最終話 引っ越しと引っ越し
紆余曲折を経て3週間にも及ぶチェーン店の新人研修を終え、昼過ぎに家に戻ったおれはそのままソファーに倒れこんだ。そして同時に半分程度本音で誰かと会話がしたいと激しく思った。
そして迷いに迷った結果、というより単純に2択で大塚か藤倉さんで迷った結果、藤倉さんに半分程度本音で文面を考えて送ると、数時間後、おそらく仕事終わりのタイミングで、帰り寄ります、と返信があった。
「そっか。そんなにもしんどいものなんですね。新人研修は」
カップラーメンを食べ終えた後、ペットボトルを持ってソファーに座った藤倉さんはしみじみと言った。
「散々殴られた後にアイスノンと痛み止めを渡されるっていうか、味のないお粥を三食出された後に、夜食としてインスタントラーメンを出されるというか。とにかく誘導がえぐい」
研修終わりの精神状態が影響しているのか、部屋での自分の居場所が見つけられなかったおれは、紙コップ片手に立って過ごしていた。
「なんですか、それ? ご飯まずかったんですか?」
「いや、例えとしてね。実際は普通の弁当とかだった」
「でもいいじゃないですか。感慨深いですよ、本当にとんかつ屋で勤めるなんて。しかも社員にまで。ふふ、あ、すいません」
藤倉さんはペットボトルを床に置き、膝を抱えて笑いをこらえた。
「いいよ、どんどん笑ってくれ。結果良かったから。でも研修に関して言うと、現場のとんかつ屋ととんかつは悪くない。悪いのはこういう研修を作って売るやつ、そしてそれを買うやつらだ」
「あはは、はは。うん、そうです、よね。でもそれはみんな一緒ですよ。わたしも派遣会社で勤めてますけど意味わからないですもん。企業だって派遣使いたいところもあるけど、派遣じゃないと来ないからっていうところも結構ありますから」
「へえ、そういうもんなんだ」
「だって企業と派遣登録者がわたし達の会社の家賃とか、電気代を払ってくれてるんですよ」
「そっかあ。搾取する側とされる側かあ」
「でも吉井さんだって搾取する側ですからね」
「え、おれ? とんかつ屋だよ」
「よく考えて下さい。だっていいぐらいに切ってある豚肉のかたまりですよ? そのまま焼いて食べておいしいじゃないですか。十分じゃないですか。それをね、わざわざ頼んでもいないのに油を大量に用意して、次から次へと衣をつけて揚げてですよ? さらにキャベツまでつけて。もともとね、必要なのは焼いた肉、味噌汁、ご飯。ここまでなんですよ。それを揚げることによって料金を上げ、余計なお金を取ってる。確実に搾取の一種だとわたしは思いますね」
「しかしそれを言ったら」
「そうですよ。大根だってみんなの土から養分を奪ってますからね。そういう、ってなんでこんな話を?」
「いいんだ。本当にいいんだよ、おれは誰かと話すことを求めていたから。どんな内容だって今は心地いい」
「吉井さんの心情はよくわからないですけど。あ、そういえば引っ越すんですか?」
「うん、勤めるところ転勤レベルで遠いから。明日から一旦ウイークリーマンションに入って部屋探しの予定。で、明後日から働く。うまくいけば次の休みあたりで引っ越しかな」
じゃあ、うん。そうなら。藤倉さんは自分の端末を取り出して操作し始めた。
「わたしここに住みますよ。吉井さんが出て行くなら明日からでも」
「え、いや。それはちょっと。え?」
「ちょうどわたしの親類が部屋を探してるんですよ。その人が今のわたしの所、わたしがこっちに移ります。どうせ管理会社に退去の連絡しますよね。その時にこういうことになりました、書類送って下さいって言っといて下さいよ」
「おれ詳しくないからわからないけど、そんな感じで大丈夫なの?」
「大丈夫です。原状回復もいらないって次の人が言うんですよ? 向こうとしては、やったー、ついてるー、なんもしなくていいー、らくちんー、ですよ」
藤倉さんは軽く手を叩きながらこちらを見る。
「うーん、でもなあ」
「ああ、もういいですよ。5千円貸しますから。それでよしとしましょう」
「正直、あの時の5千円は実際には5、6万の価値ではあったけど、今のおれにとって5千円は8千円程度だから」
おれは頭の中で5千円札と千円札をイメージしながら言った。
「新生活ですよ、8千円だってあったほうがいいです。荷物段ボールに入れておいてくれれば、必要なものだけ先に送りますし」
その後、藤倉さんは引っ越しについての具体的な話を一人で進め、おれは途中から半ば諦めていたが、管理会社のために軽い反論を繰り返していると、平行線なので今日は帰る、また明日の朝来る。藤倉さんはそう言い残して部屋を出た。
おれはこの家で一番大きなリュック、つまり研修で使っていたリュックの中身を取り出して使うべきものはテーブルに置き、洗うべきものは洗濯機に入れ、捨てるべきものはゴミ袋に入れた。
ここに住む? めちゃくちゃだよ。ただまあ一か月家賃2重払いがなくなるのはでかい、手当がそのままもらえる。だからでかいんだけど。
藤倉さんがいなくなったことで居場所を見つけたおれはソファーに座り、サイドテーブルに置いてある線香入れを手に取るが明らかに中身のない感触で思い出す。
そうだ、無かったんだ。何回やるんだよ。
おれはカウンターキッチンに移動し、テーブルに置いたウイークリーマンションの契約書をパラパラとめくった後、ボールペンを手に取った。
翌朝の10時22分。出発する準備を終えこの部屋に住み始めた頃からの思い出に浸かっていたおれはインターホンの音で強引に現実に戻された。
あと数年分の思い出あったんだけどなあ。台所で水を飲み、モニターに映った藤倉さんを確認したおれはドアを開ける。
「どうですか? 出発する準備は」
「まあ大体は。12時には出るつもりだった」
「とりあえず一旦これを。タクシーに残りあるんで」
両手に持った荷物を置き、藤倉さんは階段を降りていく。
本気だったんだなあ。なんとなくわかってたけど。おれは藤倉さんを見送ってからソファーに座り、残りの思い出を早送りで頭に浮かべた。
「先に鍵貰っておいていいですか? 忘れそうなんで」
玄関で靴を脱ぎながら藤倉さんは言った。
「いや、おれはいいんだけど。やっぱり管理会社的には迷惑っていうか」
「今日電話すればいいじゃないですか。その辺はお互い頑張りましょうよ」
あと、これ。木崎さんはどでかいトートバッグから木箱を取り出す。
「線香買ってきました。これいいやつなんですよ、煙少ないタイプで」
新しい線香、か。うん、助かった。ちょっと線香に無駄な意味を持たせつつあったからな。いいよ、これで戻った。良かった。
気付けばおれは笑っており、それに気づいてさらに笑い、面白いからもういいや、と、さらに笑いながら、あれ前にもこんなことがあったな、と関係のないことまで思い出してさらに笑いながら藤倉さんに鍵を渡した。
「声を出すほど何が面白いんですか」
「旅立ちは明るいほうがいいからさ。送ってほしい荷物はまとめてソファーの横にあるから。冷蔵庫とかは後で考える。あと、どうでもいいんだけど潔癖症最近ゆるくない?」
「そうなんですよねえ」
木崎さんはスリッパを履いていない足元に視線を落とす。
「なんか平気になってきたんですよ。いい傾向だと思います」
「それはよかった。じゃあ行くわ。管理会社には連絡しとく。でも無理だったら一旦帰ってもらうから」
おれはリュックを背負って玄関に向かう。
「はい、お願いします。また今度」
笑顔で手を振る藤倉さんを背におれは部屋を出た。
あれは線香のか? マンションを出たおれは二階の窓から出ている煙らしきものに気付いて立ち止る。
いいね、どんどんやってくれ。おれは駅に向かって歩き出した。




