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66話 ホッとした


「……主殿のお姿が見えました。やっと、お戻りになられるようですね」


「うむうむ。ミコトの奴め、土壇場で逃げ出さないかと心配しておったが……ひとまずはこれで安心じゃな」


 緊張の面持ちをした尊が、気を引き締めて城に戻ろうとしているその時。

 尊の帰還を今か今かと待ち侘びていた2柱の魔神は、ユーディリア城の最上階から、城に向かって歩いてくる尊の姿を見つめていた。


「はい。自身の不甲斐を認め、ご成長を望まれる事は大変喜ばしい事です。主殿にもようやく、ユーディリアの王としての自覚が芽生えたのでしょう」


 フルプレートの鎧を身に付け、堅苦しい口調で話している彼女は魔神アンドロマリウス。きめ細やかな紺色の長髪をポニーテールでひと房に束ね、凛とした風貌の美少女である彼女は……尊がセフィロートを訪れるまでの間、ユーディリアに残っていた数少ない魔神達のまとめ役を担っていた。


「まぁ、あやつにも色々あったからのぅ」


 そんなアンドロマリウスの傍らで、必死に背伸びをしながら窓枠によじ登り、外の光景を眺めている赤いぬいぐるみは――魔神ベリアル。

 千年前はソロモン72柱の魔神の中でも、最高の魔神との呼び声が高かった彼女ではあるが、今は深い事情によって……ぬいぐるみの姿となっている。


「……ベリアル殿。他の者達から、貴女は元の体に戻ったとお聞きしていたのですが……なぜ、またそのように愛らしいお姿に?」


「おお、すまぬな。なぜと言われても、まだミコトの力が足りないだけじゃ。今の儂があの姿に戻っていられるのは、一日に五分くらいじゃろうて」


 中々よじ登れずにいるベリアルを気遣い、優しく抱いて持ち上げるアンドロマリウス。ベリアルは彼女に礼を言いつつ、質問への返答を返した。


「なるほど、そうでしたか。支配者クラスである貴女が本来の力を発揮できれば、とても心強いのですが……仕方ありませんね」


「そうじゃのぅ。張子の虎である事をバエルに悟られずに済んで助かったぞ。もしバレておったら、今頃儂はおろか、大切なミコトも殺されるところじゃった」


 そこまで話して、ベリアルはアンドロマリウスの腕の中でフフフと笑う。

 数日前、ギリギリのハッタリでバエルを退けた事を思い出しているようだ。


「……バエル、ですか」


「ん? なんじゃ、浮かない顔じゃのぅ。何か言いたい事でもあるのか?」


 バエルの名を聞いた途端、あからさまに表情を変えるアンドロマリウス。

 それを見たベリアルは、不可解そうにその真意を訊ねる。


「あえて言わせて頂くのなら、主殿が選んだ決断は……このユーディリアを更なる危機に晒してしまったのではないかと、私は考えています」


「……ふむ。それは、アスタロトを救った後に、バエルに引き渡さなかった事を言っておるのか?」


 毒湿原カプリコルムがなぜ、生物の生存を許さない死の毒に侵されたのか。

 そのきっかけであるアスタロトが、どのような経緯で、どれ程の酷い目に遭っていたのか。それらは全て、尊達の口からアンドロマリウス達にも伝わっている。

 だからこそベリアルは、アンドロマリウスの尊を責めるような口ぶりに対して、少しばかりムッとしているようであった。


「ええ。確かにアスタロトの境遇には同情します。かつて愛した者に裏切られ、醜悪な姿に変貌させられた後……九百年近くも苦しみ続けた日々。決して私などには、想像も付かない苦痛であった事でしょう」


「ならば、ミコトがアスタロトをバエルに渡さなかった理由も分かるじゃろう?」


 自分の恋人を躊躇なく、醜悪な怪物の姿へと変貌させた魔神バエル。もしもまた彼女の手にアスタロトが渡れば、同じ悲劇が繰り返されたかもしれない。

 ベリアルはその事を、アンドロマリウスに指摘する。


「分かっております。ですが結果として、アリエータとの同盟の話が決裂しただけではなく、以前よりも襲撃の頻度を高めてしまう結果となってしまいました」


 事実、ユーディリアとアリエータの国境付近には、武装した兵が頻繁に跋扈しており……着実に、侵攻の準備が整いつつあった。

 

「それに、南からの侵攻を防いでいたカプリコルムの毒が消えてしまった事で、新たに南にも防衛ラインを築かなければならなくなり……いくら魔神が増えたとはいっても、予断を許さない状況となった事は間違いありません」


 ソロモンの魔神であっても、無事では済まされない猛毒の湿地帯カプリコルム。

 異形の姿に変えられたアスタロトが放つ瘴気によって作られていた、天然の要塞とも言うべきその土地も……アスタロトの救済に伴い、今では広大な緑が広がる立派な湿地帯へと戻っているのだ。


「南にはイポスを始めとした、好戦的な魔神も多い。アリエータと同時に責め立てられでもしたら、我々は――」


「ふむ。だからお前やラウム、ビフロンスは、未だミコトの事を真の主として認めきれず……契約を交わしておらぬというわけか」


 尊と契約を交わせば、ソロモンの魔神は本来の力を覚醒させる事が可能だ。

 それは即ち、最も簡単にユーディリアの戦力を向上させる手段なのだが、尊を未だ信用しきれていないアンドロマリウスは、頑なに契約を拒んでいたのである。


「……私の場合は、そうなります。ラウムとビフロンスは、何やら他の思惑があるようでしたが」

 

「あやつらの事じゃ、どうせ契約を交わす際のシチュエーションにでもこだわっておるのじゃろう。ミコトの事はそれなりに気に入っておるようじゃしな」


 ミコトが魔神と契約すればする程、ベリアルの失われている力は取り戻されていく。その事を鑑みれば、一刻も早く契約して欲しいというのがベリアルの本音だ。

 しかし当の尊本人が、相手の方から望んで来ない限り契約をしないスタンスである為に……無理強いもできず、手をこまねいているのが現状であった。


「……まぁよい。お前の言い分は魔神の立場からすれば正しい意見じゃし、実際、アスタロトを犠牲にしてでもユーディリアを守るべきじゃったのかもしれん」


「ベリアル殿も、そのように思われますか?」


「半分は、な。じゃが、尊がアスタロトを守ると決めた時……儂はホッとした」


「えっ……?」


 胸に抱いたベリアルの言葉が信じられないといった様子で、目を丸くするアンドロマリウス。そんな彼女を気にも留めず、ベリアルは言葉を続ける。


「千年前のソロモンならば、合理的な判断でアスタロトを犠牲にしたじゃろう。しかしミコトは、そうしなかった。たとえそれが、愚かな決断じゃとしても」


「……おっしゃる意味が、分かりかねますが」


「あやつはソロモンの生まれ変わりでありながら、ソロモンの足跡をなぞろうとはしない。それはつまり、ソロモンを超える可能性を秘めておるという事じゃ」


 そこまで言われて、アンドロマリウスはハッと気付く。

 ベリアルが尊に対して何を期待し、何を求めようとしているのか。

 その真意の、ほんの一端に――

 

「ま、良い方に進まずに悪い方に転がる可能性もあるがのぅ。じゃからこそ、儂らがあやつを鍛えてやらねばならんわけじゃが」


「……それはまた随分と苦難の道ですよ」


 まるで自分に言い聞かせるように、小さく呟くアンドロマリウス。


「今の主殿は、以前の主殿と比べれば足りない部分が多すぎますので」


 しかしそれは決して、否定的なものではなかった。むしろ、自分もその為の助力を惜しまないという……固い決意を秘めた呟きなのだろう。


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