第二話「迷い込んだ宇宙人」
「……誰?」
水面を渡る風のように、静かに音が届く。
青い髪が揺れ、微かに波紋が広がる。
澄んだ水のような声──
幻想に囚われていた意識は、ゆっくりと現実の重みを取り戻した。
「あの──」
「あなた……里のエルフじゃないわね」
彼女は眉を寄せると、警戒するように両腕で胸を覆った。
その瞳は湖面の光を映し、深い青の奥でかすかに揺れている。
「エル、フ? えーっと」
「どこの集落から来たの? 今は森を抜けられないはずだけど」
「いや、実はこのへんの人間じゃないんだ」
その言葉に、探るように細めていた彼女の青い瞳は、大きく開かれた。
息を呑む気配とともに、頬を伝った水滴が落ち、湖面に静かな波紋が広がっていく。
「人、間……!? あなた、人間なの!?」
まるで珍獣を見るような視線だ。
「え、そうだけど」
「すごい! すごいすごい! はじめて見た! なんでエルフの言葉が分かるの!?」
彼女は湖面を蹴るように駆け上がった。
弾けた水滴が散り、頬にひやりと触れる。冷たい。
「あなたの名前は? 好きな食べ物は? どこからきたの? 人間ってすぐ死ぬってほんと!?」
まくしたてるように彼女は喋った。
水で体の曲線が滑らかに光り、ほどよい肉付きの身体が迫る。
肉感、爆裂、悩殺。
危険だ、思春期ならば恐らく死んでいる。
しかし俺は三十二歳、社会を知る大人。子供には手を出さない……出さないぞ、絶対!
「服を、服! 頼む! 着てくれ!!」
──する、と布の擦れる音がする。
目の前で彼女が着替えている。堂々と、隠す気もなく。
この娘は恥じらいという概念を知らないのか。
それとも、最近の若い子はこれが普通なのか。
いや、そんなはずは──
とりあえず褒めておくか。
“女は褒めろ”、昔テレビに出ていた金髪ホストの言葉が、なぜか脳裏をよぎった。
「その服、すごくいい」
深い青の布に繊細な金の刺繍。
短い裾から白い太ももが露出しているが、不思議といやらしさはない。
どこぞの令嬢のような気品があった。
「いいでしょ! おばあちゃんが昔着てた服なんだ」
彼女はパッと花のように笑顔を咲かせ、くるりと回って見せた。
「それに、耳も長いな。コスプレ?」
「コスプレ、が何かは分からないけど、エルフはみんな耳長いよ!」
そういう設定なのだろう。
魂までエルフに憑依しているようだ。コスプレイヤー、すげえ。
「着替えたよ! さっ、あなたのこと教えて!」
散歩をせがむ子犬のように、彼女は目を輝かせた。
「……おれは山田、山田緋色。食べ物はカレーが好きで、東京に住んでる。歳は三十二。人間は……まあ、百年は生きると思う」
問われた事を思い出しながら喋った。
寿命まで話すべきか迷ったが、答えれば彼女は喜ぶと思った。
「カレー? トーキョ? 百年しか生きられないの!? わぁ~!!」
彼女は両手を胸の前でぱん、と叩くと無邪気にはしゃいでいた。
*
「うわぁ! 何、この鉄の塊!」
「危ないって、あんまり近づかないで」
彼女は壊れた車を、新しい玩具でも見つけた子どものように覗きこんでいた。
好奇心という言葉に形があるなら、きっと彼女の姿をしているに違いない。
「あぁ……やっぱり壊れてるな、携帯」
車内に放り出されていたスマートフォンは、画面が蜘蛛の巣のようにひび割れている。
「けー、たい?」
「そ、買い替えたばかりなのに……最悪だ、保険効くかな」
「山田、困ってる?」
「ああ、困ってるね。けっこう本気で」
大きく溜息をついた。
神様、なぜ私めにこんな試練を与えるのですか。おお、神よ……
「うーん。里の鍛冶師にいえば治してくれる、かも」
「本当か! その里ってどこに──」
「うーん、でも……人間つれていって大丈夫かなぁ」
彼女は指を唇に当てたまま、考え込むように視線を落とした。
「大丈夫、大丈夫。コミュニケーションには自信がある、任せてくれ」
三十二年間、社会の荒波にもまれた経験は伊達じゃない。
最低限の処世術くらいは、もう身体に染みついている。
車の助手席を見ると、買い置きの缶ビールとつまみが転がっていた。
財布も無事だ。現金は心許ないが、人が住む場所ならATMくらいはあるはず。
落ちていた缶とつまみを拾い上げ、袋にまとめ直した。
かすかに金属の触れ合う音がして、それだけが妙に現実的だった。
とにかく、この森を出たい。
湯に浸かり、シャワーを浴びて、まともな布団で眠りたい──
*
彼女(自称エルフ)と森の中を歩いた。
澄んだ空気を深く吸い込む。肺の奥まで冷たさが染み込んだ。
小川のせせらぎが絶えず耳をくすぐる。
落ち葉を踏むたび、淡い光の粒がふわりと舞った。
足元の倒木には、青白く光るキノコが群れている。
谷底には白い霧が揺れ、遠くの崖からは細い滝が糸のように落ちていた。
──綺麗だ。
まるで映画のロケ地をそのまま現実に持ってきたような光景だった。
道中、彼女の質問は途切れない。
カレーの味、東京はどこか、車は乗り物なのか。
まるで地球に迷い込んだ宇宙人に、現地文化を説明している気分だ。
「ところで、君の名前は何ていうの?」
歩きながら何気なく尋ねると、彼女はぴたりと立ち止まった。
「もうっ、会ってすぐエルフに名前を聞くなんてっ……」
頬をふくらませ、肩をすくめた。呆れてはいるが、怒ってはいなそうだ。
「だめなのか?」
「ダメ! エルフの真名は、本当に心を許した相手にしか名乗らないのよ」
「山田って、本当に何も知らないのね」
やれやれ──と俺を一瞥し、彼女はすたすたと歩きだした。
導かれるまま森を歩いていると──
ふいに木々が途切れ、視界は一気に開けた。
足が止まった。
眼下に広がっていたのは、森の奥深くに隠れた“もう一つの世界”だった。
はるか遠くの崖の上、巨大な樹がそびえている。
天空を支える柱のように太い幹。その根元を抱くように、無数の家々が段々と重なり合い、光をまとっている。
木々と同化した住居に、枝を縫うように空に伸びた回廊。照明で光を放った街は、生きているようだ。
空中には無数の光の粒が漂い、夕暮れの風でふわりと流れている。
遠くの滝は白い帯となって谷へ落ち、立ちのぼる霧が街を淡く包んでいた。
「ようこそ! エバーウッドの里へ!」
弾む声が、背後から届く。
だが振り返る余裕はなかった。
胸の奥で何かがふっと抜け落ち、手の力が抜ける。
気づけば、握っていた財布と袋は足元に転がっていた。
「なぁ……ここって、“日本”だよな?」
喉が乾いて、声はほとんど掠れていた。
「ニ、ホン?」
「ここの……ここの地名は、何ていうんだ?」
「大陸エルデヴィア北方、永遠の大森林エバーウッドだよ。知らずに来たの?」
「地球、じゃないのか?」
胸の奥で、嫌な予感が膨らんだ。
「チキュー?」
困ったように唇を尖らせて発音する彼女に、胸の奥がちりっと熱くなる。
「あーもうっ! ここ! この星の名前だよ!」
焦る俺を、彼女はただぱちくりと見つめていた。
「この星の名前は──“ファンタジア”。広大な海と自然に溢れた、神様に愛される星だよ」
夕暮れの光が、静かに微笑む彼女を照らした。
遠くの空には、星が見え始めていた。
思考が白く染まった。
光を帯びた蝶たち、発光するキノコ──幻想的な森の景色。
理解を拒んでいたが、確かにどれも地球にあるはずもない光景だ。
「……もしかして……まじで、エルフなの?」
「そうだけど。何だと思ってたの?」
「……」
膝から力が抜け、その場に崩れ落ちた。
「山田! ちょっと山田! どうしたの?」
これ、あれだ。アニメで見たことがある。
──"異世界転生"──
迷い込んだ宇宙人は、俺の方だった。




