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第七十話

 いつもの研究所。いつのも食堂。いつのも料理やデザート。

 一つとして変わらない。

 なのに、どうしてこうなったのか。


「んっ、おいしいわ! 貴方も食べてみなさいな、ジルヴェスター」

「言われなくても食べている」

「ほら、フェリクスも」

「ティアーナ、わかったから落ち着いて」


 いま目の前では、お姫様がわたしの作ったお菓子を召し上がっている。幻でも妄想でもない。正真正銘のお姫様、この国の第三王女、ティアーナ姫が。

 クリス先輩の問題が解決したあの日から数日後、またしても姫様がご訪問された。エアハルト様とは別のお供の方を数人連れて。

 わたしとクリス先輩は驚いたものの、ブライル様とフェリ様はこうなることを予測していたのか、若干諦めているようにも見える。そればかりか、姫様の分の食事まで用意するように言ってきた。

 ブライル様たち以外の貴族の方に召し上がっていただく為、奮闘したのが少し前。それなのに次は王族ですか!? と、本気で泣きそうになった。アルトマン家で習ったことが、こんな形で有効活用できるとは思いもよらなかった。ああ、イレーネ様とジョエルさんには感謝してもしきれない。

 ただし姫様が召し上がるのは昼食、もしくはティータイムのお菓子だけ。昼食は材料を増やせばいいだけだし、ティータイムもいままでは設けてなかったけれど簡単なものならばと引き受けたのが間違いだったのかもしれない。恐れ多いことに、姫様はわたしの料理やお菓子を気に入ってくれて、数日おき、下手をすると二日三日続けて研究所を訪れるようになった。

 そしていまもティータイムに出したブルーベリーのマフィンにふわふわのクリームをつけて、だけど上品に口へと運んでいる。

 しかしいくらリハビリだといっても、こんな頻繁にいらして大丈夫なのだろうか。杖はまだ手放せないようだけど、歩くスピードは少しずつ速くなっているから効果はあるのだろう。それに最初にお目にかかった時よりもずいぶんと顔色が良くなったように見える。

 だからこれはいいことなのだ。いいことなのだけれど……。

 得体の知れない何かが、わたしの心の中でゆっくりと増殖しているような気がして気持ち悪くなった。





「ほんと、貴方たちばかり自由にしてズルいわ」

「ズルいだなんて、私たちは仕事をして普通に暮らしているだけよ」

「普通にって、貴族なのにパーティーにもほとんど出ないで、社交は親兄弟に任せきり。そんなことが許されると思って?」

「仕事が忙しいのだから仕方ないだろう」

「貴方たちがそう言って逃げているのはわかっているのよ」


 そして後から聞かされたのだけれど、ブライル様とフェリ様、そしてティアーナ姫はなんと幼馴染みなのだそう。わたしが言うのもなんだけど、姫様に対する二人のくだけた言葉遣いに最初はとてもヒヤヒヤした。だけどお供の方も姫様自身も何も言わなかったので、これが三人のプライベートなのだとわかった。

 そんなこんなで姫様と幼馴染み二人は仕事の合間を仲良く過ごし、毎回同席しているクリス先輩はいつのも天使のような、というよりかは幾分引き攣ったの笑顔を貼り付けていた。最初は逃げようとしていたらしいけれど、姫様に謝辞を述べられるほどの薬師という立場の先輩に、それは無理だったようだ。

 その間のわたしはというと、さすがに王族の方と一緒にというわけにはいかないので給仕に徹している。クリス先輩からは裏切り者と言わんばかりの恨めしい視線が飛んでくるが、そこはスルーさせていただきます。


 そしてもう二人、わたしに怪訝な視線を投げかけてくる御方がいる。

 一人は言わずもがなブライル様。時折目が合うのだけれど、どうしてもこちらから逸らせてしまう。逃げているのだ、わたしが。

 あれからわたしたちは、まともに会話をしていない。ブライル様は何か言いたそうにしているのだけれど、わたしが無理やり話題を変えたり用事を作ったりして、やはり逃げてしまう。無礼なのはわかってるけれど、触れるのが怖い。


 エアハルト様の言葉を聞いて、その意味を理解した後から、自分がどうやってやり過ごしたのか覚えていない。だけどあの日以来、ブライル様と姫様、二人の婚約のことがわたしの頭を支配し続けていた。そして己のあまりの愚かさに自己嫌悪に陥るのだった。

 何を幸せな気分に浸っていたのか。恋人がいなくとも、婚約者がいることくらい予想できた筈なのに。上級貴族ならば尚更だ。

 いいえ、ちょっと待って。恋人がいないなんてどうして断言できるの?

 いくらブライル様が仕事の虫で、研究所に自室を持っているからといって、毎晩毎晩研究所に泊まっているわけではなかったし、どこに行くとは言われなくても、自宅へ帰っているのだと思い込んでいた。だけどもしかしたら恋人と逢瀬を重ねていたかもしれない。

 ベルティルデ様たちは、女のわたしが彼の近くで使用人として働いているだけで、あんなに嫉妬を燃やしていたのだ。きっと他にもブライル様を慕っている人がたくさんいるだろう。その中にブライル様が気に入ったご令嬢だっていたかもしれない。


「……ナちゃん」


 だけど婚約者がいるのに、他に恋人を作るなんて不貞を働くかしら? ブライル様がそのような御方には見えないのだけれど。

 ううん、裕福な貴族だからこそ、愛妾を持つ前提で恋愛に奔放な方もいらっしゃると聞くわ。

 でもブライル様の婚約者は王族なのよ。そんな自由に振る舞えるかしら。

 ブライル様だからこそ、相手が誰ということは関係ないのではないかしら。


 こんな風に、わたしの中の天使と悪魔……ではないけれど、二つの考えが頭の中をぐるぐると渦巻く。恋愛経験もないくせに、よくもまあこんな想像ばかり働かせれるものだ。

 しかもブライル様色男説の方が若干勝っているのが笑える。わたしはどうもブライル様を悪者にしたいらしい。


 違う違う。だからブライル様はそんな御方じゃない。

 表面上の立ち振る舞いだけを見ると、自分本位に思えるかもしれない。だけど本当は他人を思いやれる優しい御方なのだ。仕事熱心で弟子のことも大事にしてくれている御方なのだ。


 だけど、優しい人=不義をしないとは限らなーー



「リリアナちゃん?」

「は、はい!」


 突然背後からフェリ様に声をかけられ、肩を弾ませる。


「大丈夫? どこか体の具合でも……」

「だ、大丈夫です。ちょっとぼーっとしてしまっただけで」

「それなら良いけど。あ、お茶のおかわり貰えるかしら」

「かしこまりました」


 いけない、いけない。仕事に集中しなくちゃ。ブライル様の女性関係なんて、わたしが気にすることではないのだから。

 お茶の用意をしていると、フェリ様が姫様たちに聞こえないよう、そっと耳打ちをしてくる。


「……少し疲れているんじゃない? デザートを頼んでいたのは夕食の時だけだったから、その分仕事も増えたでしょう」

「いえ、正直な話、あまり手の込んだものはお出しできていないので、逆に申し訳ないというか……。本当にこんなもので良いのでしょうか」

「良いに決まっているじゃない。ほら見て、ジルなんか一日に二回もリリアナちゃんのお菓子が食べられて幸せそうよ」

「いつもの無表情にしか見えませんが、眉が動いているのでそうなのでしょうね」


 可愛らしいお菓子を食べているようにはまるで見えないくらい難しい表情だけれど、あれはマフィンに集中している証拠だ。そんなブライル様を眺めていると、思わず口元が緩み、胸の中がほんわか温かくなった。ずっと見ていたい気持ちになったが、いけないともう一度自分を律する。

 するとそこで別の視線とぶつかった。怪訝な視線を投げかけてくるもう一人の人物、ティアーナ姫だ。

 あまりにジッと見つめてくるから、どうしていいのかわからない。軽く会釈をして、ドキドキしながら背中を向けた。

 姫様がわたしを見るのは、きっとベルティルデ様と同じ理由なのだろう。だけど無関係なベルティルデ様とは違って、姫様が怒るのは正当な権利だ。色目ではないけれど、婚約者に視線を送られていい気がしないのは当然である。


 これまでのわたしは、ブライル様に甘え過ぎていた。そして立場も考えず、近くに居過ぎた。

 婚約者の存在がわかったいま、それはダメなことなのだ。だからこれからは、なるべくブライル様には関わらないようにしようと誓う。


「わたくしも結婚したら自由になれるのかしら」

「好きにすれば良い」


 ちょっと夢を見ただけだ。

 傷は浅い。



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