第九話「軍隊蟻」
イデは鼻から息を吸う。意図して呼吸を速めに。体に酸素を回す。
呼吸は基本中の基本だ。緊張をやわらげ、体勢をリラックスさせる。凝り固まった思考は、動きを硬直させる。ほぼ無防備とイコールだ。
「そらっ」
ヴァンニの果敢な打ち込みを、紙一重のタイミングで受ける。腕でとらず、拳に手をそわせて軌道を変える。
ブロックすれば体が緊張すれば、イデの動きが止まってしまう。
そうなれば止まった間に繰り出されるヴァンニの二撃目に攻められる。
ヴァンニの拳は重い。だがまだ身体的な優位のおかげで、イデは痛めつけられずにいる。
重心を崩されなければ、しばらく保つ。
かといって安心はできない。
唐突に視界からヴァンニが消えた。
嫌な直感に足をひく。目を通せば、腰をかがめたヴァンニが膝を押そうと手をのばしていた。
(長くは保たねえだろうな。他の《蟻》どもが去ってから、特に能力の変化は見られないが)
イデの推察が正しければ、《蟻》はだんだん強くなる異能のはずだ。
銃弾を避けたことも判断材料のひとつになっている。
以前受けたアルフのレッスン曰く、通常「銃弾を避けるのはありえない」。
ANFAに所属する異能者を最も悩ませる課題のひとつが、銃をもった相手との立ち回りといっても過言ではない。
9mm口径の拳銃で、弾の秒速が300m前後だというから文明さまさまだ。
異常存在の取り扱いを主な役目とする『管理部』のなかでも、弾よけに近い芸当が出来る職員は限られている。
きくところによると、主に三人。
管理部最強と謳われる警備Aチームのリーダー、バンシィ。
銃撃の速度じたいを落とせるという探索チームリーダー、ハニエル。
そして魔眼で精神状態を見抜き、撃たれる前に相手の動向を予測できるネヴだ。
実際には他にもいるかもしれないが、「やった」という噂が確認できているのはこの三人。
先ほどヴァンニがやったのは、三人目、ネヴに近い。
(《蟻》の死によって底上げされた動体視力で、引き金に指がかかる前に動きを発見した。だから対応できたし、できる。それぐらい強いと見積もった方がいいかもしれない)
薄く開いた口から蛇のような呼気が鳴る。
《蟻》のいずれもまだ銃を使っていない。アルフはうまく二人を相手どり続けるという熟練の技を披露しているも、決定打は加えられないでいる。
左右から襲われているのもあるし、下手に殺すと強くなられてしまう。
イデは意を決した。
アルフと戦う《蟻》の二人に対し、大声をあげる。
「おい、マヌケども!」
意識がそれた。ヴァンニの攻撃をさばきそこねる。
腹の上部分に、拳の『面』が入り、酸素の塊が飛び出す。
「ぐっ……キレて暴れたあげく、その程度とは警備員が笑えるな!」
安っぽい挑発だ。
だが、感情の波が極端に大きくなっている《蟻》達は無視できなかった。
《蟻》二人が歯を食いしばり、血管が浮く。
イデに露骨に構いはせず、衰えぬ体力でアルフに牙を剥くも、見るからに怒りのボルテージはあがっていた。
「んだよ、キレてんのか? こらえ性がねえなあ」
ヴァンニがイデの腕を絡め取る。そのまま膝裏に圧力を加えられる。いわゆる『膝かっくん』だ。
次いで腕に力を込められた。
体の中から硬いものが割れる音がした気がした。
おられた。右腕だ。利き腕である。重大な損傷であった。
暗澹としかける感情を抑え込み、腹から息を吸う。アルフから習った戦闘法のひとつ。酸素の供給による痛みと恐怖の克服である。
彼は痛みを消す方法なんてないと言った。そして続けた。「痛みはなかったことにして戦え」と。
胸から酸素を取り込み、わずかでもリラックスを試みる。
「痛くない」と言い聞かせ、罵詈雑言を思いつく限り述べていく。
「そろいもそろってぶち切れて、みっともないとは思わないのか!」
「あーもう、うるっさ……!」
《蟻》マテウスが、《蟻》バルトロメが組み付こうと飛びかかる間に、回し蹴りをしようと跳ねる。
さなか、苛立ちに叫んだ時だ。
憤怒に囚われるも、強力無比な技を放っていたはずの技のキレに、ぶれが生じた。同じ《蟻》であるバルトロメも。
それを逃すアルフではない。
身をかがめ、飛びかかろうとした《蟻》バルトロメの腹下に回る。肩で《蟻》バルトロメの腹部を上方へ突き飛ばすと同時に、肘鉄を食らわせる。
肘の造りは頑丈だ。うまくあたれば人を殺す。
みぞおちを思い切り肘でつかれた《蟻》バルトロメが中空で激しくえづいた。
飛びかかろうとしていた《蟻》マテウスには、アルフの長い足が伸びる。お留守だった軸足の足首をつま先でひっかければ、《蟻》マテウスは前方につんのめってしまう。
つまり、アルフめがけて。
勝手に傾いてくる《蟻》マテウスの顔面に、遠慮無しのストレート。
「ぐあっ」
《蟻》マテウスの鼻から血が放物線を描く。
マテウスは《蟻》のなかでも辛抱づよいのか、揺れと衝撃に振り回され、なお立ち上がろうとした。
アルフはうつぶせになり、なんとかたとうとするマテウスの背に乗ると、首をしめるように、両手をあてた。
《蟻》マテウスは、ほんの三秒程度で「かくん」とあたまを落とした。
首筋にある大きな血流、酸素供給をさえぎられたことによる気絶である。
イデはヴァンニに腕を破壊されながら、乾いた笑いを漏らした。ささやかな満足の哄笑である。
「はは……」
《蟻》達の異能は「共有」だ。
あくまでイデの仮定ではあるが。
ひとつの鍋の中身を分け合うように、命を、感覚を、感情を《蟻》同士で共有する。
コピーのような情緒不安定っぷりもそう考えれば理解できる。
ヴァンニを除き、全員が一緒になって感情を暴走させているのだ。
イデは獣憑きではない。特殊な訓練も受け始めたばかりだ。抜きん出た才能があれば、いまこんなにところにいない。
イデにある勝ち筋はひとつ。アルフだけだった。
防戦一方だったのは殺さないため。だとしたら、選べる手法は『気絶』。
アルフであれば、《蟻》達のコンビネーションが精細をかけば、若者達の意識を刈り取れると思っていた。
いくら不死といえど、彼らも人間だ。感情の蓄積には限界がある。怒りを抑えきれていないのはまさにその証左といえよう。
「感情を一瞬でも溢れさせて、集中力を削がせたか。おれの異能、そういうとこ使いづらいんだよねえ」
ヴァンニは「はあああ」と嘆息する。イデの腕に更なる力を加え、本音のうかがえない平熱ぶりでアルフに視線を移す。
「一対一か。ソレも悪くないかな」
「血の気が多いね。応援、呼ばなくていいのかい?」
「……………………」
おしゃべり好きらしいヴァンニは、イデを引っ張り上げて立たせた。
盾にするような位置だが、イデをアルフに対する脅しには使わなかった。
彼は考え込むそぶりをすると、カミソリのような目でアルフをねめあげた。
「おまえ、もしかして……おれの知ってる人?」




