第9話 空気/スタンプの枠
11月14日。いつも通り七時に起きたおれは、クイックルワイパーを使った床掃除と身支度を終えた後、定期の有償ボランティア活動をするため病院に向かった。
場所はおれの家から自転車で40分程度の入院設備もある比較的大きな整形外科の病院で、駐輪場に自転車を停めたおれは流れるように正面玄関から病院に入り、受付で首から下げる許可証を受け取る。
そしてさらに流れるようにそのまま受付横にある扉をノックして、ボランティア活動に来たよ、知ってる? おれだよ、何回か来てるよ。といった内容を中程度の声で言った。
すると、奥から今じゃないんだよな感を全面に出しながら眼鏡を掛けた50代男性がよろよろとおれの前に来た。
「いつもありがとうございます。じゃあ、ええー、ああ、そう。地下に置いてある車椅子の空気チェックをお願いしようかな」
50代男性は事務の女性に鍵を用意するように指示し自分の席に戻った。
感情が一切読み取れない事務員は、近くの壁にかかっていた鍵の束を見つけて、よろしくお願いします。とおれに手渡した。
「ありがとうございます。終わったら持ってきます」
鍵を受け取ったおれは礼を言ってエレベーター横にある階段で地下に向かった。
地下1階に下りたおれは、なんらかの検査をする場所、職員の休憩室を前を通り倉庫に到着。受け取った鍵を使ってドアを開け照明を点けた。
20畳程度の倉庫内はベッド、おむつ、非常食等の備品が乱雑に置かれており、おれは入口横にある空気入れを持ち、入って右奥にある車椅子が並べてある区画に移動する。
誰かに聞いたわけでもないけど。おれは車椅子の前に屈んでタイヤを指で押し空気の入り具合を確認する。
聞いたわけでもないし、アンケートを取ったわけでもないけど、ボランティアをしていいて一番困るというか、がっかりすることって「行ったときやることが決まってない」だ。絶対、これだと思う。これはねえ、みんな押してくれるよ。なんだろうなあ、このさ、なくていい感。とりあえずボランティアで来てもらえるなら応募だけはしとこう、内容は後で考えよう感。「行ったら話と違ってた」これもあるけどおれはそんなに気にならないんだよなあ。はいはい、現場と連絡する人で行き違いあったのねー、うん。わかるよー、やるやる。できることなら。ってすぐ切り替えられる。なんか最終的にはせこい気がするんだよ、やることを決めてないのって。
「行ったときにやることが決まってない」ことについての不満を言語化しながら数十台あった車椅子のチェックと空気入れは四十五分程度で終わり、電気を消して部屋の鍵を掛けていると、
「ボランティアさん。まだ時間ある?」
通りすがり看護師に声を掛けられた。
「はい、大丈夫です」
この人確か何かしらの役職だったような。おれはやや細めの浦沢直樹の漫画に出てきそうな外見の看護師に答える。
「上の車椅子の空気お願いしていい? 入院患者が乗ってる車椅子」
「ああ、はい。いいですよ」
「助かる、ありがとうね」
やや細めの浦沢直樹の漫画に出てきそうな外見の看護師は、ポケットから取り出したオロナミンCをおれに差し出した。
「あ、いや。あんまりそういうのは」
「いいっていいって。本当に、いいっていいって」
おれの手首を握り外側に向けてオロナミンCを強引に握らした後、やや細めの浦沢直樹の漫画に出てきそうな外見の看護師はカップ麺の封を開けながら休憩室に入った。
外側に開くと手は開くんだなあ。おれはもう一度鍵を開けて空気入れを手に取り階段で2階に上がった。
2階のナースステーションで事情を説明すると、それは助かる、本当に。でもいちいち看護師は付けられないから適当に病室に入ったり、デイルームにいる人のやつをお願いね。わかってると思うけど病室入るときは配慮してね。もっと言うと嫌がってたら止めてね。というか2階はいろんな人がいてややこしいから長期療養病棟の3階に行ってね。
丁寧に上げて落とされたおれはとりあえず礼を言い、3階に向かった。
3階のナースステーションでも同じように説明をすると、ありがとうから入るのは同じだったが、3階の長期療養の人は車椅子をがんがん使わない人も多いから2階の方がいいんじゃない。と言われ、おれは、えーと、これこれこういうことを2階で言われたから3階に来たんだよ、おれが3階がいいって言ったわけじゃないよ。そう自己弁護を含む言い方で説明すると、3階ナースステーションにいた看護師は明らかに面倒だという表情を隠さず、じゃあ好きにやっていいけど、わたし関係ないし。そう言い残してその場からいなくなったので、あの浦沢直樹の看護師はどこ勤務だよ。おれは憤りを感じながら一番奥の病室に向かった。
4人部屋の病室に入り、誰もいないことが目視でわかっていながらもなんとなく頭を下げつつ車椅子のタイヤを押し空気を入れるおれ。部屋はカーテンで仕切れる仕様で、日当たりの良い窓からは小学校のグランドが見える。
なんか開放感があって気分がいい。空気入れもはかどるよ。でもやっぱりあれだな、みんな忙しいんだな。というか全体的に空気入ってねえ。これは浦沢直樹の看護師はいいことを頼んだよ。正解だわ。
一部屋終わった後、同じ要領で各部屋を回り、タイヤを押す、空気を入れるという作業を繰り返し3階の車椅子という車椅子のタイヤをパンパンにしたおれは、終わった旨をナースステーションで伝えてから、一応2階に戻り、3階終わったから2階も一応やっときます? という体で先程とは別の看護師に訊くと、是非お願いしたい! という肯定的な返事をもらったことで気を良くし、3階と同様に各部屋を回り車椅子のタイヤをパンパンにする作業に没頭し12時30分過ぎに終了した。
「終わりました。お疲れさまでした」
特定の誰かというよりは2階ナースステーションの空間に向けて言うと、机に座って作業していた2人の看護師が、目線をこちらに向け軽く会釈をしてくれ、残りの4人に関しては一切反応がなかった。
忙しいんだよな、というか忙しくなくてもしょうがないよ。おれは空気入れを持って階段を降りる。
今日は9時30分からの予定だったから単純に12時30分までやればスタンプがもらえる、そしてその時間は過ぎた。
先程の倉庫に戻り入口に空気入れを置いたおれは、ドアを閉め暗闇の中端末で時間を再度確認して事務所に戻った。
鍵を返してバインダーに挟まった紙に今日の作業内容を規定の紙に手書きしていると、
「スタンプのカードはありますか?」
先程の事務員が机の中からスタンプを取り出しながら言った。
おれは、ああー、そういえば。という演技を乗せながら鞄から手帳を取り出して手渡す。
「お疲れさまでした。またよろしくお願いします」
スタンプを押したカードを事務員から受け取ったおれは、スタンプが3個押されていることに気付いた。
「すいません。これ一回の活動で1個なんですよ」
「あ、そうでした。すいません」
おれが差し出したスタンプカードを受け取った事務員は、定規を使って丁寧に2個分の枠に二重線を引いた。
「今日もありがとうございました」
事務員からスタンプカードを受け取ったおれは、会釈をしてその場を離れ受付で許可証を返して駐輪場に向った。
おれのスタンプが、スタンプ欄が2つ無くなった……。この気持ちなんて言うんだっけ、絶望? もうちょっとなんかないか? おれは自転車にまたがり、そして降り、もう一度またがろうとしたが諦めて押して歩道に出た。
目に入ったのはバス停に一人立つ20代女性の笑顔、風船でも飛んでいくんじゃないかと思うぐらいの空、病院の向かいにある回転寿司に入ろうとする車を運転している男性のハンドルの回し方。
おれは言い訳と自己保身に沈みそうになっていた自分の背を押し、ついでに自転車も押して進む。
スタンプ1回300円。おれはそれが欲しい。それは間違いない。でも金のためだけにやっているわけじゃないよ。そもそも金のためにやっているのであれば働いている。じゃあ、なんのためにやっているかというと。えー、なんとなく成り行きだ。でも成り行きだからって、スタンプを押して欲しいという気持ちがあってもいいじゃない。でもこれで欄が2つ死んだから最大98個。事実上600円捨てたことになる。600円かあ、つらいなあ。何でもできるとはいえんが、今のおれにとってはでかい金だ。600円かあ、何買えたかなあ。卵だよ、欲しいのは。単純にまあ値段にもよるけど20~25個は買えたな。ってことは、おいおい2か月間弱2日に1回卵食えたのかあ。まじかあ、でかいな。これから年末まで食えたのかあ。えー、そう考えるときっついなあ。まあいいよ、気にするなというのは無理だ。忘れよう、忘れるしかない。
あ、でも枠なければ自分で作ればいいだけのことじゃ。背表紙にレシートとかを貼って□の枠を二個作って。そこに押してもらえば。いや駄目だ。こいつここまですんのかって、スタンプ押す人とスタンプを確認する市の人に思われる。どんだけスタンプ欲しいんだよ、って。でも、いいじゃないか。人からどう思われようと事実おれはスタンプが欲しいんだし、自分の好きな風にやれば。まあ好きなって言うとちょっとニュアンスが違うけど。でもおれは人からどう見られてもいいとは思えないんだよ。結果としてそうなったのはいい。でもわかっててやるのはきつい。そうなったらなんでもありっていうか。
信号待ちのため自転車を停めたおれは一度クールダウンを試みる。
しかしさっきバス停で待ってた人なんか笑ってたなあ、いいなあ。おれは笑えないよ。それと回転寿司屋駐車場に入ろうとしてた人もなあ、いいなあ。あんな特徴的なハンドルの回し方もあるんだなあ。そして回転寿司を食べることができるんだなあ。おれは寿司も食えないし笑えないし、車もない。
信号が変わったことに気付いたおれは、倒れこみそうになる自分の体を自転車のサドルで支えながら進んだ。




