王都の日々 9
2020/01/09 改稿しました。内容は変わっていません。
王権神授説がいまだ、固く信じられていたこの時代。
神の代行として時の君主に王権を授与する、拝天教の聖堂は何処の国の首都であろうとも必ず存在する。
この〈王国〉においては、王宮の建つ丘を下って真正面に聳える、ひときわ豪奢な建物がそれであった。
微細な彫刻の施された柱、そこかしこに金細工のあしらわれた窓枠には、聖人たちが行った奇跡の場面を描いた透かし硝子がはめ込まれているなど、王宮すら凌ぐほど豪華絢爛な装飾の数々。
まさに、〈王国〉における信仰の中心として相応しい建物ではあるが、この場所での礼拝を許されているのは王侯貴族か、高位の聖職者、或いは教会に対し多額の喜捨を行なった者だけに限られている。
その代わり、一般の信徒に対しては小さな教会や礼拝所が数多く設けられていた。
そうした施設は、王都に全部で七か所存在している
その内の一つ。三番街の外れにある教会は、そう狭くない敷地内に、孤児院を併設していた。
朝の祈りも終わり、閑散とした礼拝堂には一人の年老いた修道女の姿があった。
灰色の、質素な修道服に身を包んでいる彼女は、聖壇に向かい熱心に祈りを捧げ続けている。
天主との対話に全血を注ぐ老女の背後で、樫造りの大きな扉が音を立てて開いた。
「まあ!」
振り返った彼女は、そこに立つ男を見るなり満面に喜色を湛えた。
「まあ、まあ、まあ!」
感嘆するように、何度も同じ言葉を繰り返しながら、彼女は足早に入口へと急ぐ。
「悲しき報せの多いこの頃で、これは最も喜ばしき報せですよ。ヴィルハルト」
人としての善性以外、全てを削ぎ落したかのような笑みで彼女は彼を出迎えた。
「ご無沙汰しています。シスター・エマ」
何処までも嬉しそうな笑みを浮かべている老女へ、ヴィルハルトは丁寧に頭を下げて応じた。
「本当に。よくぞ無事で……」
感極まったような声。エマは皺だらけの目尻に涙を溜めながら、ヴィルハルトの身体を下から上まで眺め回した。そして、子を愛するすべての母親がそうするように、両腕を彼に向けて広げて言った。
「お帰りなさい、ヴィル。さあ、顔を良く見せてちょうだい」
その言葉に促されて、ヴィルハルトは腰をかがめた。エマの皺だらけの手が、彼の頬を両側から包み込む。老女はその輪郭を何度も、確かめるようになぞった。
「もう少し、早く顔を見せてくれると思っていたのに。全然、来ないんですもの。もう王都にはいないのかと思いましたよ」
少し乱れていたヴィルハルトの前髪を直しながら、エマが拗ねたような声を出す。
「申し訳ありません、シスター。少し、立て込んでいたもので」
顔面を固定されているため、彼女から視線だけを逸らしながらヴィルハルトは答えた。
そんな彼を穏やかに睨んでから、エマは「まあ、いいでしょう」と言って彼の顔から手を離した。
「ここは、変わりがありませんか」
ようやく解放されたヴィルハルトは、背筋を伸ばしながら礼拝堂の中を見回すと言った。何気ないその質問に、エマの表情が暗く翳る。
「……ヴィクトルが、戦に行きました」
深い、ため息のような声だった。
「その前には、アントンとドミニクも」
エマはそのまま、近くにあった礼拝堂の椅子に崩れ込むように座り込んだ。彼女が口にした名前に、ヴィルハルトは聞き覚えがある。それは孤児院でともに育った、子供たちの名前だった。
「……少し前にね、軍の方がいらしたの」
無言で頷いたヴィルハルトへ、エマは静かに続けた。
「ヴィクトルとアントンは戦死したそうです。ドミニクは行方が分からないそうですが……いらした将校さんが言うには、望みは持たない方がいいと……」
彼女の声は、聞いていられないほどの悲しみに満ちている。ヴィルハルトは何も言えなかった。いや、何と言ったらいいのかが分からない。
彼とて、彼女の悲しみを察することはできる。しかし、理解することができない。そんな自分がどこまでも嫌になる。
昔からそうだった。エマを、この善良さ以外に何物も持たない老女を前にするたびに、そんな自己嫌悪に陥るのだ。だからこそ、彼はここに来たくはなかった。
「軍の、あの子たちのことを教えに来てくれた方ね。私に、こんなことを言ったのよ」
ヴィルハルトが何も言わないでいると、エマが場の雰囲気を切り替えるように、わざとらしい明るさで口を開いた。
「“ご子息たちは、祖国を守るという崇高な義務のために、その尊い命を捧げられたのです”って……ふふ、私は別に、あの子たちの親というわけではないのだけれど」
それでも、その言葉が何よりも嬉しかったのだと言うように、彼女は目を細める。
「……親も、同然でしょう」
それが慰めになるのかも分からないまま、ヴィルハルトはそんな言葉を口にした。
「ありがとう。貴方からもそう思ってもらえているのなら、きっとあの子たちもそうだったのでしょうね」
寂しげに答えた老女から、ヴィルハルトは恥じるように顔を逸らした。
「それにしても。貴方は本当に立派になったわね、ヴィル」
しばし、黙祷を捧げるように黙り込んでいたエマが、唐突に顔を上げると言った。
「あの問題児が、今や〈王国〉軍の中佐! そして、祖国を窮地から救った英雄だなんて! 本当に、こうなるとは思ってもいませんでしたよ。ええ」
褒めるようなその口調に、ヴィルハルトは顔を伏せて応じた。
「……誇れるようなことは、何も」
彼がぽつりと漏らした言葉と、表情から何かを察したのか。
「ヴィルハルト」
ふいに、エマが彼を真面目な声で呼んだ。目を上げたヴィルハルトは、ハッとなった。
彼女は椅子から立ち上がり、背筋を伸ばしながら、片手をそっと前に差し出していた。
「跪きなさい」
穏やかな、しかし、決して逆らうことのできない命令。ヴィルハルトは言われるがままに、その場で片膝をついた。首を垂れると、後頭部にエマの手がそっと添えられる。
「告解を。主の御前で、全ての罪を告白なさい」
添えられた手に、力が籠った。その、有無を言わさぬ力強さに、ヴィルハルトの喉から逡巡しているような声が漏れる。
「さあ」
そう促す声は何処までも穏やかで。
「……人を、殺しました」
答えた声は、何処までも空虚であった。
「最初に手を掛けたのは、少年でした。私のせいで死にかけていて、助けることはできませんでした。それからも、大勢を殺しました。数えきれないほどに」
始まってしまえば、止まらなかった。
無抵抗な敵へ、さらなる砲撃を命じたこともある。すでに戦意を失った敵兵を嬲り殺しにもした。嘘もたくさん吐いた。敵も、味方も。騙し、煽り立て、利用して、そして多くの者に死を強いた。
「そして」
そして。
最後に自分が、何を言おうとしているのか。それに気づいたヴィルハルトは、慌てて口を噤んだ。
「そして?」
エマが静かに訊き返した。
ヴィルハルトは無言で首を振った。
「それですべてですね?」
彼女が問うと、ヴィルハルトはやはり黙ったまま頷く。それ以上、エマは何も聞こうとしなかった。それは教えに反するから。
彼女はヴィルハルトの頭に乗せているのとは別の手を胸の前まで持ち上げると、そこで静かに聖印を結んだ。そして、天を仰ぐように顔を上へ向ける。
「貴方は、主の前で全ての罪を告白しました。主は必ずや、これを聞き届け、そして赦されるでしょう」
言い終えてから、祈りの聖句を口ずさむ。自然と、ヴィルハルトも同じ聖句を口にしていた。
「さあ。立ちなさい、ヴィル」
エマは再び穏やかな微笑みを浮かべると、ヴィルハルトの頭から手を退かした。彼の手を取って、立ち上がらせる。
「貴方に課せられた試練は辛く、厳しいものなのでしょう。けれど、貴方はこの務めを果たさねばなりません。きっと、それは貴方にしか果たせない使命なのですから」
励ますような彼女の声に、ヴィルハルトの顔が上がった。それを見た瞬間。
エマは、心の底から今の発言を後悔した。
ヴィルハルトの表情は今や、誰からの理解も得られず、天からも見捨てられた憐れな求道者よりも穏やかだった。
「ありがとうございます」
諦観も絶望も通り越した、虚脱の笑みを浮かべたまま、ヴィルハルトは礼を口にした。
「また、機会があれば顔を出します」
恐らく。そのような機会は未来永劫ないのだろうと確信できる声とともに、ヴィルハルトは軍帽を被りなおす。そして、そのまま礼拝堂の外へ向かってしまう。
「ヴィル……」
呼び止めるエマの声も、もはやその背中には届かなかった。
外へ向かう途中、彼は一度だけ足を止めた。信者からの喜捨を集めている水盆の前だった。彼は懐から小さな袋を取り出すと、それを水盆の上で逆さにした。ざらざらと音を立てて、銅貨や銀貨が盆の中に落ちる。中身がすっかり空になった袋をしまうと、彼は再び歩き出した。樫造りの扉に手を掛ける。
そこで。
「マザー、頼まれていた洗濯物ですけど……」
すれ違うように、若い修道女が礼拝堂へと入ってきた。扉を開けた彼女は、そこに立っていたヴィルハルトを見るなり全身を硬直させてしまう。
「やあ」
そんな彼女を見て、ヴィルハルトはどこまでもにこやかに声を掛けた。
「あ、ああ……シュルツさん……あ、いえ、中佐殿、でしたか……お久しぶり、ですね」
修道女は怯えたように、会釈を返した。
「今日はまた、どうして……?」
そう尋ねた彼女の意図は明快だった。
彼女はかつて、ヴィルハルトとともに孤児院で育てられていた子供の一人だった。そして、少年時代の彼が、弟を傷つけた少年に何をしたのか。それを忘れられない一人でもあった。
「もう帰るよ」
ヴィルハルトは彼女の本心を呼んだかのように、嘘のような優しい声を出すと、その通りにした。
扉が閉まるその瞬間まで、エマは彼の後姿を悲しそうに見つめていた。
分かっていた。
今さら、懺悔を聞いたところで彼を救ってはやれないと。
ヴィルハルトが王都へ戻ってきたあの日。あの凱旋式で、先頭に立ち、兵たちを率いて進む彼を一目見たあの時に、分かってしまった。
あの子はもう、自分を赦せない。
ヴィルハルトが教会の敷地から出ると、そこで待たせていたカレンが近寄ってきた。
「なんだ」
何かを聞きたそうな様子の彼女と目を合うなり、ぶっきらぼうに尋ねる。
「……いえ」
少し迷うような仕草の後で、カレンは諦めたように開きかけた口を閉じた。
ヴィルハルトはさっさと歩きだしてしまった。彼女はその後を追う前に、一度だけ教会へ顔を向けた。
彼が少年時代を過ごした。もしかしたら、自分もそこで育ったかもしれない、その場所を。
更新が遅く、大変お待たせしております。
今年も読者のみなさまに支えられました。
もう何度目になるか分かりませんが、完結させることだけは確約します。
それでは、よいお年を。




