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戦鬼の王国  作者: 高嶺の悪魔
第五幕 〈王国〉軍冬季大攻勢

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命の値段 6

 静まり返った司令部の一室で仮眠をとっていたヴィルハルトは、控えめなノックの音に目を覚ました。

「中佐、お時間です」

 扉の向こうから聞こえたのはカレンの声だった。それにヴィルハルトはベッド代わりにしていた詰め椅子の上で「ああ」とも「うん」ともつかない呻きを漏らす。外気とほとんど変わらない室温のせいで喉がすっかり枯れていた。外套をかけてはいたものの、身体も凍えきっている。凍った身体を砕くように、なんとか腕を伸ばして刻時計を取り出す。司令部から部隊の下へ戻り、それからまた戻ってきて幾つかの細かい指示を出し、忍び込むようにこの部屋、どうやら応接室として使われていたらしい、の詰め椅子で横になってから、二刻半ほどの時間が過ぎていた。窓の外を見ると、真っ暗だった。

「寝過ごしたか」

 起きあがりながらヴィルハルトは部屋に入ってきたカレンに尋ねた。

「いいえ。時間通りです」

 答えつつ、カレンは湯気の立つカップを差し出した。中には珈琲がなみなみと注がれている。有難いことに淹れたてのようだった。ヴィルハルトは小さく礼を言って受け取ると、一口啜った。彼の好みに合わせてか、舌に絡みつくように濃い。腹の底へ一気に熱が滑り落ちて、身体が、脳が、一気に覚醒する。

「他の者は?」

「すでに準備を完成させて、司令部の前に集まっておいでです」

「君も少しは休んだか」

 コーヒーのカップを詰め椅子の前にある長卓の上に置き、布団代わりにしていた大外套を羽織りながら訊いたヴィルハルトに、カレンは面食らったように目を見開いた。まさか、この男の口から自分を気遣うような言葉が出てくるとは思いもしなかったのかもしれない。彼女は少し気まずそうな表情を浮かべると、あらぬ方向へと目を泳がせた。

「ええ、あの。私のことなど」

 誤魔化すようにカレンは口ごもった。要するに、休んでいないということだろう。

「俺は休めと命じたはずだが」

 ヴィルハルトは不機嫌そうな声を出した。

「申し訳ありません」

 彼は己の命令が確実に遂行されていないことを何よりも嫌う。それを知っているからこそ、カレンは正直に詫びた。それから、「けれど」と続ける。

「何かをしていた方が、気がまぎれるのです」

「それで体力がもつのか。これから雪の積もる中、それも夜の行軍だぞ。誰も他人になど気を配れない。作戦行動に支障が出さなければ構わないが」

 消え入りそうな声で言い訳染みたことを口にする彼女に、ヴィルハルトは冷たく言い放った。

「問題ありません」

 カレンはきっぱりと答える。彼女の瞳に宿る、決意や怒りにも似た、けれどそのどちらでもない光を見てとったヴィルハルトは、小さく溜息を漏らした。彼はその感情の名前を知っている。好む、好まざるを理解できる物心のつく以前から、同じ感情を抱いてきたから。

 問題は、カレンがヴィルハルトほどその感情を飼いならせていないことだった。彼女はいま、軍の目的を己の願望と重ね合わせている。

 まったく。衝動に突き動かされるまま、面倒なことをしでかさなければいいが。

 そんなことを思いながら、ヴィルハルトはあっという間に飲み頃の温度になってしまった珈琲を一息に飲み下す。それから詰め椅子の脇に立てかけておいた軍剣を掴むと軍帽を被り、部屋を出た。カレンが静かにその後を追ってくる。互いに無言だった。ヴィルハルトには彼女の問題を解決してやることはできないし、してやるつもりもなかった。そもそも、彼には窮地にある軍を救う方法は思いつけても、養父を失った女性にかけるべき言葉などただの一つも思いつけなかった。


「代行」

 司令部の外へ出たヴィルハルトを、ブラウシュタインが待ち構えていた。

「良い恰好だな、参謀長」

 大外套を着こみ、軍剣を腰に佩き、雑嚢を背負ったその姿にヴィルハルトは思わず笑みを漏らした。

「銃を持ったのは久しぶりです」

 ブラウシュタインも少し照れたように笑いながら外套の前を捲って、腰に差している短銃を見せる。大佐という彼の階級から鑑みれば、完全武装といってよい。些細なやり取りをしていると、二人に気付いた司令部の参謀たちが集まってきた。みな、ブラウシュタインと同じく武装している。

「各自、行軍準備は完成しているようだな」

 ヴィルハルトは参謀たちを見回すと、軍帽を被った。

「各所へ指示は出し終えているな? これより作戦終了まで、腕木通信塔による通信は行えないぞ」

「各砲台への指示、および各通信塔への連絡、いずれも完了しています」

「第2軍残党はすでに移動を開始」

「第6旅団は作戦準備を完成させて待機中。明後日、早朝より行動開始します」

 確認を取るヴィルハルトに、各担当がそれぞれの答えを返す。

「団長」

 背後からぶっきらぼうな声が掛かった。ヴィルハルトが振り向くと、テオドールが立っている。両手に小銃を握っていた。

「別動隊への伝令は?」

「仰せの通りに。それと、コイツは団長のです」

 答えつつ、テオドールは片方の小銃を差し出す。ヴィルハルトは特に何も言わずにそれを受けとると、負い紐を肩から掛けた。代理とはいえ、一軍の司令官らしからぬ重武装である。が、参謀たちは諦めたのか。もはや言葉もない。

「では行くか。この先、我々の運命がどう転ぶにせよ、朝までには第12旅団と合流しておく必要がある」

 その後は。はてさて。どうなることやら。

 何処か無責任にそんなことを考える。懸念も疑念も投げ捨てて、ヴィルハルトは鼻歌でも歌いだしそうな軽やかさで夜に踏み出した。


 翌朝。北街道の朝はひっそりと明けた。

「失礼します、閣下」

 次第に晴れゆく薄暮の中。風よけのために雪を掘って作った蛸壺の中で寝転がっていたラミール・アルメルガー准将の隣に、副官のアリー・ケマルが滑り込んでくる。

「偵察班が戻りました。次の目標を発見したとのことです」

 言いながら、彼は服の胸元に手を突っ込んで地図を取り出した。ずっと服の中に入れていたため、汗で少し湿っているそれを膝の上で広げる。雲を薄っすらと透けてくる淡い陽光に照らし出されたのは、敵が北街道と呼ぶこの場所の全体図だ。ケマルはそれを指でなぞりながら報告を続けた。

「我々の現在地はここです。街道内最大の都市、アルぺスホルンがここ。目標はちょうど、彼我の中間に位置しています。位置と距離からみて、恐らくこれが最後の目標でしょう」

「ようやくか」

 汗臭い地図を一緒になって覗き込んで報告を聞きながら、アルメルガーは煙草入れを取り出す。夜の間は火が目立ってしまうため吸うわけにはいかなかったが、今ならば問題ないだろうと考えて、一本咥える。素早く火を点けて一口吹かすと、アルメルガーはそれをケマルにも勧めた。彼の生真面目な副官はそれを手で断ると、咎めるような目でアルメルガーを見た。それにアルメルガーは思わず苦笑してしまう。普通は年長者が年少者の軽率を咎めるものだというのに。

 しかし、数日にわたって雪山を駆けずりまわり、寝不足の頭を抱えているアルメルガーにはいま、煙草がどうしても必要だった。煙は服の中に吹き込んだ。どうせ、服は汗と血で汚れきっている。そこに紫煙の匂いが加わったところでなんの違いがあろう。嗅覚などとうの昔に麻痺している。


「これまで通り、敵は一つの山に二か所ないし三か所の陣地を設けているものと考えられます。同時に襲撃するため、現在は隊の再編を」

「いや。隊を分けるのはやめておこう」

 アルメルガーは目頭を揉みながら、ケマルを遮った。

「どうにも、この前潰した陣地での、敵さんの動きからしてこちらの浸透突破に気付いているとみるべきだ。なら、下手に戦力を分散させるのは良くない」

「はい。閣下」

 ケマルが神妙な顔で頷く。襲撃隊としてアルメルガーが選んだ七十五名の兵の内、残っているのは六十二名。第1猟兵旅団の中から精鋭中の精鋭を選び抜いたつもりだったが、やはり無傷で、というのは難しい。そもそもが捨て駒のような作戦だ。たった一個小隊程度の戦力で敵陣内に浸透し、その特火点を襲撃して潰すなど。参加している兵たちもそれは分かっている。

「となると、まず叩くべきは敵の指揮所ですね。これまでの配置の仕方からいって、山頂付近にあるのが指揮砲台とみられます。まず、そこを叩き、山を下りつつ残る砲台の排除、という計画でよろしいですか」

 裁可を求めるケマルに、よろしいとアルメルガーは野性的な笑みを浮かべた。

「閣下がお休みの間に、弾薬を再分配しておきました。一人、十七発です。かなり大切に使わないといけません。でなければ、最後の敵陣地攻略は素手でやることになります」

「それは面倒だな」

 ケマルの軽口に、アルメルガーは不敵に微笑んだ。その余裕さとは裏腹に、状況は中々に厳しい。もしも次の敵陣にまともな銃兵の護衛でも付いていたら、酷く不味いことになる。無論、それでも彼らにはやるしかなかった。


 夜明け前に行動を開始したアルメルガーたちが目標の敵陣地を発見したのは、正午の頃であった。先行していた兵たちからの報告に、アルメルガーは静かに頷くと無言で指示を出す。これまでに何度となく行ってきた動きだ。兵たちは瞬く間に襲撃隊形を取る。

「タリム、お前は襲撃に加わるな」

 そんな中、アルメルガーは右腕を布で吊っている兵に呼びかけた。タリムと呼ばれた彼は酷く不満そうな顔を浮かべる。片腕でも戦えると言いたいのだろう。確かに今は左手一本でも欲しい状況だが。しかし、まともに戦えない者を連れて行っても他の者の負担が増すだけだ。

「残って後方警戒でもしてろ」

 アルメルガーは、タリムにいっそ気楽なまでの声でそう言った。それを受けた周りの仲間たちに肩を叩かれて、彼は渋々ながら命令に従った。その場に膝を突き、待機の姿勢をとったタリムを見て、アルメルガーは表情を引き締めるとケマルに視線を送った。ケマルは頷きを返すと、身を屈めたまま数人の兵を引き連れて自らの配置に向かった。もう一人の分隊長も同じように、別方向へと部下を率いてゆく。半包囲の形をとって、アルメルガーたちは慎重に敵陣へと近づいた。


 陣内は酷く静かだった。早朝ならばともかく、今は昼時だ。たとえ奇襲を予測してないとしても歩哨くらいは立っていて然るべきだというのに、どういうわけか物音一つ、人影一つ見当たらない。まさか、既に放棄されたのか。そんな考えがアルメルガーの頭を過ぎる。或いは、こちらを誘い出すための罠か。どちらであれ、確かめねばならない。アルメルガーはケマルともう一人の分隊長へ手信号で指示を出した。息を合わせて、一気に敵陣内へと躍進する。陣地を囲うように掘られている塹壕を飛び越し、掩体の影に目を光らせながら中央に据えられている重砲へ取りついたアルメルガーは周囲へ素早く目を配った。やはり、人間の気配はない。

「……どういうことでしょうか?」

 追いついてきたケマルが酷く不可解そうな表情を浮かべながら尋ねた。

「分からん。ともかく、油断はするな。周囲を捜索しろ」

 指示を出しつつ、アルメルガーは大きく息を吐いた。乱れた呼吸を整えるためだ。

「大丈夫ですか、閣下」

 そんな彼にケマルが案ずるような声をかける。

「今回の任務、五十路にゃちと厳しいぜ」

「閣下はまだ四十八でしょう」

 自嘲するようにぼやくアルメルガーに、ケマルがいった。若者らしいその答えに、「そりゃそうだが」とアルメルガーは苦笑を浮かべる。この年齢で未だに戦場を駆けずりまわっている将軍など、大陸世界を見回しても自分だけだろうと思った。

 まったく。姫様は老人使いが荒い。トルクスの高地を駆けまわっていた頃はもう十年は昔だというのに。

 そんなことを思いながら、空を仰いだ時だった。

「閣下」

 兵の一人が急いだ様子で戻ってきた。何かを見つけたらしい。

「どうした」

「ここにいた敵のものと思われる足跡を見つけました」

 そう報告した兵に連れられて陣地の端までゆくと、確かに。積もった雪の上に大勢の足跡が残っている。足跡は陣の内から外へ向かって伸びていた。アルメルガーがその先を目で追うと、足跡はやがて立ち枯れた木立の中へと消えてゆく。寒々しい裸の木々の向こうへ目を凝らすと、白い筋が空に向かって伸びているのが見えた。

「なるほど」

 陣地が無人だった謎が解けて、アルメルガーは獰猛な笑みを浮かべた。

「敵さんはどうやら、飯を食ってるらしいぞ」

「わざわざ陣の外で、ですか?」

「ここに陣取ってるってことを隠蔽するためだろう。山の下からみれば、炊事の煙は随分と目立つだろうからな」

「はあ」

 アルメルガーの説明を聞いても、ケマルはまだ怪訝そうだった。わざわざそんなことをするくらいならば、兵に温かい飯を我慢させればよいとでも思っているのだろう。過酷な任務ばかりを与えられることに慣れきってしまった若者らしい発想だった。良くない傾向だな、とアルメルガーは思った。どういうわけだか、人は往々にして自らがした苦労を見ず知らずの他人にも強いろうとする。一種の使命感にも似たろくでもない習性だ。何より下らないのは、そうした主張をする者の大半が無用の苦労をしてきた連中だということだった。すべき苦労と、そうではない徒労を見抜けなかったばかりに己が人生の少なからぬ時間を無駄にしたことを認めたくないのか。或いは、他人がそれを回避することが許せないのか。どちらにせよ、はた迷惑なことに違いはない。

 ケマルは将来有望な若者だ。いずれは数百か、数千か。もしかすれば数万の部下を指揮監督する立場になるかもしれない。今のうちに耐えさせるべき過酷と、回避すべき危機をしっかりと見極められる目を身に着けてほしかった。

 もっとも、今はそんなことを諭している場合では無い。ケマルの事はひとまず脇に置き、アルメルガーは目の前の任務に集中することにした。


 たとえ敵が油断しているとしても、アルメルガーに慢心は無かった。当然、それは彼の部下たちにおいても同様である。彼らは背を屈め、慎重に林の中を進んだ。

 〈帝国〉人が自らを鷹に喩えることがあるように、トルクスの民は自分たちを虎に喩える。山と森の支配者として崇める存在と自らを重ね合わせることにより、その勇猛さを得ようとする一種の自己暗示だ。

 今のアルメルガーたちはまさに獣であった。雪の上を足音も立てずに歩き、木の葉がすれる音も聞き逃さない。やがて、行く手に木々の開けた場所が見えた。アルメルガーはさらに背を低くして移動するように手振りで指示を出すと、木陰からそちらを窺った。

 消えかけの焚火が広場の中央でくすぶっている。それが煙の大本だった。焚火の周囲に積もる雪は、まるで大勢が火を囲んで踊りまわった後のように無数の足跡で踏み荒らされている。しかし、人の姿どころか気配一つない。


 悪魔に茶化されたような気分でアルメルガーは立ち上がった。どういうことだ、という疑問が尽きない。ケマルへ目を向けた。彼もまた、想定外の事態に困惑しているようだ。

 その時だった。

 突然の轟音が凍り付いた森の空気を打ち砕いた。小銃による一斉射撃だった。

 信じ難いことに弾丸は部隊の背後、いま彼らがやってきた方向から飛来した。ひゅん、という風切り音に続いて、周囲で凍結した木々の樹皮が弾ける。数人の兵が血飛沫をあげて斃れた。

「伏せろ!!」

 真っ先に反応したのはケマルだった。

「密集するな! 散開しろ!」

 倒れた兵になど目もくれず、ケマルが続けて指示を出す。頼もしいヤツだと、アルメルガーは思わず笑みを零した。部下への指示はひとまずケマルに任せて、自らは状況の把握に努めるようと決めた。が、しかし。そこへ再びの銃声。今度はまったく別の方向からだった。また数人の兵が倒れる。アルメルガーは反射的に雪の上へ這いつくばった。

「囲まれています!!」

 木の根元に縋りついている兵が悲鳴のような声で報告した。んなこたぁ分かってるよ、とアルメルガーは息を吐く。

「敵が見えるか?」

「まったく見えません!」

「閣下」

 ケマルが窺うような視線をアルメルガーへ向けた。その瞳の奥には決意めいた光が浮かんでいる。アルメルガーは頷いた。何故、敵に気付かなかったのか。あの敵はどうやって自分たちの背後に回り込んだのか。疑問は尽きねども、今は考えている余裕もない。

「閣下」

 決断を催促するようにケマルが彼を呼んだ。

「総員、着剣。いくぞ」

 アルメルガーは静かに命じた。誰も目標はどこかと聞き返さない。トルクス兵は常に銃声のする方へと走る。先ほど射撃してきた敵はまだ再装填を終えていないはずだ。

 けれど。

「閣下――!!」

 今まさに突撃へ移ろうとしている彼らへ、遠くからアルメルガーを呼ぶ声が響いた。タリムだった。酷く焦った様子でこちらへ駆けてくる。

「ばっっか野郎……!」

 何してやがる、と怒鳴りかけたアルメルガーを遮るようにタリムが叫ぶ。

「後ろです!!」

「は……?」

 アルメルガーは訳が分からず振り向いた。

 振り返った彼の前で、踏み荒らされた雪の下から白衣を纏った敵兵が亡霊のように湧き出した。数は十名ほど。彼らが手にしている小銃が一斉にアルメルガーを捉える。アルメルガーはぽっかりと昏い銃口と見つめ合った。時間が酷くゆっくりと流れているように感じた。敵兵が引き金にかけた指へ力を込めるのが分かった。

 ああ、これは死んだな。

 アルメルガーは他人事のようにそう思った。しかし。

「閣下っ!」

 ケマルの声。制する暇もなく、その身体がアルメルガーと敵兵の間に割り込む。

「ケマル!」

 アルメルガーはその背中に叫んだ。かつて、流星を受け止めたと伝わる神話の英雄のように、ケマルが大きく両腕を広げる。その向こうで敵が発砲した。銃声。白煙。そしてケマルの全身から血が噴き出した。仰向けに、大の字の恰好で雪の上へと倒れる。赤い染みがどんどん広がって雪を溶かしてゆく。そこから立ち昇る鉄臭い湯気がアルメルガーの鼻先をくすぐった。

 それは、一瞬と呼ぶにはあまりにも濃密な時間だった。けれど、気付けば全てが終わっていた。

 アルメルガーは亡霊のような白い兵士たちを前に静かに微笑んだ。自分たちを除く〈帝国〉軍が擬装を用いないからといって、敵もまたそうであるとは限らない。そんな当然の事にさえ思い至らなかったとは。ラミール・アルメルガー、人生最大の失態だった。

 いや。それだけではない。敵兵が纏っている白衣は、ところどころがわざと土や炭で汚されていた。顔面にも白と黒の塗料を塗りたくっている。恐らく、より風景に溶け込むためだろう。単なる白い布を被っているだけの自分たちとは違う。この敵の擬装はより洗練された技術だった。

 なるほど。自分たちの目が欺かれるはずだ。

 いっそ清々しいまでにアルメルガーは敗北を受け入れた。そんな彼の前に、くすんだ白衣に身を包む亡霊の中から一人が進み出た。ぞっとするほど冷え冷えとした、端正な面立ちをしている。フードをとると、山頂に積もる白雪とも見紛う白銀の髪が露わになった。恐らく、この部隊の指揮官に違いない。

「貴方がたは囲まれている。諦めて、投降するというのであれば命までは取らない」

 敵指揮官が口を開いた。凛としているが、決して男性のものではないその声に。

「女か」

 我知らず、アルメルガーはそんな言葉を口にしていた。

「それが何か」

 この手の反応には慣れているのだろう。敵指揮官は鉄面皮を崩すこともなく応じた。それにアルメルガーは「いいや」と肩を竦めながら、自嘲するような笑みを浮かべる。俺はいつも女に負けてばかりだな、と思った。

「そういうあなたは、ラミール・アルメルガー准将とお見受けする。武功名高いあなたとこんな形で相まみえることになったのは非常に心苦しく残念だ。どうか、降伏されよ。無益な殺生は私の望むところではない。下るのならばあなたとあなたの部下の命は、私が保証しよう」

「お心遣い、痛みいる」

 言葉遣いからして、この女性指揮官は貴族なのだろう。アルメルガーは敢えて丁寧な態度で応じてみせた。降伏か、死か。残酷な二者択一を迫っている者と迫られている者のやり取りにしては紳士的だった。

 けれど。アルメルガーはすぐにその態度をかなぐり捨てた。生き残っている兵はわずかに十人。敵は少なくとも一個中隊。それも完全に包囲されている。勝てるはずがない。戦闘にすらならないだろう。だが、それでも。

「だが、降伏はできねえ。理由わけは分かるな?」

 歯を剥き出し、獰猛に笑いながら彼は言う。

 自分を知っているのであれば。トルクスを知っているのであれば。〈帝国〉が自分たちをどう扱っているのかも知っているだろう。彼らには敵に降伏する自由はおろか、捕虜になる権利すら認められていない。ひとたび戦場に臨めば、生きるか死ぬか。そのどちらかだ。例外はない。

「……残念だ」

 敵指揮官は短くそういった。話は終わりだった。アルメルガーは小銃を構えつつ、生き残っている部下たちに集まるように指示を出した。集まれば的になるだけとは分かっている。だが、それはどの道だ。ならば火力を集中させて、一兵でも多くの敵を殺す。彼らは死ぬまで戦うつもりだった。皇帝への忠誠心からではない。それがトルクス兵の矜持であるからだ。

「撃ったら、突撃だ」

 アルメルガーは小声で命じた。彼に付き従う猟兵たちは無言のまま頷きを返した。敵指揮官が軍剣を抜いた。白銀の刃はか細い陽光の中でさえ煌いている。それが振り上げられた。アルメルガーは息を吸った。敵指揮官が軍剣を振り下ろす。


「「撃てっ!」」


 鋼の号令と、虎の咆哮。そして一斉射撃の轟音が重なった。森のどこかで、木の枝に積もった雪がどさりと落ちる音がした。

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