9話 筆頭宮廷薬師と転生薬学者、仕事の流儀
侍従の誰かが、エリザベートの病状が思わしくないことを知らせたのだろう。
幼い皇子が、女帝の寝室に駆け込んできた。ブリュノは皇子が来たので、麻酔を一旦止めた。まだ完全に導入には入っていないので、中止することはできる。
女帝の枕元で母の名を呼び、泣きじゃくっている。彼の頭を力なく撫でるエリザベートの手。その手は大陸全土を統べる女帝エリザベート2世のそれではなく、息子を気遣う一人の母のそれだ。
エリザベート亡き後、残された皇子はどうなるのだろう。母の胸にはそんな思いがよぎっているのかもしれない。瀕死の母にしがみつく皇子の姿は、ファルマの心を揺さぶった。
ファルマは左眼に手を添えたまま、治療方針を定める。
結核の治療薬といえば、1943年に発見されたのはストレプトマイシンが最初だ。が、ファルマはこれを却下。注射を使わなければいけないからだ。経口投与(口から飲めるもの)できる薬を選ぶ。しかも薬剤耐性を獲得することを用心し、複数の薬剤を組み合わせる。
「"イソニアジド"」
「"ピラジナミド"」
「"エタンブトール"」
候補としている治療薬は3種類。4種類を使いたいところだが、物質創造は目を閉じて完全にイメージできる化合物のみ可能だ。全て彼が構造を確実にイメージできる単純な化合物は3種類になる。
高分子化合物ほど想起しにくい。構造は知っているし構造式を書けるが、イメージできないものも多い。
3つの名前を挙げたとき、光は一応消えたが、よく見ると薄く光が残っている。それに不安を感じたファルマは、
(一応もう一剤、加えておくか)
彼はやはりダメ押しに、と第四の薬剤を加えた。
(力技でイメージにもっていくか。残像で脳に焼き付けてやる)
構造式を紙に書きだしたものを凝視していて、瞼を閉じると脳にそのまま映る。彼は機転をきかせる。
「"リファンピシン"」
もっとも複雑な構造を持つ、治療のカギとなる薬剤はやはり必要だったようだ。
白い光は消えた。
「陛下」
ファルマは大判のハンカチを折り、口にあて頭の後ろで結び当座のマスクを作る。
意を決し女帝の前に歩み出て立礼をして名乗ると、単刀直入に言葉を継いだ。
「私に、陛下の施療をお許しいただけませんか」
女帝エリザベート2世は空虚な表情で、病床からファルマをぼんやりと見据えた。
「何を、申しておるのか」
薬の効果に絶対などというものはない。薬の効果が出る前に容態が急変して亡くなることもありうる。それらを考慮しても、彼は気迫をこめて、一語一語を発した。
「特効薬があります」
客観的にみて、ファルマ・ド・メディシスは十歳の見習い薬師の少年だ。技能も知識も、父をはじめ、宮廷に仕える高名な薬師たちにははるかに劣る。身の程を知らない見習いが何を言い始めたんだ、侍医団は聞こえよがしに嫌味を言って、鬱陶しがった。彼らには洟垂れ小僧の戯言にしか聞こえない。
「ファルマ! 下がっていろ!」
ブリュノがものすごい剣幕で怒鳴りつける。顔面蒼白のブリュノがファルマに飛びかかり羽交い絞めにして部屋から連れ出そうとする。
頼むからヘタなことを、言ってくるな――。
ブリュノの顔にはそう書いてあった。
ブリュノはファルマを引きずりながら弁明する。
「申し訳ありません、陛下、愚息がご無礼を。すぐに下がらせます」
「しばし待て」
女帝はブリュノを戒めた。
そして、彼女は居並ぶ廷臣、侍医たちをぐるりと眺める。
「それは本当なのか?」
侍医団、薬師団の誰もがきまり悪そうに口をつぐんだ。
「新薬はいつ見つかった。それに、余の病は、一体何なのだ」
大勢の廷臣たちは女帝の言外の圧力から逃れるように視線を伏せる。返事はない。寄る辺を失った女帝は、ファルマをまっすぐに見つめた。
「そなたは知っておるのだな」
「存じております」
ファルマは一礼する。
風前の灯火となった女帝の命、死が間近であるということは、神術使いである彼女が誰よりも識っていた。そしてこれから、彼女がもっとも信頼していた宮廷薬師や侍医たちに殺されるのだろうということも。
殆ど一回きりしか許されない博打を、ふらりと現れた少年の戯言に賭けるようなものだった。
しかしそれでも、彼女は少年の瞳の中にある確固とした自信を読み取った。
あたかも真相を知っているかのような、一片の曇りもない瞳を。
「そなたの手に余の命運を委ねたいと思う」
ファルマと女帝の視線が交わる。
「この通りだ」
女帝は最後の力を振り絞るように頭を下げた。
その肩のなんと華奢に見えたことだろうか。
「承知いたしました」
ファルマは一人の患者と真正面から向かい合い、彼女の命を請け負った。
後にはひけない。
女帝の寝所にいた侍医団および父ブリュノは、凍りついた。もはや誰もファルマの邪魔しようとするものはない。そんな中でファルマは悠々と女帝から唾液のサンプルを採取すると、「調合室をお借りします」と言い残し、退室していった。そして中から施錠した。
「待つのだ、ファルマ!」
ファルマを追って父も女帝の御前を辞去すると、調合室に駆け込もうとする。しかしドアはびくともしない。
「ここを開けよ!」
ファルマは父が扉を力任せに叩く音が聞こえる中、慣れた手つきで女帝の唾液サンプルをガラス板に塗りつける。小さな瓶に入った薬品を机上に並べ、それをガラス棒で取って上から塗り、さっと広げる。ガラス板をランプの炎で炙り、その後いくつかの薬品の瓶を並べ、サンプルを順に薬品に通してゆく。
ガラス上を擦って金属のおもちゃのような器具を取り出して塗り、それをランプの光に透かし覗きこむ。
(やはり)
ファルマがひとつの確信を得たとき、父はドアを神術で破壊して中に入ってきた。
破られた密室。
燭台の明かりが照らす薄暗い調合室の中に、父子二人。
一触即発の緊張が部屋の空気を重くする。
「言え! 何をしていた!」
ブリュノからすると、そこでファルマがいかがわしい呪術行為を行っているように見えただろう。
「どういうつもりだ、差し出たマネをしおって。手を止めろ、何をしている!!」
ブリュノは激怒し、声を震わせファルマを厳しく問い詰める。
「陛下の治療の準備をしていま」
「たわけが!」
ブリュノはファルマの説明に怒号をぶつけた。
「世界中からいかな名医を探してきても、白死病を治せる者などおらん! 新薬などとうそぶきおって」
(ん? 今、白死病って言ったな)
ファルマは手を止めた。
「驚きました、父上は白死病(結核)だと診断していたわけですね。どのようにして知ったのですか」
あの侍医団の中で父だけが、女帝を結核だと見抜いていた。侍医たちは体液がどうとか、星座がどうとか言って迷走していたが。オカルト薬師だと考えていたファルマが、父の能力を見誤っていたことになる。
「私のポーションと反応させて、白死病の徴が出たのだ。お前こそ、何を根拠に言っているんだ!」
先ほど、父は手作りのポーションと女帝の唾液を混ぜていた。
(言われてみれば……)
その工程は結核の確定診断のための検査に似ている、とファルマは驚かされる。
偶然だろうか。ファルマの家にあったどの書物にもそのような検査法は載っていなかった。
しかも、あの夜に父が薬草園で踊り狂いながら神力を注いだ薬草をすり潰し、調合してできたポーションだという。
(あれがそんな効果を!?)
ファルマは舌をまく。
「それはどこかの書物に書いてあるものですか?」
「私が開発した新しい神技だ。書物にはない。私を誰だと思っている」
ブリュノ・ド・メディシスは大陸に3名しかいない宮廷薬師。
尊爵でかつ、帝都の薬学大学の総長をつとめている、一線級の薬師だ。
ファルマが地球で名を馳せた薬学者であるなら、
彼もまたこの世界の薬学をリードする学者だった。
神力を薬草に注ぎ込むと、特殊な効力を持つとブリュノとエレンは言う。神術で発揮される効力と薬草の組み合わせを世界ではじめて、体系的に調べ上げていたのがブリュノだった。ブリュノは数多くのオリジナル治療法を編み出していた。
(そうか。ここは異世界なんだっけな……)
ファルマは、これまでオカルトとして父の処方を色眼鏡で見ていたことを申し訳なく思った。ひょっとすると父が命じてエレンに渡していたポーションだって、ファルマが最初に落雷直後に飲まされたポーションだって、効果はあったのかもしれない。
なにせ、それらは全て神術で生成した水で造られている。
そこをファルマは見落としていた。
この異世界には、神術が存在する。神術でできた水やその他の神術に対しての科学的な検証を行わないままオカルトと断じてしまったのは、薬学者として正しい姿勢ではなかった。
異世界には異世界の流儀がある。
ファルマは感心しながらも、彼の行動には疑問が残る。
「父上はなぜ、先ほど病名が分からない振りをされたんです? 診断をつけたのはいつです?」
診断は、十日前についていたという。白死病の反応がその時と比べて30倍以上強くなっていると父は悔しがる。
「何故告げなかったか、だと? 白死病(結核)は不治の病だからだ。常に患者によりそうべき薬師が、心細いであろう陛下を嬉々として絶望へと陥れてどうする。お前は未熟者ゆえ、そのようなことが分からぬのだ」
それで彼は診断はついていたにもかかわらず、侍医に話を合わせたというわけだった。
「白死病の治療は、陛下にとっては何の意味もない。陛下のご臨終のおりに恥をかかせるな。それに私は過去、手触れによって病が癒えたものをみたことがない」
この世界では、結核は王が患者に手を触れる事「お手触れ」により治せるという言い伝えがある。
だから皇帝が結核になったなどと誰にも言えないし、治療法もないのだ。皇帝を上回る権能を持つのは神だけ。皇帝は神罰を受けているということになるのだ。それは皇帝の名誉にもかかわる。
「新薬などと口からでまかせを言うな。白死病の新薬は、存在せん! 昨日のノバルートから届いた見解でもそうだ。新薬、それはお前の貧弱で不勉強な妄想にすぎん!」
ブリュノは、この世界最先端のノバルート医薬大学に常に新情報を求め、この世界における最新の知見を常に得ているらしかった。患者に嘘をつくのは不誠実だ、とブリュノはファルマを厳しく諭す。偽薬を処方するのは大罪だ、それならば治せないと白状すべきなのだ、と。
ブリュノは、徹底的に女帝のためを思って手を尽くしていた。
(ブリュノさん……、本当に偉大な薬師だったんだな)
ファルマは彼を素直に見直し、尊敬の念を懐く。ブリュノがここ最近乾いた咳をしていたのは、結核に感染したからだ。診眼を使わなくても明白だった。彼は女帝が結核だと知りながら傍に寄り添い感染しながらも、自分のためではなく彼女のための治療法を模索していた。自らの命もかえりみず。
ファルマは、再度父に問いかける。
「諒解しました。それでもなお、父上は陛下に安楽死をとお考えですね」
「それが最善の方法だ」
ファルマは頷く。父の手持ちの切り札では最善だ、と同意する。
「特効薬は実在します」
「嘘をつくな!」
「嘘ではありません。そしてそれは、あなたも飲むべきものです」
「……!」
ブリュノは息子に結核の感染を見抜かれたのか、言葉を失った。
彼がひた隠しにしてきたことのようだった。
ファルマは水を生成し念入りに手を洗うと、滅菌しておいた清潔な布で手を拭いて、テーブルに置いたカバンの中から後ろ手で薬瓶とフラスコをとる。
父に見えないよう背を向け、瓶の上に左手をかざした。それらも予め滅菌していた、清潔なものだ。
(甘いシロップにして、飲んでもらうか)
ポーション(水薬)はこの世界ではよく用いられていて馴染みがあるだろう。飲みやすく舌触りに対する抵抗も少なかろう。患者は激しい咳がついて、服薬しにくい状態だ。工夫をする。
「こちらを向けファルマ! む!?」
ブリュノは青白い光が閃くのを見逃さなかった。
それは物質創造の光だが、水の神術発動の印に似ている。
「待て!」
ファルマは構わず3種類の薬剤の構造式を思い浮かべ、治療薬を指定した分量で創造し薬瓶の中に落としこむ。最後に、もっとも複雑な構造を持つ薬剤、リファンピシンを紙に書き出し、残像を利用して脳に刻み付ける。創薬は可能となった。
そして、もう一つの瓶はシロップを満たす。できた治療薬を前に出して父に示した。
「今、神術を使ったのか。何故私に隠すのだ、お前が調合しようとしているものは、何だ!」
フラスコの中に移した薬を振り、よく混和する。透明な粘性のあるシロップの薬ができた。
「どんな調合をしたのか説明できぬなら、それは毒だ! 申し開きをしてみよ」
父は我慢の限界に達したのだろう、金の杖をかざしファルマに直ぐ向けていた。
貴族にとって杖は剣だ。
そう言ったエレンの言葉を思い出す。ブリュノは我が子に白刃を向けているのと同じ。
「杖をおさめてください父上。調合室を水没させるつもりですか」
しかしファルマの言葉に、父は耳を貸さなかった。ファルマはフラスコを机の上に置く。
"Danse d'épée de la glace (氷の剣舞)"
ブリュノは発動詠唱を打つと、机上のフラスコめがけて攻撃を放つ。
ファルマ自身を傷つける意図はない、という攻撃の軌道だ。
(撃って来たか!)
至近距離から放たれた氷のナイフ。しかし水の神術使いである父が放つ神術は、状態はどうであれ、水だ。それを知るファルマに、迷いはなかった。
ファルマは、薬を守るように右手をふりかざす。
(消えろ!)
氷の分子状態を正確にイメージし、それを右手に伝え空を払う。氷のナイフであったそれは、ファルマの手に触れると跡形もなく消滅した。
そして彼は左手を構え、彼と父とを隔てる分厚い氷の障壁を瞬時にして出現させた。
発動詠唱はなく、杖も持たず素手でだ。
それは完全な防御壁となり、もはやブリュノがファルマに攻撃は加えられない、ブリュノは水属性であるが、「正」の術者。氷は水であるが、属性が「負」ではないので消せないのだ。
「なっ……今、何を」
思わぬ息子の抵抗に、怯えたように目を見開くブリュノ。
氷の壁を隔て、ファルマは父に宣告する。
「患者である陛下の御前で、特効薬については説明します」
「ああ……」
もはやこれで全てが破滅だ。
そう思ったのだろうか、ブリュノの瞳が絶望の色に染まった。
そして彼は、ファルマにこう問いかけてきた。
「お前は、誰だ」




