第18話 奇病の噂
「……あれはただの病気じゃないって、みんな言ってます」
かすかな声が耳に届いたのは、王立学園の中庭を歩いていたときだった。
物陰に隠れながら小声で話すのは、庭の手入れをしている下働きの平民たち。
ただ噂話をしているだけのように見えるが、その内容にわたくしは足を止めた。
「喉が渇いたって、どれだけ水を飲んでも足りないらしいです。それで、次第に肉しか食べなくなるんだとか……」
「顔色もどんどん悪くなって、最後には目つきが変わって凶暴になるって話だろ? 近所の人を噛んだっていう噂も聞いた」
わたくしの胸に冷たいものが広がる。
凶暴になる……? 噛みつく……?
一見すれば下町のただの奇病の話だ。
でも、その詳細があまりに異常だと感じた。
わたくしは、さらに話を聞き取ろうと耳を傾ける。
「病気になった人が噴水に行って、そこの水をがぶがぶ飲んでて、これはおかしいって話になって……」
「一体何が原因なんだろうな。神殿の方でも調べてるって聞いたけど……」
そこで話は途切れ、下働きたちは次の仕事へと戻っていった。
わたくしは一歩を踏み出そうとして、足がすくむような感覚に襲われる。
噴水といえば、アンジェリカが頻繁に足を運んでいた場所だ。
もちろん、下町の噴水と学園近くの噴水が同じものであるとは限らない。
偶然なのだろうか?
それとも何かのイベントが発生しているとか……。
もしこの奇病が本当に噂の通りの症状を持つものであれば、何か恐ろしいことが起きている可能性がある。
気になったわたくしは、その日の午後、偶然お会いしたパトリック様に尋ねてみることにした。
「パトリック様、最近お忙しいようですね。何か問題が……?」
恐る恐る尋ねると、彼は少し驚いたように目を見開き、それから穏やかに微笑んだ。
「あなたも耳にされましたか。下町で広がっている病の件ですね」
「はい、少し噂を……」
「そうですか。実を言うと、神殿でも原因の調査を進めていますが、まだ具体的なことは分かっていません」
学園近くの神殿にいらっしゃる彼は、聖騎士としての務めを果たしながらも、たびたび調査に出向かれている様子だ。
彼の声には疲労がにじんでいた。聖騎士としての仕事だけでなく、このような得体の知れない問題に向き合うのは、相当な重圧があるに違いない。
「ただの病ではない可能性もあると考えています」
パトリック様が静かに言葉を紡ぐ。
「喉の渇き、肉食への偏り、そして最終的な凶暴化――。これまでに聞いたことのない症状です。しかも、感染が広がっているのではないかという話もあります」
感染――その一言が、わたくしの背筋を凍らせた。
「噛みつかれた人に同じ症状が出たという話があったためです。ただし、確証はありません。あくまで噂の段階ですので、安心してください」
安心してください、と言われても、こんな話を聞かされて落ち着いていられるわけがない。
もし本当に感染症であれば、それが広がれば学園にまで影響が及ぶかもしれない。そして、それがただの病気でないなら――。
「パトリック様、そのような症状を持つ病は、過去の記録にもありませんの?」
必死に問いかけると、彼は少し考え込んだ後、ゆっくり首を振った。
「神殿の記録をいくら調べても、このような例は見当たりません。似たものとしては……魔物の呪いが関連するものがいくつかありますが、それとも異なるようです」
魔物の呪い――その言葉に、わたくしの胸がさらに重くなる。
こんなイベントは記憶にないけれど、噛みつかれて広がる伝染病だとしたら、何か対策を取らなければ大変なことになるわ。
前世の記憶を元にすると、狂犬病とかエボラとか、そういった恐ろしい病気の名前が思い浮かぶ。
どれも発症してしまうと死亡率が高い病気だ。
この世界にはワクチンなんてないし……。
あ、でもワクチンはなくても聖女がいるじゃない。
「そういえば学園で、奇跡を起こした聖女がいるという噂を聞いたことはありませんか?」
そう尋ねると、パトリック様は難しそうな顔をした。
「噂にはなっていましたが……実は彼女も奇病に罹っているのです」
「そうなのですね……」
これがイベントだったなら、ゲームで聖女になるアンジェリカが治せるんじゃないかと思ったんだけれど、その彼女も奇病に罹ったとしたら、どうすればいいのか分からないわ。
屋敷に戻ったら影に聞いてみようかしら。
何か分かるといいんだけど……。
「ヴィクトリア様も、しばらくは街に行かないほうが安全です」
「分かりました。そうします」
「それでは」
会釈して去っていくパトリック様の背中を見ながら、わたくしは言いようのない不安に包まれていた。
なにか、わたくしの予想もできないことが起きているようで……。
そしてそれは現実となって、わたくしたちの前に現れた。
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