第七十三話
「お久しぶりです、ヨハンさん」
「あー、えっとぉー……」
しかし声を掛けた相手は、何故か探ってくるような目をわたしに向けてきた。もしかして会ったことを忘れられているのだろうか。
「前に一度工房へお邪魔しました、リリアナ・フローエです」
「ああ、ジルヴェスター様の恋人……」
「違います」
「そうだっけ?」
ヨハン・ビットナーさん。魔道具技師の彼とは冷却装置を作ってもらった時に会ったきりだけど、性格は相変わらずのようだ。
「珍しい所で会うもんだね。あ、そっか。リリアナちゃんはジルヴェスター様の弟子だったっけ」
「ええまあ。でも城下で働いているヨハンさんがどうしてここに?」
基本的に平民は城内で働いていない限り、簡単に入城はできないはずだけど。そう問えば、ヨハンさんは胸元のから一枚の書状を取り出した。そこには入城許可の印が押されていた。
「納品ついでに寄っただけ。前に言ったかもしんないけどさ、俺のところの常連客って貴族が多いのよ」
「ご自宅だけでなく、お城にまで納品するのですね」
「もちろん。追加の金さえ払ってどこにでも届けるさ。あ、俺に会ったことは他の人には内緒ね。もちろんジルヴェスター様にも」
いたずらっ子ぽく笑うヨハンさんに、苦笑で返す。王宮に忍び込んだならまだしも、ちょっとした寄り道くらいなら、他の人も普通にしていることだ。
それにもし何か面倒ごとが起きれば、ヨハンさんどころかその貴族の方まで責任を取らなければならなくなるだろうから、間違っても下手なことはしないだろう。顧客と信用は大事にせねば。
「それで何を読んでいたのですか。やっぱり魔道具関連の?」
「ああ、それ目当てで来たんだけど、今は息抜き」
そう言ってヨハンさんは、読みかけの本を差し出してきた。ほう、『ノワール王国史』。意外と言ってはなんだけど、イメージしていた物とは大分違う本が出てきた。
「へえ、歴史書ですか」
「読んでみると、案外面白いんだよ。リリアナちゃんもどう?」
「そうですね、少し興味はあります」
自分の国のことだもの、専門書よりかは幾分読み易いだろう。そう思って受け取ると、じゃあまたね、とあっさりヨハンさんは戻っていった。結構真剣に読んでいたように思えたのだけど良いのだろうか。
行ってしまったものは仕方ないと、譲ってもらった本を片手に、クリス先輩の所に戻った。薬学の本に見入っている彼の邪魔をしないよう、隣りに静かに腰掛け、わたしも同様にページを捲る。しばらくすると一息ついたのか、クン、と背中を伸ばしながら先輩がこちらを向いた。
「おいお前、さっき誰かと話してなかったか?」
「え? いいえ、誰とも」
「そうか?」
咄嗟だったとはいえ、流れるように嘘を吐いた。あぶない。内緒と言われたのに、ものの数分で約束を破るところだった。
一瞬訝しむような視線を向けられはしたけれど、それ以上追及されることはなかった。セーフセーフ。
「それで? 何を読んでいるんだ?」
「なんとなんと、歴史書です」
「ノワールの? 何でそんなものを」
「意外に面白いですよ。国の成り立ちや、歴代の英雄についても書かれています」
「周辺国からの侵略を防いだという過去の王族たちのことだろ?」
「そうなんです。先輩、詳しいですね」
「学校で嫌ってほど習ったからな」
へえ、と感心の声を漏らす。貴族のお子様たちは、魔法や武術以外にそんなことまで勉強するのね。ああ、前に一般教養も習うって先輩から教えてもらったっけ。
「だけど現代まで語り継がれる王族ってすごいですね。最初の戦争なんて千年も前らしいですよ」
「国の歴史を語るうえで戦争は外せないだろう。だがそれに勝ち続けてきたおかげで、今の平穏があるんだ」
最後の戦争からは五十年程経つが、それ以前は頻繫にあったらしい。その一つ一つ名前が付いているけれど、あまりにたくさんあって、ここで暗記するのは無理そうだ。
ノワール王国はとても大きな国だけど、最初から大国だったわけではない。勢力拡大を狙う周辺国からの侵略行為に何度も打ち勝ち、徐々に国土を広げていったのだと歴史書には書かれている。
そうして豊富な資源、恵み豊かなな大地を持つ、今のノワール王国が出来上がった。よって現状この国に戦いを仕掛けようという国はほぼないと言っても過言ではないらしい。平和なのは良いことだ。
本を読みつつ、先輩の解説に耳を傾けていると、気づかぬうちにけっこうな時間が過ぎていた。慌てて貸し出しの手続きを済ませ、借りた本を大事に抱えると、帰りも先輩が研究所まで送ってくださると言うのでお言葉に甘えることにした。こういうところは、しっかり男の子なのだなぁと思う。
しかし研究所に戻っても、やはりブライル様は帰って来ていなかった。休みなのだからご実家に戻られたのかもしれないし、まだ姫様の所に居るのかもしれない。
一人きりだとすることもないので、食事を簡単に済ませ自室に籠った。せっかく借りれた料理本だけど、貸出期日もあるので、実際に作るのは後にして、とりあえずどんどんレシピを書き写さねば。読み書きを教えてくれた母親に感謝しながら、必死にペンを動かせた。
そうして数日、何事もなく過ごした。姫様がいらっしゃるのは相変わらず緊張するけれど、それ以外は概ね平穏な日常だった。
通常の業務を熟し、空いた時間にレシピを試作する。夜にはまたレシピを書き写す、を繰り返す。
そうして上手くできた物を試食してもらうと、三人からも上々の反応をいただいたので、作り手側としても安心して姫様にお出しすることができた。
しかしその平穏もブライル様の一言により、早々に終わりを告げることになる。大事な話があると言われたのは、魔法薬の講義が終わってすぐのことだった。
「話とは何でしょうか」
近頃話しかけられるだけで不安定に大きく鳴る心音を抑えながら訊くと、ブライル様は難しい顔のまま、深く皴が刻まれた眉間を揉んだ。何だろう、そんなに言いにくいことなのかしら。
というかブライル様、疲れていらっしゃるように見える。研究所の業務に加え、最近はお城の方に度々出掛けられているから、きっとすごく忙しいのだろう。
それなのに毎日とはいかないまでも、こうして講義まで開いてくれるのだから、本当に頭が上がらない。大丈夫だと、今はおっしゃってくれているけど、今後も多忙が続くようなら、わたしのことは後回しにしてもらおう。
「最近ティアーナ姫がこちらに来て食事をしているが」
「はい。畏れ多いことに、わたしが作った物を残さず召し上がってくださっております」
「姫もお前の料理を気に入っているようだ」
「そんな……光栄です」
少しだけ笑ってみる。どうだろう、ちゃんと嬉しがっているように見えるだろうか。
本当に畏れ多いことなのだ。平民である、しかもつい数ヶ月前まで貧民街に住んでいたわたしなどが、簡単にお会いできる方ではないのに。
「医師の話によると、リハビリの甲斐もあって脚の方もほぼ完治したようだ」
「ああ、なら良かったです」
「なので今後は通常の生活に戻られることになった」
通常の生活? 健康だった以前の生活に戻るということ?
「……それは、姫様はもうこちらにいらっしゃらないということでしょうか」
「まったく来ないことはないかもしれぬが、これからは殆どを王宮で過ごされる」
「そうなの、ですね」
気づかれないようそっと息を吐いた。姫様はご病気が完治された。そしてわたしは緊張とモヤモヤの連続だった毎日から解放される。こんな喜ばしいことはない。だけど後者は大っぴらに喜ぶことはできないので、ぐっと抑える。
「ついては二号、いきなりで悪いが、お前には明日から王宮に出向いてもらう」
「は? 王宮、ですか?」
「そうだ。そこでティアーナ姫の専属料理人になってもらいたい」
専属、料理人?
わたしが、姫様の?
「え……えええええ!?」




