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第二幕も残すところ、あと二話となります。
ヴィルハルトは絶句していた。
脳が、シュトライヒの告げた言葉を理解することを拒んでいるからだった。
だが、性質の悪い冗談だと一笑に付すにはあまりにもシュトライヒの表情は陰惨であった。
彼の様子を見て、その口にした言葉が真実であると悟ったヴィルハルトの胸に爆発的な怒りが押し寄せる。
馬鹿な。この後に及んで、三軍司令官による“協議”?
いや、それ以前に、現在戦闘中の軍から司令官を引き離すだと?
王都の連中は、本気でこの戦争を舞踏会かなにかだと勘違いしているのか。
宮廷の下らない駆け引きという奴か?
女王陛下は。
いや、陛下の意志ではないだろう。
あの姫様の人となりは知っている。
よく言えば利発で清廉、あしざまに言えば万事に気を回しすぎるあの少女が、ここまで底抜けな馬鹿だとは思えない。
ならば誰が。
いや、考えるまでもない。大体の見当は付く。
中心になっているのは間違いなく中央軍司令官、オットー・フォン・ローゼンバイン大将か、参謀総長のヨアヒム・フォン・カイテル大将のどちらかだろう。
両大将とも、特に〈王国〉軍総司令官の地位も兼任しているローゼンバイン大将は骨の髄まで貴族主義に染まり切っていることを、〈王国〉軍人ならば知らぬ者はいない。
現在の地位に任じられた際に発したという言葉は確か「平民に将たる資格無し」だったか。
屑め。だったら、自分で出て来い。
どうにかして見せろ。畜生。
「要らぬことまで考えているようだな、少佐」
ヴィルハルトのただでさえ凶悪な目が、白目が無くなるほど充血している様を見たシュトライヒは宥めるような声を出した。
「現在の状況で、三軍司令官の協議を行うなど、その意義も、必要性も見いだせないではないですか。総司令官閣下は一体何を考えて、」
彼は炎を吐き出すように言った。
言い切ることをしなかったのは、シュトライヒが抑えるように片手を彼に向けたからだった。
「ああ、まさにその通りだな」
シュトライヒは、ヴィルハルトの口にしなかった部分を正確に読み取って首肯した。
彼とて、ヴィルハルトと同じような思考を巡らせなかったわけではない。
だが、たとえどれほどの愚物であっても、総司令官は総司令官。
配下の将兵があからさまに罵るべきでは無い。
そして、さらに救いの無い祖国の真実を口に出した。
「だが、実際にあれこれと画策したのは元・東部国境守備隊司令のロズヴァルド中将と、第3師団長のトゥムラー中将らしい。最終防衛線、つまりは最後尾で軍の監督を任せている間に、王都のお仲間と愉快な手紙のやり取りでもしたのだろうさ。実際のところ、ディックホルスト大将はほとんど更迭に近い形で王都へ呼び寄せられた。〈帝国〉軍に国境を侵犯させたのは方面軍司令官の責であるとな。そして、わしは遅滞防御部隊指揮官に任命された。ふん。可能な限り現地点にて敵軍の侵攻を押しとどめよ、だそうだ」
ヴィルハルトの顔から表情が消えた。
一体、どこまで愚かなのだ。我が国の貴族たちは。
こんな国は〈帝国〉に滅ばされてしまえば良いと、一瞬本気で考えた。
ただ血を継いだというだけでふんぞり返っている〈王国〉の貴族連中よりも、恐ろしく厳格な実力主義の中でその地位を掴み取った〈帝国〉貴族の方が億倍もマシに思えたのだった。
そんな彼の思考を読んだように、シュトライヒが咎めるような声で言った。
「言いたいことは分かる。だが、我々にはそれを口にしてよい自由が無い。兎にも角にも、東部方面軍における現在の最上級者はロズヴァルドとトゥムラーの両中将なのだ」
「はい、閣下」
感情を失くしたようにヴィルハルトは、彼の言葉に頷いた。
ヴィルハルト・シュルツも、ライナー・シュトライヒも。彼らはどうしようもなく、哀しいまでに軍人であった。
「閣下、自分の大隊も指揮下に加わります。どうぞ、ご命令を」
ヴィルハルトはどのような命令にも従うという意志を示すように背筋を伸ばした。
それを見たシュトライヒは、何度か髭に隠された口元を震わせた後で、嘆息するように命令を吐き出した。
「ともかく、今日のところは休め。貴官と、貴官の大隊にはまず休息が必要だとわしは思う」
シュトライヒの勧告のような命令に、ヴィルハルトは素直に従った。
この三日三晩をほとんど寝もせずに行動していたのだ。
精神の高揚が落ち着いてくるとともに、肉体が疲労を認識し始めていた。
彼は司令部の家を退出した。
いつかのように、入り口ではヴェルナー曹長が待っていた。
「ライカ中尉殿が取りあえずの寝場所だけは確保されました。司令部の兵站参謀殿は、空いている家なら自由に使って構わないと仰っていたそうで、幾つかの家と小屋、というよりも倉庫として使われていたらしい建物を。倉庫の方は寝心地は悪いですが、まぁともかく屋内では寝られます。その他に、将校の方々には天幕が一つ、司令部からお借りしてあります」
ヴェルナーの報告に曖昧な相槌を打ちながら聞いた後で、ヴィルハルトは命じた。
「空いている家にシーツがあるならば、かき集めて倉庫組の兵に渡してやれ。他、特に疲労の強い者には優先的にベッドを与えること。将校については放っておいてくれて構わない。俺たちにはまだ仕事が残っている。遠慮するなと兵たちには言っておけ」
「そう仰ると思い……」
ヴェルナーはそっと応じた。ヴィルハルトは頷いただけだった。
「将校の方々は大隊長殿を天幕でお待ちになっております。こちらです」
ヴェルナーの案内で、部下たちが待つ天幕へと向かう間、ヴィルハルトはずっとシュトライヒから告げられた話をどう彼らに説明したものかと考えていた。
「ありがとう、曹長。君も、今日はもう休みたまえ」
結局、考えがまとまらないまま天幕の前まで着いたところで、ヴィルハルトはヴェルナーに礼を言った。
「はい。有り難くあります」
ヴェルナーは最後まで鉄のような態度を保ち続けたままで、下士官兵たちの寝床へと去っていった。
ふっと息をついた後で、天幕を潜ったヴィルハルトはその場の光景に目を丸くした。
その場に居た全員が、倒れるように眠りこけていたからだった。
エルヴィン・ライカ中尉は地面に大の字で伸びているし、エルンスト・ユンカース中尉は背負っていた荷物を枕にしている以外はまったく同じ有様であった。唯一生き残った少尉であるクリストフ・ラッツは椅子に座ったまま器用に船を漕いでいるし、アレクシア・カロリング大尉ですら、一応の調度として用意されたらしい木机に向かって座った体勢のまま、その上に頭を投げ出して寝息を立てていた。
ヴィルハルトは、将校としてあまりにもだらしのない彼らの惨状にやれやれとも思ったが、同時に有り難くもあった。
彼にも少し、一人で考える時間が必要だったからだった。
懐に手を入れて、シュトライヒから貰った葉巻とは比べ物にならぬほど安い紙巻を一本取り出す。
咥え、燐寸を擦ろうとしたところで、はたと動きを止めた。
火の点いていない紙巻を咥えたまま、ヴィルハルトはそっと天幕を抜け出すと、そのまま村からも少し離れた場所まで歩き、草むらの上に腰を下ろした。
紙巻に火を点ける。
やはり、値段相応の香りもなにもあったものではない苦い煙が口内に満ちた。
けれどこちらの方が落ち着くというのは、やはり俺は安い人間なのだなと自虐した。
ふっと、紫煙を吐き出す。
彼の吐き出した煙は雲の切れ間から覗く星明りをちらちらと反射させた後で、やがて漆黒の闇に飲まれていった。
ヴィルハルトは瞑目した。祈るように、天を仰ぐ。
それは軍に入る遥か以前から、幼い彼に叩き込まれてきた一連の動作。
唇が無言のまま、聖句を読み上げる。
オスカー・ウェスト。デーニッツ。ウォーレン。85名。失ったものを数え終えた彼は目を開けた。
そして、紫煙とともに小さく言葉を吐き出す。
「やはり、戦争などするものではないな」
そこにはむしろ、自分に言い聞かせるような、懸命にそう思おうとしている響きがあった。
続きは2日後。




