第十五話「アルツァルシ」
「トレモンティ――ややこしいかな。この名前のオオモトの持主だよ」
「あんたは死者の名を名乗ってるってことか?」
「イエスかノーかでは簡単に答えきれない。おれがトレモンティなのは事実だし」
トレモンティはつるりとした顎を撫でた。説明に難儀している。
矛盾した物言いに釈然としないのは、イデ達のほうだ。
「彼はこの島の警官だった。正義感がなかったわけじゃないけれど、臆病でね。島の変異がはじまってしばらく。オオモトのトレモンティは途中から一念発起して頑張っていたよ。怪物になった元同僚にとどめをさし、熱心な始末派のひとりになったりね」
どれもイデ達の知らなかった経緯だ。
それは【オオモトのトレモンティ】の経過であって、眼前の好青年の生い立ちではない。
トレモンティは担いでいたバックの底を置いた。
肩にかける紐はしっかり握ったままだ。
「でも、さっき臆病だって言っただろう? 二週間もすると耐えられなくなってきた」
「耐えられない? 何に」
「心だよ」
人ひとり寄りつかない砂浜で、トレモンティは海際に位置取った。
見たこともない宝石のような美しい青が、なにもかもを飲込むように広がっている。
トレモンティは、はるかかなた海の果てから届く風に髪を弄ばれるのを放って、舌を動かす。
「さっき、おれはネヴだって言ったね。それも、彼の心がひび割れたからだ。それは彼女の達成すべき目標のひとつ」
「お嬢はここで何をしようとしてるんだ?」
「ここは彼女の願いを叶えるための試験場であり、大きな森の最初の植林場所でもある。【対応】の為の足がかりだ」
アルフの質問にトレモンティはよどみなく答えた。
イデにはわからない。魔術に関わりがあるらしいシグマはひっかかった。
「対応って確か……相似よね。ひとつは全てに、全てはひとつに対応する。似通った状態と性質があれば、規模の大小はあれ、同様の効果と性質を発揮しうるという」
「身近なものでいえば魔術かな? 人間の脳内のシナプスは宇宙の光景と似ている。無限の可能性、底知らぬ閃きの海」
対応。ひとつは全てに対応し、全てはひとつに対応する。
シグマが言っているのは、ANFAにおける魔術の理解――相当に実用的で、本業の魔術師からすれば浅いにもほどがある俗な見方ではある。
それでも現状においてはじゅうぶんな理解であった。
トリスがわずかに触れていた話題だ。
大宇宙と小宇宙は照応しあう。
「巨大な意識の集合である《無意識の海》と、個人の意識である脳が相似しているのは、ある意味では極めて当然と言える」
「それは……」
シグマの歯切れが悪い。
「……だいそれてる」
「察しはついた?」
「……島全体を、自分の脳内にしたてあげようとしてるの?」
目を剥いたのはトレモンティでなく、イデの方だ。
彼女がかような手段をとるはずがない。
一つの脳ではなく、大量の脳を一つのネットワークに仕立て上げることで、強力なもの――《無意識の海》の神性に成り上がろうなどと。
ネヴが他人の意識を侵食してまでちからを得ようとするとは、とても信じられなかったのだ。
そう思ったのが、納得に繋がった。
だから【トレモンティ】が生まれたのだ。
「あいつはカミッロの影響を受けた村人にも、ビクトリアの主人にもキレてた」
「イデ?」
「そりゃ、他人を嗤う為に踏み潰しておきながら、その責任からも逃げようとしてたから。他人の生き方と幸せの手に入れ方をひとつのやり方に強制したからだ。それも、幸福になれなかった側が黙り込んで消えるという方法で」
ネヴの選んだやり方は、そのどれもに似ていて、どれもと異なる。
彼女が願ったのは、イデを助けること。
夢を踏み潰されたものが、希望を手に取る心を持ち続けられることだ。
「だいいち、いくら異常な状況だからって、島民が気丈過ぎる。俺達からすりゃ迷惑でもあいつら、このイカれた状態で自力で立って、自分達のために行動しようとしてやがった」
島民達がやっていたことは、決して正義ではない。
チェレステを含め、己の大切なものを奪われないために、相手のそれを奪っていた。
イデ達が比較的チェレステに苦手意識がなかったのは、彼女が正直で、己がもつ悪性をないと否定して逃げる卑劣さとは、遠い人物に思ったからだろう。
非常にネヴ好みの人物と言える。
ネヴはイデと出会ったことから個人主義者だった。己をどういう人間であるか受け止めることを重視していて、それが善であるか悪であるかは二の次だった。
そのゼロサム具合こそ、彼女の異常性の最たるもののひとつだ。
「あいつが危惧されていたのは精神汚染」
トリスは収容施設への侵入計画を立てる時、イデにそう説明した。
第三の瞳による分析――非実在の存在を物質であるかのように触れる能力だ。これは超自然的なちからをもって、対象を好き勝手にいじくる異能に他ならない。
物理的のみならず、概念的にも。
メデゥーサの瞳。魔眼。邪眼。世界のかたちをとらえる感覚。
見る行為そのものに魔性が在る。
ならば、本来は見ただけで相手の心を手玉にとることが出来るはずだった。ありえべからざる眼。
今までは自分で出来ると気づかず、そうしたいと願った事も無かっただけだ。
「幸福を掴みたいと願うやつには、その行動力をくれてやるだけの精神の支えを施す。願うにも心の方が限界に来た奴は、その役目から解放してやる。そういうことなんだな?」
「そうだよ。最初、己の正義に従おうとしたトレモンティには、勇気が足りなかった。その勇気を支えてやった。だがトレモンティは疲れてしまった」
トレモンティがイデの回答は正しいと花丸を押す。
素早い理解者に、彼は嬉しそうに口元をほころばせた。明るい笑顔は、ネヴに似ていたかもしれない。
「ただひとりの人間として、ちっぽけな心で世界と戦う。大仰と思うかもしれないが、彼はこの島で生まれ育った。世界ときかれればここが浮かぶ。小さな島ひとつでさえ、彼ひとり奮闘したところで劇的に変わり、明日にも決着がつくわけじゃない」
オオモトのトレモンティは、戦いたいと願った。
ひとりで戦うことは孤独で、つらい。イデもそれで諦めた。
ネヴは彼に声をかけ、寄り添い続けた。その頭のなかに。
そしてトレモンティは戦った。最初は誇りで満ちていた。保身のために弱者を見て見ぬふりをしてきた恥に向き合い、本当になりたかった自分に近付けた。
そのうち戦えなくなった。気力は摩耗し、未来は希望でなく不安で満ちた。
ならば、それを無理矢理にはしらせるのは、トレモンティの心のかたちを変えてしまうこと。別人にしてしまうこと。ネヴは他人の尊厳を軽んじるのが嫌いだ。
「ネヴはトレモンティを眠らせてやることにした。決して見捨てない。ずっと味方だと約束したからね。それが責任というものだ。勿論、死後までも面倒を見るつもりだとも」
褐色の肌のトレモンティが、己の胸に手をあてる。
「疲れてしまった、可愛いトレモンティは、優しく休ませてあげよう。でも、トレモンティが望んだ己自身は残り続けるように。同じような願いをもっていたけれど戦えなくなった精神のかけらを、彼らの理想をかたどった人形に入れてやることにしたんだ」
「それがあんたか。日に焼けた肌のトレモンティか」
「穏やかで、人を助け、活発に振る舞う好青年。英気と未来を思わせるような姿。若々しいちから、意志。おれはそういうもの。おれはネヴィー・ゾルズィーの脳細胞となった人々の集合体だ。彼らがこうありたいと願った個人でもある。共有アバターとでも言おうかな?」
アバター。化身、分身という意味だ。
好ましい人形のなかに、何人もの別人の欠片が入って、新しいいち人格として動いているというのか。
ダヴィデを参考にしたのかもしれない。
やはり彼も嫌っていたあたり、自我と呼べる独自の意識を持っているのだろうが。
自意識に関する懸念は、そう時をへずに実証された。
「ところで」
トレモンティはおもむろに話題を転換した。
「きみたちは、おれ達をどうする気だい?」
シンプルな問いだ。範囲を指定しない、曖昧な質問でもある。
イデ達もまた、たったひとつの実直な答えを返した。
「ネヴを連れ帰る」
「そう……」
トレモンティは眼を伏せる。困っていた。
眉間には谷が生まれ、両眉は垂れる。沈痛な面持ちだ。親しい友人を裏切らなければならないかのような顔。
オオモトのトレモンティも、相棒を殺す時にこのような表情をしたのだろうか。
「おれはネヴから生まれたものだけれど、人格自体は独立しているというのはわかってもらえたよね」
彼は願いを掌に握りしめ続けられなかった人々の残骸だ。
彼らのための墓標であり、擬人化でもある。
その心はネヴの影響下にあっても、意志は自由でなくてはならない。
「君達が彼女にとって大切な人達なのは知ってる。しかし、おれたちにとって、ひとがこうして生きられることは希望だよ。どんな弱者さえ、戦うちからと未来が手に入る可能性が生まれるのに。連れ戻されては困る」
トレモンティはかぶりをふって、悲しみを振り落とした。
釣り道具の鞄のチャックをジャリリと一気にひらく。
しゅるり。布をこすって取り出されたのは、ひとふりの長物――鞘の形に見覚えがある。それは、刀だった。




