第16話 掴んだ/2軒で1人
田川で勤め始めたおれはすぐに環境に慣れ、新しい日常を過ごし始めた。
掃除に関しては何も言われなかったが、接客する際に「丁寧さの中にくだけたやり取りを入れろ」という矛盾した注文が4日目の業務後にあり、通常の反応だとは思うが翌日から目に見えない部分での支障が出だした。
しかしある夜、ふと何の思いれもなくサッカーをやっていた中学時代に、年上にうまく絡む同級生のことを思い出し、口調を真似ながら布団の中で仮想常連客と話した時に、おれは文字では伝えられない感覚を得た。
い、いける。掴んだ。これはいけるぞ。おれは、おれは掴んだぞ……。
深夜2時過ぎであったが、興奮したおれはベッドから勢いよく飛び起き、線香に火を点けて窓から入る月の光で煙を追った。
単純な話だ。自分が主語のときは緩め、相手のときは締める。これだけでいけるはずだ。え、終わり? あれ、思ったより普通だな。言語化できてるし。
もう少しこの話題で起きている予定であったが、あっさりと終わったのでカーテンを閉めて線香を消し、おれはもう一度布団に入る。
なんか線香を使うことに意味が出てきたような。まあいい、とりあえずはこのままやってみよう。でも、慣れてきたからもう少し働いてみるか、せっかく掴んだし。田川は5時間勤務だからなあ。もう一か所か、となると天丼屋か天ぷら屋。いやあ、もういいだろ。一個「と」で守ったんだ。でも他に案があるかっていうと、ない。うん、ない。あ、逆によ。もう一つとんかつ屋でもいいかも。田川は個人店だから、そうだな、例えば17時ぐらいから22時ぐらいまで、いや21時ぐらいまでチェーン店のとんかつ屋で働くとか。あれだよ、差がね。こういうとこチェーン店だなあ、とか。差がわかったからなんだ。というのはあるけど。あ、そうだ。また面接受けたら藤倉さんから5千円もらえる。よし、明日調べて明後日には面接に行こう。
中途半端に覚醒したことにより眠れないことを覚悟したが、5千円で何を買うかを想像しているとすぐに寝ることができた。
「いや、全然いいんだけどさ。今もとんかつ屋なんでしょ、なんでうちなの?」
12月9日。予定通りチェーン店のとんかつ屋で面接を受けていたおれは、激しい後悔に飲み込まれていた。
「多分、とんかつが好きというかとんかつ屋が好きなんですよ。だから、いろんなとんかつ屋のことを知りたいというか。それで今は個人経営の所なんで他も、という気持ちが」
ふーん。好きだから、ねえ。納得できない様子の店長を見ながら、自分でも理解できないことを人に納得させるのは無理だ。というか調子に乗り過ぎたな、やっぱり2軒目はやりすぎだよ。おれの心情は後悔から諦めに移行しつつあった。
「ああ、ごめん。質問は気にしないでいいよ。今人足りてないからどのみち雇うつもりだったし。最初は研修なんだけどいつから来れる?」
なんかみんな言うよな。いつから来れるって。そんなに予定ある状態で面接受けんの? おれは、一応今の所との相談が必要だが基本的には明日からでも可能だ、と答えにならない返答をした。
「じゃあこっちでセンターの空き探すわ。基本的には3時間を4日。時間は午前午後と選べる。ええっと、9時からと13時からだったかな。こっからだと、大体1時間ぐらいの場所。研修終わってからシフト組むけど17時から22時の4週8休で大丈夫?」
「はい、とりあえずそれで。やってみてきつかったら相談します」
「助かるわ。これからのやり取りだけど、最初は貰ったメールのアドレスに送るから。じゃあ頑張って」
「ああ、はい」
おれは会釈をしてパイプ椅子から立ち上がった。
職員通用口から出たおれは、ぎりぎり雨がやみそうな天気だったこともあったので、時間つぶしと現場の視察も兼ねて正面に回って店舗に入った。
食券でかつ丼を買い、窓から外を歩いている人を見ているおれ。数分後、かつ丼を持ってきた店長は笑いながら、面接終わりで客席に座っているやつは初めてだ。そう言って丁寧にかつ丼を置いて厨房に入った。
面接当日の夜、採用の連絡が入ると、よし、2つのとんかつを合わせると、かなり少な目の大人の1人分の収入にはなりそうだ。ということは、おれは1人だ。1人の大人に戻ったんだ。
今後は1人分の人間として社会に参加できることを単純にうれしく思うと当時に、ボランティアのことが頭に浮かぶ。
もう限界だ、迷惑にならないよう早く伝えよう。おれはボランティアコーディネーターの社内用アドレスに連絡。3ターンのやり取りを経て、田川の仕事後、17時半に病院で面談を行うこととなった。




