3章6話 異世界薬局マーセイル工場の操業準備
異世界薬局で通常業務を営むファルマのもとに、待望の知らせが伝書鳩により届けられた。
マーセイル領の製薬工場が完成したのだ。
「完成、早かったなぁ」
ファルマ的には年単位で待たなければならないかと覚悟していたのだが、蓋をあけてみれば着工から半年近くで完成した。
「ファルマ君、御曹司だから違うわねー。あと、帝国や神殿の出資が凄いし」
尊爵家の財力に頼らず、自力で稼いだ財力で必要なものは何でも調達してしまうファルマを、エレンは末恐ろしく思う。
そのくせ、自分の個人的な娯楽のためには殆ど金を使わないのだ。
その無欲っぷりがますます賛同者、崇拝者を集めているのだろう、とエレンは分析する。
私腹を肥やす貴族の多い中で、ファルマは驚くほどの無欲だった。ただ単に子供で世間知らずで、私腹の肥やし方を知らないから、というのではない。
「工場って何を作るんですか? おか……」
ロッテが思わずお菓子、と言いかけて口を押さえた。無意識のコメントだったようだ。
「お菓子じゃないよ、薬だよ」
ファルマはベタな発想に笑う。
「でっ、ですよね!」
ロッテは恥ずかしくて耳まで真っ赤になった。
完成から間もなく、実験や製造に必要な器械や道具を業者に発注し、ファルマ自身も薬神杖での飛翔を使って精密機器を素早く運搬したり、大型器械は馬車で運ばせたり、現地で物質創造を行ったりして準備を整えていた。まだ内部は完成していないが、建物、設備自体は完成したのだ。
また、マーセイル領主代行のアダムに頼んで、工場労働者200人を現地雇用した。ファルマは工場の設備をあらかた整え終わると、サン・フルーヴ帝国薬学校に出向く。
キャスパー教授から抗生物質産生のために選び出されたいくつかの放線菌の菌株を預かり、それを大量生産のために運搬するのだ。
ファルマと会ったキャスパー教授は、自信を持って選んだ3つの株をファルマに託す。名残惜しそうにしていた。
「よろしくお願いしますわ、ド・メディシス教授。この子たちが患者さんの役に立ちますように」
教授就任前から、すでに教授呼ばわりはファルマには慣れない。
それでも、訂正するのも無粋だ。
「確かにお預かりしました、キャスパー教授。私がこれらの菌を責任を持ってスケールアップを行い、抗生物質製剤にしてゆきます。その薬は、患者さんのもとへ必ず」
「皆で見つけた菌です、たのみましたよ」
キャスパー教授は我が子を託すような心境だったのだろう、
箱にはリボンでラッピングがされていた。
そして蓋に名前が書いてあった。
”キャスパーちゃん1番”
”エリックくん2番”
”アレクシスくん3番”
マーセイル行きの馬車の中で揺られながら、エレンがキャスパー教授から託された箱を大事そうに抱えたファルマにふと尋ねる。
「なにこれ、誰?」
蓋の上部に書かれた、3人の名前が見えたのだ。
「放線菌の株の名前じゃないかな。発見者の名前と、発見された順番が書いてある。エリック教授もアレクシス助手も今回の研究の共同研究者だ」
研究に携わった研究者の名前を思い浮かべながら、ファルマは何とか解釈した。
「え!? 菌に名前をつけてるの?」
発見者の名前と、発見された順番が書いてある。
別添付の説明の手紙を見ると、やはりキャスパー教授、そしてほかの発見者たちの命名した菌株の名前だった。
「面白い名前の付け方ね」
愛嬌のある教授たちだ、とエレンは笑う。
「うん、まあ発明品、発見したものに名前をつけたい気持ちは分かるよ」
(命名法はそのうち統一すればいいか、せめて属名を追加してくれ、キャスパー属でもいいから)
キャスパー教授たちが張り切って名前を付けたのだから、ファルマはひとまず黙認することにした。
発見者の名前を付けるのは、名誉であり特権だ。それに、こうでなければならないということもない。ここは異世界なのだから、地球の流儀に従う道理もないのだ。
かくいうファルマも前世で、彼の名前のついたいくつかの新規抗生物質の菌株(薬谷株シリーズ)を持っている、彼は命名法に従って名前をつけていたが、キャスパー教授のことは言えないし、嬉しい気持ちもわかる。
「確かにね。この菌って特別なんでしょう? きっとその菌を見つけ出して増やすのに大変苦労されたのでしょうね」
エレンがそう言って、キャスパー教授への賛辞を述べる。
「キャスパー教授たちのしたことは大偉業だよ」
「ちなみに放線菌ってどこにいるものなの?」
「待ってて」
ファルマはいたずらっぽく笑うと、馬車を止めさせ外に降り、そのまま迷いなく道端へと向かう。
「なに? トイレ?」
あらどうしよう、とエレンが顔を背けようとすると、ファルマは靴でざっざっと地表面を除き、身をかがめてひと掬いの土を掴みを拾ってきて馬車の中のエレンに見せる。
土くれを見せ付けられたエレンは、まさか……と身構える。
「ほら、いるよ」
「え、この中にもいるかもしれない? 放線菌が?」
「いるかも、なんてものじゃないよ。うっじゃうじゃいるよ」
ファルマは土を掴んだ手をわきわきとやった。エレンは背中がむず痒くなったようだった。
「ひいぃー! よく持っていられるわね、ファルマ君! 気色悪くない?」
エレンは気持ち悪くなったらしく、ぶるっと身震いする。ファルマは土を捨て、神術の生成水で手をよく洗って馬車に戻ってきた。馬車は走り出す。
馬車の内部では、ロッテが気持ちよさそうによだれを垂らして寝入っていた。お約束なことに「ファルマさまったら、私もう食べられませんよぅにゃむにゃむ」と言っては「やっぱり少しだけむにゃ」という寝言を繰り返していた。
もうそっとしておくのがよいだろう。
「いやまあ、土ってそういうもんだ、多くの細菌やカビ、微生物がどこにでも住んでいるんだよ。というか、俺たちの皮膚にだって数えきれないほど細菌がついているからな」
ちなみに、そういった微生物の働きがあって、土壌には浄化作用があるんだ、とファルマは説明する。
「でも、キャスパー教授が選別した株は特別優秀な精鋭たちだ」
キャスパー教授たちは、その菌の有効成分の抽出物が薬となって、実際に患者に投薬されるのを楽しみにしていた。
キャスパー教授たちが発見したのは以下の3種だ。
①”キャスパーちゃん1番”/ Caspar, No.1
地球の学名はストレプトマイセス・グリセウス(Streptomyces griseus)。
ストレプトマイシン(streptomycin)生産菌候補。
…抗結核薬。結核、らい(ハンセン)病、ペスト等に有効
②”エリックくん2番”/ Eric, No.2
地球での学名はストレプトマイセス・メディテッラネイ(Streptomyces mediterranei)
リファマイシン(rifamycin)生産菌候補。
…半合成してリファンピシンにすると結核、ハンセン病等に有効
③”アレクシスくん3番”/Alexis, No.3
地球での学名はストレプトマイセス・ペウセティウス(Streptomyces peucetius)
ドキソルビシン(doxorubicin)生成菌候補
…抗腫瘍剤(悪性リンパ腫、肺がん、消化器がん、乳がん、膀胱腫瘍、骨肉腫など幅広く効く)
キャスパー教授らは正確な薬の効果を知らないだろうが、ファルマには分かる。
「凄い効能ね。白死病に黒死病にらい病、癌までが治るなんて嘘みたい」
「嘘じゃないんだよ。放線菌にはその力があるんだ」
「ファルマ君かキャスパー教授、どうやってその菌がその薬を作るってわかったの? そしてこの3種に絞り込んだの?」
どうやって同定(その薬剤だとわかる)したのかというと、ファルマが複雑な分析をしたわけではない。
彼のチート能力の一つである拡大視では、化合物の構造までは見えない。
そこでただ単純に、消去の能力を使った。
消去能力を逆手に取れば、薬剤の判別にも使える。
ファルマが心当たりのある抗生物質の名前を片っ端から唱えていって、薬が消えたものがそれだ。この同定方法は正確極まりなかった。
だがファルマはこれで満足することなく、現地の人々のために、他の検査方法を考えなければ、とも考えていた。
「何でなの?」
「え? あ、それはまだ秘密。その時が来たら教えるから」
エレンの素朴な疑問に、ファルマは答えを用意していなかった。
「何よーこんなところだけ水臭いじゃないのー、どういうことなのよー」
「はは、ごめん」
笑ってごまかすしかなかった。
「もう……、じゃあ、またその時ってのが来たら教えてね」
「まあとにかく、キャスパー教授と薬学校の研究者の皆、短期間でよくこれだけ見つけたと思うよ、本当に。抗菌剤が2つに、抗がん剤が1つだ!」
ファルマは仕切り直して感心する。
ファルマとキャスパー教授が陣頭指揮を執ったとはいえ、短期間で立派に有用な抗生物質が3つも見つかったのだから。キャスパー教授個人で研究をしていたら、10年単位で必要だったことだろう。
(これで、たとえ俺が消えていなくなっても、この世界の人たちだけでかなりの病気と闘えるようになったぞ)
ファルマは嬉しくてたまらない。彼の仕事も一つずつ減ってゆくだろう。
だがこれで喜んでいてはいけない。
大量生産ができるようにもっていかないと! とファルマは気を引き締める。
「大学の総力を挙げて、一致団結して一つの研究に大量の研究者が投入されたっていうんだからすごいわよね」
こんなのって前代未聞よ、とエレンは呻る。
研究者の殆どが、自分の研究を中断して参加していたという。これもありえない。
だが、さながら宝探しの様相を呈していた。
第一発見者となれば、名前がつくのだ。その名誉に目がくらんだのだろう。
「薬に自分の名前がつくって、憧れちゃうわー」
エレンはうっとりとする。サン・フルーヴ帝国薬学校の意地にかけて、というブリュノの本気を見た思いだ。その他の抗生物質を産生する菌もじゃんじゃん発見すべく、サン・フルーヴ帝国薬学校での一大プロジェクトは継続中だ。あのノバルート医薬大も、帝国薬学校の動向を注視しているという。
「探せばいいよ、”エレンちゃん4番菌”を。やりかたは教えてあげるから」
ファルマは真面目な顔をしてエレンに勧める。
「菌じゃないものを探すわ」
菌が気持ち悪くて苦手なエレンは、両手を振って即却下だった。
「エレンらしいな」
そんなこんなしつつ、異世界薬局の職員たちは一日がかりでマーセイル領へと出張し完成したばかりの工場を視察した。
その名も、「異世界薬局マーセイル工場」という、そのまんまなネーミングである。
工場の前の門をくぐると、ファルマ、エレン、ロッテ、セドリックを、工場建設を一任された代行領主アダムが直立不動で出迎えた。
「ファルマ様。長旅、御苦労さまでございます」
「色々な手配をありがとう、アダムさん」
ファルマは薬神杖で帝都とマーセイルを行き来して工場の完成を見ていたのだが、他の職員たちにとっては初めてのお披露目だ。
広大な敷地面積を誇る、石造りの工場が彼らの目の前に威風堂々とした趣で広がる。
「わーっ! この工場、すっごく広いです!」
ロッテは、工場の端から端まで、工場を一周走ってみたいと言い出して、バテてしまうぞとセドリックに止められる。工場一周は3キロはあるだろうからそのよそいきの靴じゃだめだ、とファルマもお勧めできない。
「ちょっとした宮殿みたい、すごいわ! ファルマ君の屋敷より広いわよ?」
エレンも感嘆の声をあげた。
ド・メディシス家の敷地より広いというのは、かなりのものだった。
いったい世界中のどこで、官民一体となってこれほど大規模な生産拠点を築き、患者のための薬を造ろうとしている薬局、薬店、薬屋があるだろう。そう言って、ここまでくるとエレンはファルマの偉業を素直に称賛する。
「立派なものでございますな」
セドリックも感動していた。
外観も、彼がこれまで見たこともない巨大な施設だ。
製薬工場の前庭から、工場の玄関に入った。
「ぶーっ!」
先頭だったファルマは、玄関に入るなり噴き出した。
ホテルのエントランスホールと見まがう開放的なスペースには、創業者ファルマ・ド・メディシスの等身大の銅像が!
「何ですかこれ! 何日か前までなかったのに!」
必死に抗議するファルマに、エレンとロッテはくすくすと笑う。
「ああ、エスターク村からの寄贈でございます。先日完成いたしまして。喜んでいただければと、運ばせました」
領主代行アダムがすましてこたえる。
エスターク村から「これで工場の創業者の銅像を」と金貨の寄付があったので、アダムが創らせたという。
「やっぱりエスターク村か!」
彼らのことだからやりかねないか、とファルマは諦める。
「ファルマ様、銅像の横に並んでみてください」
ロッテに言われて、ファルマは横にたつ。銅像はかなり美化されていた。銅像は白衣の裾がたなびいて、腕組みをしながら遠くを見ている。
ファルマも銅像を参考に同じポーズをした。顔もつくる。
「どう?」
渋い顔をしながら、ファルマは3人に尋ねた。
「銅像の方が美形だわね」
エレンとロッテが笑って顔を見合わせ、セドリックはにこにことほほ笑んでいる。創業者はたじたじだった。
「余計なお世話だって!」
「ここでは不都合があるようでしたら、銅像は工場の庭に運びましょうか」
アダムは気を回す。しかし、自分の銅像が庭で雨ざらしというのも、我がことながらなんだか可哀想になってくるのであるファルマであった。
「ここでいいです」
冗談はほどほどに、工場見学にうつる。
石造りの製薬工場の内部は、工程ごとに部屋がわかれ、塵ひとつなくすように徹底的に清掃と清潔が保たれていた。そのうえ、ファルマが事前に疫滅聖域をかけたので更に清浄度は上がっている。今後は放線菌を持ち込んできたので、聖域を展開するときに、放線菌まで”殺菌”して殺してしまわないようにファルマは地味に気を使わなければならなかった。
菌を子供のようにかわいがっている教授に怒られる。
電気系統はないものの、異世界薬局のささやかな研究設備、帝国薬学校と比べるとかなり近代化されている。放線菌の大量培養のためにはいくつもの大型タンクとパイプラインから成る、医薬品製造プラントが必要だった。パイロットプラントのテストについては、帝国薬学校で無害な菌種で試験を行った。今、職人と技術者を大量に雇い、5基のプラントを造らせている。これらのプラントが完成し本格稼働するには、まだ時間がかかるだろう。
敷地の中にある、製薬工場附属の研究室にやってきた一行。無菌室のある研究設備だ。
「キャスパー教授の菌、見せて!」
手を洗い、手袋をつけ、クリーン服を着て無菌室の中に入ると、エレンが興味津々だ。ロッテとセドリックはよくわからないながらに着替えて見学だ。
「俺も見たい。開けてみようか」
アルコールで箱を拭き、ピンクリボンを解いて、キャスパー教授の子供たちの入った箱を開ける。
中から出てきたのは、6枚のシャーレだ。放線菌の種菌を植えたプレート。それから、抗生物質としてのテストプレート。細菌を全体的に塗りたくった寒天シャーレのど真ん中に、各種の放線菌が植えてある。
その放線菌を囲むように、他の菌の増殖していない円ができていた。
放線菌は抗生物質を産生してほかの細菌に対しては発育抑制をし、ほかの細菌が生育できない抗生物質産生領域、"発育阻止円"という円を展開する。
「なんかこの円、かっこいいわね」
エレンはその意味を理解して、頷く。
「だろ」
「この周り、どうしてモワモワが生えてないんですか?」
ロッテも疑問に思ったようだ。
エレンは放線菌に対する見方を変えたようだ。
それは放線菌の生存競争のために、進化の過程で獲得した能力だ。
「この円の周囲で、今まさに抗生物質を生産できているの?」
眼で見えてわかりやすいわね、とエレンは感心する。
「そういうこと」
はたから見れば、カビの生えた皿を覗き込む変な集団だろう。
だがここは製薬工場の内部なので問題ない。
「放線菌さまさまね」
エレンが熱視線を送る。
「この菌を大量に増やし、そこから抗生物質を抽出、精製する」
ファルマの後に、ロッテが言葉を繋いだ。
「すると、困っている皆さんのために、たくさんお薬が創れますね!」
テンションが上がってその場で飛び跳ねながらそう言うロッテのいう事は、まさにそのままだった。
(そう、これからたくさん薬を造るんだよ。俺のチートじゃなくてこの世界の人の力で)
ファルマの気も引き締まる。
それは製薬技術を、この世界に根付かせるための最初の足掛かりであった。
発育阻止円で画像検索すると面白いと思います。




