだが、それを友達に言ったら呆れすぎて最早無!といった感じの表情を向けられてしまった。


「さっさと告白しなよ面倒だから!」

「優ちゃん酷い」

「そうだよ優ちゃん。伊都ちゃんには伊都ちゃんのペースがあるんだから」

「暦は伊都に甘い。ていうか呼んでもらうだけで幸せな伊都のペースだと絶対卒業までに告白出来ないよ」


 そう言われても困ってしまう。


「こくはく」


 思っていたよりずっと間抜けな音で発音してしまった。告白。


「告白ってしなきゃ、だめ?」


 優ちゃんと暦ちゃんは私の顔を見たあと顔を見合わせて、片方は眉を釣り上げて片方は眉を下げた。二人らしい反応だった。


 もともと、別にどうこうしたいって感じではなかったのだ。なんていうか、私の冬野君への気持ちってのは憧れに近いものがある。

 アイドルに会いたいとは思うけど、付き合ってどうこうしたいわけじゃない、みたいな気持ちなのだ。

 正直に打ち明けたら、暦ちゃんは分からないって顔をしていたけど、優ちゃんは私の気持ちを理解してくれたみたいだった。優ちゃんは迷うように視線をふらつかせて、それからまっすぐ私を射抜くように見た。優ちゃんの視線は、しなやかで強くて私は少しその視線にたじろいだ。


「でも多分、伊都のそれってそのまま続いたら、そのうち変わってくると思うよ」


 苦虫を口いっぱいに入れられて、噛み砕いて、それを嚥下するのにかなり苦心したような顔で優ちゃんは言った。


「特別が欲しくなるよ」


 そういう、ものなんだろうか。

 いまいちピンとこないまま私は夏休みを迎えてしまった。


 ◻︎


 来年は高校三年生でそんな余裕はないと思うから。

 そんな理由で私たちは今年の夏、沢山遊ぶことにしていた。夏休みが始まって三日目。今日はプールの日だった。

 市民だと利用料金が半額になる市民プールは高校生の強い味方だ。私たちと同じく夏休み謳歌中である小中学生の明るい騒ぎ声を聞きながら、何ともなしに仰向けでプールに浮かんでいると、優ちゃんと暦ちゃんが私の顔を覗き込んだ。


「伊都ちゃん花火大会の日に予定入れてる?」

「入れてないよー」

「じゃあ花火大会行こう」


 暦ちゃんはちょっと悪戯っぽく笑って「今回は私達だけじゃなくて、男子も呼ぶよ」と言った。その暦ちゃんの言葉に次いで優ちゃんが小悪魔みたいな顔で「トーノ君も呼ぶよ」なんて言うものだから私は「ぐがごご」という乙女にあるまじき声をあげて危うく溺れてしまうところだった。鼻に水が入って非常に痛い。

 ざばっと立ち上がって優ちゃんと暦ちゃん両方に視線を反復横跳びさせる。


「はっ、えっ、なっ」

「伊都ちゃん慌てすぎ。あのね、私の付き合ってる人が冬野君と仲が良かったらしくて、そのツテで誘えそうなんだよね〜」

「私の彼氏も連れて行くから、行こうよ」


 夏休みに入ってしまうと軽く一ヶ月ちょい冬野君には会えなくなる。あの私の大好きな声が一ヶ月ちょい聞けないのだ。だから、休みに会ってあの声を聞くことができるだなんて、それはかなり幸せなことだと思う。思うけど……


「カップル二組とそうじゃない二人の組み合わせってかなり露骨じゃありませんかね」

「大丈夫大丈夫」

「大丈夫大丈夫」

「ほんとかな……」

「大丈夫大丈夫」

「大丈夫大丈夫」

「壊れたラジオかよ」


 結局二人の大丈夫に押し切られてしまった。大丈夫がゲシュタルト崩壊するところだった。


 ◻︎


 女子組は少し早めに集まって、暦ちゃんの家で浴衣に着替えた。暦ちゃんのお母さんが、着物や浴衣が好きなのだそうで、貸していただける運びとなったのだ。その上、着付けも申し出てくださったのだから暦ちゃんのお母さんには本当に感謝してもしきれない。

 花火に浴衣だなんて、とても素敵だ。冬野君に会えるということでもともと高揚していた気持ちが更に高揚してしまう。


 隣の家に住んでいる暦ちゃんの幼馴染、兼彼氏、兼冬野君の友達である藤堂君がひょっこりと様子を見にきて暦ちゃんのお母さんに捕まり浴衣を着せられている間、私は優ちゃんにメイクをしてもらい、暦ちゃんに髪の毛を纏めてもらった。


 そして決戦の時は来た。

 一週間と五日ぶりの冬野君は、まぁ夏休み前と変わったこともなく。しかし初めて見る彼の私服に私は至福のときを得たのだった。彼はシンプルイズザベストという言葉を体現したような半袖の涼しげなシャツとジーンズで現れた。

 冬野君と暦ちゃんの彼氏の藤堂君と優ちゃんの彼氏の多田君は男子三人で寄り集まって、というか、男子三人の中で一人だけ浴衣を着た藤堂君に冬野君と多田君が絡んであれやこれや話していた。


 浴衣ってやつは人の魅力を引き出す服装だと思う。だから、浴衣を着た藤堂君はなかなか良い感じだな、と思ったけど、やっぱり冬野君が近くにいると私の視線は冬野君に釘付けになってしまう。なんてことない私服を着ているだけなのに、気になって気になってしかたなかった。私、これから大丈夫かな。


 集合場所から会場までそこまで遠くない。ちらほら見かける浴衣を着た人たちや花火大会に行くのであろう人たちに混ざって私達は歩いた。

 なんとなく最初は男女に分かれて歩いていたけど、会場に近づくにつれて男女の塊が程よく崩れてきた。具体的に、暦ちゃんと藤堂君の距離が近くなって優ちゃんと多田君の距離が近くなった。


 そうなると自然と私と冬野君は弾き出されることになる。先行して歩いている二カップルはなかなか幸せそうだった。彼女たちの背を見てると少し羨ましくなった。

 二人きりではないけど二人きりのこの状況にもちろん私はめちゃめちゃ緊張した。近い。隣に、冬野君。隣が見れない。

 緊張を紛らわすためにまっすぐ前を見据えて脳内でフィボナッチ数列を展開させていると声を掛けられた。


「なんかごめんね」


 隣を歩く冬野君である。突然の謝罪。好きな人の好きな声で紡がれた言葉は心底申し訳なさそうな空気を滲ませている。

 びっくりして隣を見ると冬野君が顔をこちらに向けていた。な、なぜ謝罪。私が大いにうろたえていると、冬野君は苦笑いで口を開いた。


「な、なにが?」

「ほら、俺なんかとセットになっちゃってさ」


 冬野君は前の二カップルに視線を寄越した。あ、あー、うん。なるほど。


「いや、むしろ私の方が申し訳ないっていうか」

「そう?」

「うん」

「……」

「……」


 …すごく、気まずいです。もともと冬野君はそこまで賑やかな方ではないし、私は、まあ普通に話は出来るけど冬野君が相手だとそうもいかないというかなんというか。


「春原さんさ、」

「はい」

「……俺のこと、苦手だよね?」

「な!」


 苦手どころか好きですが!

 ……なんて、言えたら苦労しない。


「な、なんで」

「あんまり目を合わせてくれないし」

「それは、緊張するから」


 財布とケータイの入った巾着の紐を握りしめて隣の冬野君を見上げる。彼は私より随分背が高い。ぱちっと目があって、数秒。彼は逡巡してから躊躇いがちに口を開いた。


「もしかして、春原さんって」

「……うん」

「男子が苦手?」

「……得意ではないかな」


 なんか、すごく緊張した。小さく息をついて前を向くと、道の先が拓けていて海と出店が見えた。いつの間にか花火大会の会場に着いていた。

 花火が上がる時間まで、私達は出店を見て回ることになった。会場の人口密度はなかなかに高く、暦ちゃんと藤堂君は手を繋いで、優ちゃんと多田君に至っては腕を組んでいた。見せ付けやがって!


「春原さん」

 私が冬野君の方を見るより先に冬野君が少し頭を下げて私の耳に口を寄せた。近い上にすごく好きな声が耳元で聞けるだなんて私は明日死んでしまうのだろうか。


「あのさ、嫌じゃなければ手、繋ごう」

「冬野君は嫌じゃない?」

「うん。あ、でも提案しといてなんだけど手汗とかかくかも…」

「私もかくかもしれないから!全然大丈夫!」


 私の冷静な部分が「それは女子的にアウトなのでは…?」とレッドカードをあげようかあげまいか腕をふらふらさせていたけど、私の手を握った大きな手の感触で全てが吹っ飛んだ。レッドカードがなんぼのもんじゃい!

 冬野君と距離が近いし手を繋いでるし耳は幸せだし顔が熱かった。なんだかもう訳が分からなくなって俯いたら「大丈夫?」と心配そうな彼の声が聞こえてきて、反射的に私は声の方向に顔を上げてしまった。

 さ、さっきよりも近い…

 先程よりも至近距離で顔を見合わせる。冬野君は私の顔を確認した後、いつもはもっとクールな感じの眼差しをほわっとやわっこいものにして、はにかんだ。胸の中がぎゅうと絞られたような感じがして、口から内臓が出てくるかと思った。好きだ。


「春原さん、顔真っ赤だよ」

「浴衣、あついからね…」

「うん。春原さんは男子が苦手だし、しかたないよ」

「浴衣があついからだって…」

「そっか。そういえば浴衣、すごく似合ってる。かわいい」


 私の命日は今日なのかもしれない。


 ◻︎


 十二。先行二カップルの、主に女子から発せられたニヤつき光線の数である。彼女たちの視線を受けるたびに、私の比較的まともな部分が冷静になろうとした。しかしその試みはついぞ実現することはなかった。

 出店に寄って何か物を買うとき、冬野君は私の手を離す。そして何かしらを買って戻ってきた私の手を、彼は自然に掴むのだ。

 まるでそれが普通のことであるかのように。おかげでずっと私のまともな部分は冷静になってくれなくて困っている。


 花火がちょうどいい感じに見えるポジションを確保して、私たち六人は横並びになった。あたりはすっかり暗くなっていて、これなら花火が綺麗に見えそうだった。花火大会の本部の人が何かしらのアナウンスをして、花火はあと数分で上がろうとしている。


「冬野君、その、手を」


 冬野君は繋がれた手を見て、あっ、という顔をした。向かいの出店の並びから発せられている温かな色味の光が、私達を照らしている。


「ごめん」


 離れていく手が、すこし惜しい気がした。


「おかげで、はぐれなかったし助かったよ」

「それでも、ずっと握ってたし…男子が苦手なのにごめん…」


 彼の心底申し訳なさそうな表情に『特別が欲しくなるよ』という言葉を唐突に思い出してしまった。

 冬野君の特別じゃない私は、手を握ってもらえるような理由を持ちあわせていない。私の特別じゃない冬野君は、私の手を握る理由を持ちあわせていない。

 唐突に、特別が欲しくなってしまった。

 離れていった手を、今度は私が掴みにいった。


「男子が苦手だからとかじゃなくて、冬野君が、すきだから緊張するんだ」


 だから謝らないでほしい。


 それから数秒間、私達は沈黙した。冬野君が何かを言おうとして、それよりも先に花火が打ち上げられた。

 お腹に響く花火の音と周囲の観客の歓声。ぱらぱらと火花が消えていく音がして、また花火が打ち上げられる。

 私も冬野君も花火を見ていなかった。花火も、歓声も、私の心臓の音も、全てがうるさい。

 私の熱い手を、冬野君が痛いくらいに握り返した。冬野君の顔が近づいて、耳元で囁かれる。周囲の雑音は気にならなくなって、私の耳は彼の声だけを拾う。


「ほんとうは、嫌われてるかと思ってた」

 首を必死に横に振るとくすくす笑われてしまった。


「でもさ春原さん、俺が話すたびに難しい顔してるから」

「う」

「なんで?」

「声が、すごく、好きで」

「声?」

「…………うん」

「春原さん、さっきより顔が赤いんだけど」


 笑いを堪えるように言われてしまう。察しの良い冬野君は嫌いだよ!いや嫌いじゃないけど!

 脳内の叫びは脳内で完結する。そんな叫びが当然彼に届くわけもなく。

 ひとしきり私の痴態を面白がったあと、冬野君は「自分より恥ずかしがってる人がいると、不思議とこっちは恥ずかしくなくなるものだね」と奇妙な呟きを溢した。


「春原さん、なんかすごく伊都ちゃんって感じで可愛い」


 わけわからん。どさくさに紛れて名前を呼ばれてしまって頭の中が大混乱スマッシュブラザーズだ。あんまりにも恥ずかしくて、顔を花火が見える海の方に向ける。冬野君は笑いっぱなしだ。そして私がすごく好きな声で「俺も、春原さんが好き」と言った。

 彼の言葉を聞いて、たっぷり十何秒くらい停止していたせいで冬野君が「あれ、もしかして花火で聞こえなかった?」と私の顔を覗き込んだ。冬野君は恥ずかしすぎて声の出ない私の顔をじぃっと見つめてくる。


「……」

「……」

「うん、聞こえなかったんだね」


 一見すると穏やかに見えるその瞳の中に、そこはかとない嗜虐的な光が見えた。新たな一面を発見してしまった…。その後三回くらい告白を聞かされて、私達はただのクラスメイトから恋人、という関係になった。


 花火大会が終わって、それぞれ別れて帰ることになった。私は優ちゃんと暦ちゃんにまだ何も言ってないけど、冬野君の「春原さんは俺が送ってくよ」という言葉と私達のアヤシゲな雰囲気にニヤニヤするだけで何も言わなかった。多分突っ込まれていたら私は死んでた。

 からころと慣れない下駄を鳴らして夜道を歩く。手は、さっきと繋ぎ方を変えている。より親密な雰囲気は少しむず痒い。


「春原さん」

「なに、冬野君」

「声以外も好きになってほしいな」

「そんな、私が声目当てな人間みたいな…」

「えっ、違うの?」


 少し声を弾ませて冬野君が問うてくる。クラスでは見たことのない彼のその姿は少し可愛い。「朗読するとき、背筋がピンと伸びてるところとか、意外と意地悪なところとか、なんていうか……すごくハマりそう」と素直に申告してやった。恥ずかしさが成層圏を突き抜けてる。


「付き合い始めてすぐでこんなこというのもアレなんだけど、抱きしめてもいい?」

「そ、それは」

「いや?」

「……嫌ではない、けど」


 そしてこのあとめちゃめちゃ抱きしめられた。多分やっぱり私は今日明日あたり死ぬんだと思う。幸せ死にしてしまいそうだ。

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