6章17話 ジョセフィーヌの仮説と、霊薬の代償
「サン・フルーヴ帝国皇帝ならびに神聖国大神官・エリザベス聖下のご帰還ー!」
神聖国への半月ほどの滞在の後、聖帝はジュリアナとクララと主要な枢機神官、そしてファルマを伴ってサン・フルーヴ帝国に帰都を果たした。
聖帝の馬車列が帝都に乗り入れると、市民たちが熱狂とともに取り囲み、大騒動になっていた。女帝の不在の間に大惨禍に見舞われた民衆は、彼女の帰還を待ちわびていた。
安寧から突き落とされた市民たちにとって、彼女の存在が帝国の守護神そのものだと気付いたのだ。
人々はあとからあとから、彼女の後を追いかけてついてゆく。
母の帰りを待っていた子供のように。
「エリザベート陛下……エリザベス聖下! やっとお戻りになられましたか」
「帝都は大変でした!」
「ご帰還お待ちしておりました。もう少しお早くお戻りになっていれば……」
馬車行列が大路を駆け抜ければ、人々の声が聖帝を追いかける。
「陛下がお戻りになれば、悪霊は恐れるに及ばん!」
「大神官と皇帝を兼務なさるのだとか。帝国民としても誉れ高いことだ」
ファルマは沿道の人々に朗らかに手を振る女帝の傍に控えながら、その光景を目に焼き付けた。彼女が皇帝だったから、帝都は持ちこたえたのだろうと思う。
そして歴代のサン・フルーヴ帝国皇帝には、かならず世界最強の神術使いが即位するというしきたりが、宮廷が不落であるという信頼が、このように簡単に悪霊に侵略されるこの世界において、人心を引き付けてきたのだろうとファルマは思うに至った。
帝都に戻ってきた聖帝エリザベスに安息はなかった。
被災した地域へとおもむき、悪霊による犠牲者をいたみ、悪霊によって破壊された市街や生々しい惨禍の爪痕の残る主要な施設の復興を指揮し、市民のために巨額の特別予算を執行した。
帝都の安全の要となる帝都神殿には由緒ある秘宝が複数安置され、ファルマがそれまで神殿に秘宝として置いていた彼の職員証は取り戻すことができた。
「母上ー、かまってー」
「まったく、甘えん坊で仕方のないやつだ」
「なんと言われてもかまわないよ」
少し手を休める時間ができると、旅程が長引いて寂しさと不安からかへそを曲げた皇子と遊んだり絵本を読んでやるなど、母親としての顔もみせていた。
エリザベスの帰還とともに日常を取り戻し始める帝国だが、帝都の神殿に不安を感じたらしい市民の中には、ランブエ市に疎開したまま戻ってこない者もいる。
ド・メディシス邸も、呪器による破壊が著しく、人が住める状態に補修工事を終えるまで避難日程を延長していた。
帝国医薬大学校では、融解陣の呪いを克服するため、聖帝の皮膚細胞をほんの一部切除し、それをシートにして増やす細胞培養が極秘裏に進められていた。
ファルマから直接に開発を任されたのは、すっかり彼の一番弟子となりつつあるエメリッヒ・バウアーだ。
エメリッヒはその責任の大きさに竦むこともなく、純粋に楽しみながら開発を続けている。帝国医薬大に戻ったファルマは、作業を続けるエメリッヒと学生、そして技術職員たちに声をかける。
「お疲れ様。エメリッヒ、調子はどう?」
「こんにちは教授! 見てください、絶好調なんですよ!」
「あれからどのくらい増えてる?」
「そうですね、あと数日で目標の面積に達します。細菌やウイルス感染検査も陰性ですよ!」
ほめてほめてとあからさまに顔に書いてあるエメリッヒをねぎらいながら、ファルマが培養室に入ると、神術陣の施された恒温培養器の中で育つ細胞シートをエメリッヒがファルマに示す。
特殊な培養器具等は使い捨てではなく、メロディに制作を依頼していた。
「感心だよ、殖えたもんだね!」
ファルマとエメリッヒはそれを顕微鏡で確認してカウントし、細胞数を概算する。
「順調だね。聖下の表皮細胞の培養を助ける栄養細胞と、培養できる無菌の環境が無事でよかったよ」
「本当ですよね……悪霊に汚染されてしまっていたら、除染は大変だったでしょうね」
大学に残った学生や教職員たちが一丸となって、大学を命がけで守ったからだ。その中にはブリュノをはじめエメリッヒやジョセフィーヌ、神力を失ったキャスパー教授なども含まれる。
「それと、君が熱心に研究をしてくれていたからだ」
「おそれいります」
研究室の学生用居室に戻るとそこへ、獣医の業務を終えたらしいジョセフィーヌが合流する。彼女も自主的に、エメリッヒの実験を手伝い始めていた。
「こんにちは、教授! お越しになっていたんですね」
「今日は時間ができてね。さて、今後の予定を説明するよ」
この細胞が準備できたら、女帝の背にある融解陣を細胞に転写し、細胞の性質を解析する。既に感染症だとわかっている融解陣を転写する方法はこうだ。
まず、融解陣を構成している感染源を標識する抗体を作製し結合させる。その抗体を、外部から電圧をかけて表皮の細胞シートへと写し、感染源を生体内から、生体外の環境に乗り換えさせる。女帝の体から、呪いを切り離してしまうのだ。
ファルマ、ジョセフィーヌとともに細胞の情報の整理を行っていたエメリッヒは、難しそうに眉を寄せていた。
「どうしたのエメリッヒ君、変な顔して」
「あの。その戦略に異存はないのですが、一つ不安があるんですけど」
「何?」
「素人質問かもしれませんが、聖下の融解陣はいつ、どうやって発現したのですか?」
「先代が亡くなったからだよ、答えになっていないけど、現状、わかっていることはそれだけしかないんだ。トリガーは先代の死で、それは感染症だというところまでわかっている」
ファルマは緘口令を敷いて、細胞培養に携わっている一部の学生にはエリザベスの容態を伝えている。聖帝の命を救うべく使命感に燃えている二人だが、エメリッヒは何か腑に落ちないことがあるらしい。
「大神官様と、陛下は接触していなかったのですよね。空気感染などで感染してくるものなのですか?」
「そうだね。大神官の死によって、融解陣はエリザベス聖下に感染し、発現したんだ」
「融解陣はどうやって先代の死を認識し、聖下の御背中に乗り移ってきたのでしょう」
「それは難しい質問だな」
「それに、その感染源を細胞シートに転写して培養する予定ですが、俺たちへの感染はありませんか?」
「感染後の作業は俺がやろうと思っているよ。幸い、俺は感染しなかったみたいだからね」
「発症しなくても、潜伏感染をしているのかもしれませんよ?」
エメリッヒの鋭い突っこみがさく裂しているが、ファルマもそこは保留にしておいた部分だった。
感染の発端を墓守のせいにしてしまうのは簡単だが、どうも腑に落ちない。
ファルマの袋小路にはまりこんでいた思考をすくい上げたのは、ファルマたちの作業を見学していた、獣医でありファルマの教え子でもあるジョセフィーヌの言葉だった。
「あの、間違っていたらごめんなさい」
「何、言ってみて」
ファルマは自由な意見を促す。
「蜂や蟻に似ていると思いません、この現象って」
「どういうこと?」
「女王蟻や女王蜂が死ぬと、新しい女王ができるというところです。死んだということがわかると、次の女王をたてようとする」
まさに異世界獣医の視点である。
薬学者であったファルマは、感染症ということを念頭に置いていたため、この現象を忘れかけていた。ましてや、この異世界の動物学には精通していない彼のことである。そのあたりの知識は、言うまでもなくジョセフィーヌの方が上だった。地球でも、不妊の階級を持ち、繁殖個体の限られた社会性動物集団からなる”真社会性”を持った種は昆虫だけでなく、哺乳類ではネズミにも数種類いる。
異世界にいるかどうか、ファルマは知らないが、地球ではハダカデバネズミなどの真社会性動物がいる。ファルマは前世、このネズミに関しては老化研究で遺伝子解析に携わった経験がある。
ハダカデバネズミは通常のマウスに比べて、十倍も長生きで、がんに対する耐性も高く、無酸素にも耐えるとあって、薬学者にもおなじみの研究動物である。
ハダカデバネズミも蜂や蟻のような真社会性の生活様式をとっているが、女王蜂や女王蟻に相当する繁殖メスが死んだ場合は、同じ巣の中でたった一頭が繁殖のためのメスとなり、繁殖メスが生殖できる限りにおいてその他のメスの性成熟をフェロモンで防いでいるという点では、蜂や蟻と共通する部分がある。ジョセフィーヌの推理は続く。
「融解陣によって選ばれるのはそういう仕組みがあるのではないでしょうか。その場合、陛下が大神官の死を見た、という刺激が融解陣の発動に影響している可能性があります」
「そうか……確かに」
ファルマは感心して手を打った。
ジョセフィーヌは彼女の意見が認められたので嬉しそうだ。
「蜂や、蟻のシステムねえ……」
今回の現象を無理やりあてはめてみると、ピウスの死によって、彼が発していたフェロモンか何かが途絶え、その介在物質の途絶を認識した女帝が次の融解陣を負ったということになる。
つまり、蜂も蟻もハダカデバネズミも、繁殖メスの死を認識しているのは視覚ではなく、フェロモンであり、受容体である。
「いや待てよ、このアイデアだと、世界中でたった一人しか融解陣を負わない理由にはならない……あ、そうか。だから素質のある者は、神聖国の枢機神官として大神官のもとに予め集められていたのか。でも、フェロモン分子を化学受容することは、別に感染とは言わないんだよなあ……」
診眼ではすでに、感染症だという答えを得ている。
それに合うストーリーは、とぶつぶつと考え始めたファルマを、エメリッヒとジョセフィーヌは顔を見合わせ、交互に見つめる。
「となると、陛下は物質Xの受容体を持っていたか、受容体を発現させるようなものに感染したということになる。ピウス聖下から何が出ていたのか、今上聖下が何を発しているのか、そういう視点で調べてみるよ」
聖帝のゲノム情報をごく一般的な神術使いのそれと比較すれば、物質Xの受容体の存在を突き止められるかもしれない。この仮説に飛びついてしまうのは視野を狭窄させるが、確かめてみるのは悪くない。ジョセフィーヌは腰を浮かせる。
「私たちも文献を調べてみます! そういう社会性を持った動物をリストアップしてきますね」
「ああ、ありがとう。有意義なアイデアだ、助かるよ」
「俺は時間がありませんので細胞のほうに専念しますけど」
「そうだな。そうしてほしい、ではジョセフィーヌ君、よろしくね」
「はいっ!」
(学生から刺激を受けるようになったなあ。やりとりが一方通行でなくなったのが嬉しい)
ファルマがジョセフィーヌとエメリッヒ、教え子たちの成長を実感しながら医薬大の教授室に戻ると、出勤してきたゾエに遭遇した。
「ゾエさん久しぶり、しばらく席をあけて悪かったね」
「あっ、お久しぶりです教授! いつから来られているんですか?」
「昼間に出勤したのはしばらくぶりだな。いつも文通みたいなことして申し訳なかった」
夜間に帝都に戻っていたファルマは深夜の教授室に忍び込み、ゾエの机にメモを残して業務を指示していた。ゾエはファルマの顔を見て嬉しそうだ。
「今日午後から面会予約を取ってほしいんだけど、いいかな」
「かしこまりました。どなたへでしょうか」
ファルマが会いたかった人物、それはキャスパー教授だ。
約束の時間にキャスパー教授の教授室を訪れると、老教授は書籍をうずたかく積み上げて資料に目を通すことに没頭していた。
「わざわざ来てくださるとはね、ファルマ・ド・メディシス若教授」
「お時間をいただいて申し訳ありません」
キャスパー教授の声のトーンはいつもと変わらない。
しかし、彼女は同じようであって以前と同じ状態ではない。
ファルマは見舞いにと、教授の好みを熟知したうえで選んだ茶菓子を手渡す。
「まあまあ、私の大好物なのよ」
「秘書さんに教授のお好みをうかがいました。さて、本題をよろしいでしょうか。父が禁術を使用し、キャスパー教授の神力を枯渇させることになったと聞きました。お体はいかがですか?」
「ああ、体のほうは問題ありませんよ、ご心配をかけたわ」
彼女はブリュノの禁術の代償に、生涯にわたって神力を失ってしまった。
ブリュノはかろうじて神脈がつぶれなかったと聞いたが、キャスパーは無事ではなかったのだ。その話を聞いていたファルマは、彼女の神脈に手を加えられないものか、直接会って確認したかった。
「それを心配してきてくださったのかしら」
「そんなところです。少し、神脈を拝見させてください」
「そんなことができるのね、でも、希望は持たないわよ」
キャスパー教授に目を瞑ってもらってファルマは神脈を診たが、確かにもう彼女の体に神脈は残っていなかった。神脈が枯れて、完全に閉じてしまったようだ。
ファルマは神脈が閉じた状態をこじあけたことはあるが、今はもう、閉じた痕すらなくなっている。この状態では、さすがのファルマも手のほどこしようがない。
彼女はまったくの平民になってしまっていた。
キャスパー教授はファルマが言葉を失っているので、少しおどけたように尋ねる。
「だめだったみたい?」
「はい。もう、神脈はないようです」
「ふふ、そんな顔をしないでちょうだい。私は元気ですし、いいのですよ。私もこれで身軽になったわ。風属性神術使いだったのだけど、神術は苦手でしてね。このところの訓練も億劫になっていたところ。だから、力を失ってせいせいした。杖は折って捨てたわ」
淡々と話すキャスパー教授は、その覚悟を裏付けるように、もはや杖を帯びてすらいなかった。
神力を失った教授には、必要ないものだからだ。衣食住にただちに困りはしないだろうが、財産を没収され貴族を追放されることに間違いはない。
「あの、もしご不便なことがありましたら、当家にいらしてください。歓迎いたしますので」
老学者を食客としてもてなすぐらいの余裕はド・メディシス家にある。
キャスパー教授にとっては窮屈かもしれないが、彼女の老後の生活はド・メディシス家が責任を負うべきだと考えた。しかし、ファルマの気遣いを一笑するかのように、キャスパー教授はどこか肩の力がぬけたように笑った。
「厄介になんてならないわ。貴族ではなくなっても、私は学者です。神術に頼らずとも、我が学問の道に何ら恥じることはありません」
かくしゃくとした老教授は、同情を嫌っているように見えた。
「教授のご英断と、教授が多くの人々を救われた功績を忘れません」
「ありがとう。どうか、もしそう思っているなら哀れに思わないでちょうだい。そういうの、こちらも惨めに思いたくないから」
「……承知しました。それでは」
「ここのところ寒いから、風邪をひかないのよ」
声にならない言葉を飲み込みながら、ファルマは会釈をして引き下がった。
静かに退出しようとしたとき、キャスパー教授は思い出したように強烈な一言を放った。
「それよりも、お父様の呪いの方が深刻なのだけど、どうなったのかしら」
「? 父は神力を失っていないと聞きましたが」
事情を把握していないファルマに、キャスパー教授は青ざめた。
「ええ、でもあと一度でも神術を使うと、体が朽ちて死んでしまう、そういう呪いを負ったのよ、お父上は」
キャスパー教授の言葉を受けてそれを完全に理解するまでに、ファルマはしばし時間がかかった。霊薬ハバリトゥールは、悪霊から市民を守る薬だった。禁断の調合と引き替えに、彼は禁術に手を染めることになってしまったのだが、それはつまり。
「術者に代償のない、都合の良い禁術なんてないの。もしそんなものがあるとしたら、別に禁じられていないわ」
つまり、ブリュノは実質的に、二度と神術が使えなくなったのだ。
今日はもうこの後に一話ありますのでご注意ください。
◆謝辞:本頁の生物学的ギミックにつきまして、生物学者のmeso_cacase先生にご提案いただきました。どうもありがとうございました。




