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夜に沈んだ王都。海面に散らされた星屑の瞬きによってぼんやりと浮かぶ上がる王宮は、蓋の閉じられた石棺のような静謐さで満たされていた。
空気さえ息を潜めている静寂の中、白石の敷き詰められた正宮の回廊を静かな足取りで歩いていた宮廷近衛騎士、レオハルト・ファルケンハイムは王宮の建物から内庭へと踏み出した。
夏の熱気を攫ってゆく、大海から吹き寄せる夜風に黄金の髪がふわりと掻き上げられ、非の打ち所がない美貌が月明かりの下に露わになった。しかし、本来ならばこの世の人間の半数を蕩けさせ、残り半数を嫉妬に狂わせるだろうその端麗な面持ちは冴えない。
ファルケンハイムは胸の中に立ち込める煙を吐き出すように長く、静かに息を吐いた。薄い雲の向こうから透ける月明かりに浮かぶ内庭の木々が、彼の気持ちに応えるように身を震わせる。
この夜、騎士団詰所の自室にあるベッドの上で散々身をよじっていたファルケンハイムは、遂に眠ることを諦めると王宮の夜警をかって出たのであった。
近頃、彼はこうした眠れぬ夜を多く過ごしていた。
この〈王国〉始まって以来の国難、〈帝国〉軍の侵攻という国の現状を思えばそれも当然であろうが、彼がなによりも心を痛めているのは女王、アリシア・フォン・ホーエンツェルンについてだった。
先王の突然の崩御から、齢20にしてこの〈王国〉最高の地位に就いた彼女が背負うことになった重責は、如何なファルケンハイムであろうともはかり知ることのできないものであろう。そこに付けこむように、春の即位式典とともに始まった(帝国)軍の侵攻。本来、このような事態で頼るべき軍には彼女が前王より引き継いだ政策に真っ向から対立する者ばかりとなれば、その心労は果たしてどれほどのものなのか。
ファルケンハイムは、アリシアが幼いころから王女とそのお付役として共に長い時間を過ごしてきた。他の者よりもよほど、彼女についてならば深く知っている自負があった。だが、今になって思えばそれはただの思い上がりに過ぎなかったのではないかという思いが強い。
女王に即位して以降のアリシアは、驚くほど誰にも頼らないのだった。王室御付筆頭騎士であるファルケンハイムはおろか、先王からの忠臣中の忠臣として疑う余地のない宰相、インゴルト・ヨハン・フォン・エスターライヒですら、まるで何らかの啓示を受けた聖職者のように、頑ななまでにアリシアは自身に課された重責を一人で果たそうとしている。
その理由が分からない事こそが、ファルケンハイムを悩ませている原因であった。果たして、一体何が彼女にそこまでさせるのだろうか。そのことについて思い悩むたびに、ファルケンハイムの胸中には原因のはっきりしない、薄暗い靄のようなものが垂れこめるのであった。
内庭を冷えた風が一陣吹き抜けた。その指先に頬を撫でられたファルケンハイムは、思案に耽っていた脳を現実へと引き戻す。酷く、自分が無様になったような気分が腹の底から湧き上がってくる。彼は大げさに息を吐き出すと、諦めたような足どりで内庭を去ろうと身体の向きを変えた。
そのファルケンハイムの耳に、夜風に揺れる梢の囁きに混じって何か、言い争うような人の声が届いた。彼は立ち止まると、周囲に顔を巡らせた。呼吸を意識して静かにし、神経を張り巡らせる。
再び、声。やはり誰かが言い争っているらしい。いや、言い争うというよりも、どちらかが相手に一方的に捲し立てているようだった。
やがてファルケンハイムは、その声が正宮と内庭を挟んで立つ王族の居城である外宮のある方向から響いてくることに気が付いた。ファルケンハイムの顔が険しく引き締まる。現在、外宮を使用している王族は一人しかいないからであった。
「こ、困ります、ローゼンバイン閣下」
王族が暮らす城としてはかなり小ぶりな部類に入る外宮の前で、女王御付の女従が泣きそうな声を出していた。女従が着込む、黒を基調としたお仕着せに身を包んでいるのは未だ成人すらしていない少女だった。
「陛下は今、ようやくお休みになられたばかりで」
「それはもう聞いたわ、話の分からぬ女従め」
頬を平手で打つような口調をその少女に向けていたのは、〈王国〉軍総司令官オットー・フォン・ローゼンバイン大将であった。彼は脅すように歯を剥きだすと、路地裏に女性を引きずり込む暴漢のような態度で女従に言った。
「危急の案件だと申しておろうが。今すぐに、陛下とお目通りせねばならんのだ」
「ですが……」
ローゼンバインに迫られた年若い女従は怯えたような目に涙を溜めながらも、しかし引き下がらなかった。
「へ、陛下には、少しでも休息が必要で、」
「では明日、陛下がお目覚めになった時、この国が滅んでいても良いと申すのか貴様は!」
遂に堪えきれなくなったのか、ローゼンバインは大声を上げると女従の細い肩へと手を伸ばした。力任せに、彼女を押し退けるつもりらしい。
ファルケンハイムが現場へと到着したのはまさにその時であった。
「これは何事でしょうか」
彼は闇夜を裂くような声音で、言い合う二人の動きを止めた。唐突な乱入者に対して示した両者の態度は、まさに真逆であった。
ファルケンハイムに気付いたローゼンバインはこれ見よがしに不機嫌そうな表情を浮かべ、女従は安堵と期待の入り混じった眼差しを彼へ向けた。そうした彼らの反応に取り合うことなく、ファルケンハイムは口を開いた。
「これはローゼンバイン閣下。このような夜更けに一体どうなさったのですか。それも、このような場所で」
彼は礼節に則った態度でローゼンバインへと一礼すると、わざとらしく外宮の建物へと目を向けた。
「ここは外宮の目の前ではありませんか。何か危急のご報告があるようですが、陛下がお休みになっておられる場所で、夜分遅くに声を荒げられるのは臣下として如何なものかと……」
「国家の存亡がかかった、重大なお話である。今すぐに陛下にお会いせねばならん」
あくまでも丁寧な対応のファルケンハイムへ対して、ローゼンバインは幼い子供に言って聞かせるような口調で応じた。そこにはむしろ、自身をそう思い込ませようとしている響きがあった。ファルケンハイムの顔が警戒に曇る。
ローゼンバインが連日連夜、こうしてアリシアの下を訪れていることを知っているからであった。恐らくは女王を疲弊させ、自身の主張をどうにか通そうという腹積もりなのであろう。
まったく。その熱意を本来の職務に向けてもらえれば。彼は内心で嘆いた。ともかく、この老人をアリシアに合わせるわけには行かない。ここ数日のアリシアは目に見えてやつれている。彼女には幾許かでも休息が必要だった。
「ですが、この者が申していたように、日夜政務に精励しておられる陛下はようやくお休みになられたばかりのところ。国がこのような時ではありますが――」
しかし、ファルケンハイムはその続きを言えなかった。言い終えるよりも前に、アリシアの凛とした声があたりに響いたからであった。
「私なら、大丈夫ですよ」
清廉なその声と共に外宮の扉が開くと、新雪のような髪を持つ〈王国〉の現君主、アリシア・フォン・ホーエンツェルンが姿を現した。
「お待たせしてしまいましたね。申し訳ありません、ローゼンバイン大将。少し、支度に手間取ってしまいまして」
アリシアはそう羞じるように言った。彼女の姿は普段、政務に就く時と何ら変わることのない出で立ちであった。それを目にした女従が慌てたように女王の近くへと寄る。
「ああ、陛下。お着替えをなさるのなら、私を呼んでくださればよろしかったのに……」
「ええ、ありがとう、リザ。けれど、私も一応は軍役を終えた身ですから。着衣の支度くらいは、一人でできるのよ」
リザと呼んだ女従に笑顔で応じた後、アリシアはローゼンバインへと視線を戻した。
「さて、ローゼンバイン大将。何か、危急のお話しがあるとか。もちろん、お聞きしましょう」
「あー、は、陛下。では、こちらへ。第三議場に、部下を待たせておりますので」
想像していた展開と違うのか、ローゼンバインの受け答えは普段ほどの勢いがない。
「他の方もお待ちなのですか? では、急がねばなりませんね」
そんな彼へ、アリシアはさらに畳みかけるように告げると率先して正宮の建物へ向かい歩き出す。
「へ、陛下……!」
ファルケンハイムはその背中に縋りつくように呼び止めた。
「いけません、少しはお休みになられないとお身体が」
彼女の身を案じる言葉が演技でないことは、顔を見れば分かるだろうに。だが、アリシアはそんな彼を宥めるような仕草で笑う。
「ご心配には及びませんよ、ファルケンハイム。これは国主としての義務、ですから」
ファルケンハイムは押し黙ってしまった。彼女はずっと、王族としての教育を受けてきたのだ。言葉の意味を理解していないはずがなかった。国主としての義務。果たして、その一言にはどれだけの重みがあるのだろうか。
「……では、せめて私を共にしていただくお許しを」
辛うじて、ファルケンハイムはそれだけを絞りだした。それにアリシアは頷くと、確認するようにローゼンバインへと顔を向けた。
「ええ、いいでしょう。ローゼンバイン大将も構いませんね? 彼は私お付の筆頭騎士ですから」
一瞬、心の底から迷惑そうな表情を浮かべたローゼンバインだったが、結局はアリシアの言葉に頷くより他になかった。どれほど不敬な企みを腹に隠していようと、彼もまた〈王国〉の一臣下に過ぎないのだ。
ファルケンハイムがそう予断した己の浅はかさを呪うことになったのは言うまでもないことだった。
続きは金曜日!




