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60話 待っています


 夜空を厚く覆う雲によって、眩い月や数多の星々が、覆い隠されてしまっている聖国アリエータ。

 一切の光を持たない夜空と比べると、地上に広がる仄かな灯は国全体に散りばめられており、これではまるで天と地がひっくり返ったようだと……アリエータの空を舞うバエルは愉快そうに笑った。


「ふぅ、久しぶりの外出は疲れたわね」


 飛行というよりは浮遊に近い挙動ではあったものの、遠く離れたカプリコルムから自国まであっという間に帰還を果たしたバエル。

 彼女は自分が足を下ろしたアリエータの宮殿――そのバルコニーにて、両腕と背筋をピンと伸ばしながら溜め息を漏らす。

 そして、そんな彼女の傍らには、もう一つ。小さな人影が存在している。


「ふふっ。アナタも、慣れない空の旅は疲れたんじゃない?」


「…………」


 からかうように笑うバエルの視線の先にいるのは、魔神ヴァサゴ。

 少し前までは素顔の半分を覆い隠していた赤いマフラーが無くなり、常に晒されるようになった彼女の口元は現在、固く引き結ばれていた。


「あらあら、拗ねちゃったのかしら」


 その原因が自分の行いにある事を自覚していながら、白々しい態度を崩さないバエル。しかしそれでもヴァサゴは、バエルに反抗する態度はおろか、表情にも一切の不満を漏らす事なく……ジッと黙って耐えている。


「いじらしいわね。たった一日でそこまで、あの方に入れ込んでしまったの?」

 

 あの方、と。バエルが口にした途端、長く垂れ下がった前髪から覗く片方の瞳が大きく見開かれる。


「はい。マスターへの想いを、認めます」


 しかしそんな動揺も、ほんの一瞬。ヴァサゴはすぐにいつもの無表情へと戻ると、バエルの脇を通り抜け、バルコニーから宮殿内へと通じる扉を開く。

 すると、開かれた扉の奥の方から……慌ただしい複数の足音が響いてきた。


「バエル様!! ああっ、ようやくお戻りになられましたか!!」


「きゃはははははっ!! おっかえりー! ねぇねぇ、どうなったのー!?」


 仕える主の気配を、敏感に察知したのだろう。

 宮殿内の階下から駆け付けてきたのは、必死の形相の魔神アガレスと、心底楽しそうに下卑た笑い声を張り上げる魔神マルファスの二名であった。


「お変わりがないようで、何よりでございます!!」


「ええ。妾だもの、当然でしょ?」


 足元に跪いたアガレスの頬を撫でて、バエルは聖女の二つ名に相応しい笑みを浮かべる。一方、頬を撫でられたアガレスは頬を赤らめ、恍惚めいた表情で口をだらしなく開いて舌を出し……ビクビクと、その体を痙攣させていた。


「あっ、ふぁ……ふぇぁ……ふぁふぇふひゃはぁ……へばぁっ!?」


「ねぇねぇ、バエル様! アスタロトを連れて帰ってこなかったって事はさぁ、もう殺しちゃったんでしょ? そうなんでしょ!?」


 快感で呂律の回っていないアガレスを蹴り飛ばし、喜色満面の笑顔で、バエルの前へと躍り出てくるマルファス。

 争い事や血生臭い話が何よりも大好きな彼女は、バエルがどのようにアスタロトを殺害したのかが、気になって仕方ないらしい。


「早とちりよ、マルファス。連れて帰りたかったけど、こわーいお人形さんに邪魔されちゃってね。当分の間は、ソロモン様に預けておく事にしたの」


「ええーっ? アイツ、ぶっ殺してないのぉ!? つっまーんなーいっ!!」


 バエルの回答が自分の望むものとはかけ離れていたからか、マルファスは心底ガックリした様子で肩を落とす。

 しかし、そうやって落ち込んだ素振りを見せたのも束の間。バエルの隣にいるヴァサゴの存在に気が付いたマルファスの顔は、サディスティックに歪み始める。

 

「きゃはっ!! どうせ役立たずのアンタが、足を引っ張ったんでしょ? これだから使えない駄目駄目妹は、優秀で才能のあるアタシと違って――」


 マルファスにとっては数百年以上もの間、恒例となっているヴァサゴへの罵倒。

 内気で温厚な性格のヴァサゴは、どんなに酷い罵りを受けても、ボソボソと否定の言葉を口にするだけ。だからこそマルファスは、自らのストレス発散の相手として、彼女を捌け口に選んでいたのだが――


「違うっ!! ヴァサゴは!! 役立たずなんかじゃないっ!!」


「うにぃっ!?」


 いつもの情けない反応とは異なり、ヴァサゴは溢れんばかりの怒りを顕にして、マルファスの胸倉を勢いよく掴み上げる。

 不意を突かれた形となったマルファスは一応の抵抗を行うが、殺さんばかりの勢いで掴みかかってきたヴァサゴの手からは、そう易々とは逃れられなかった。


「二度と!! ヴァサゴを!! 馬鹿に!! しないで!!」


 有無を言わせない凄まじい剣幕で、マルファスを怒鳴りつけるヴァサゴ。


「ちょっ、まっ……わかっ、たわよっ……!!」


 自分よりも格下に見ていた存在から、手痛いしっぺ返しを食らう。

 普段のマルファスならば、このような事態を絶対に許さない筈なのだが、ヴァサゴのあまりにも鬼気迫る迫力に圧倒されたのか……大人しく承諾の言葉を返す。


「……分かれば、いい」


「げほっ、げほげほっ!! このっ、覚えておきなさいよ……マジで!」

 

 ヴァサゴの手から解放されたマルファスは恨みがましい言葉を残し、フラフラとよろめきながら宮殿の中へと逃げるように去っていく。

 これはまさに、千年近い歴史を持つアリエータにおいて、初めてヴァサゴがマルファスに勝利した瞬間であった。


「……バエル様。ヴァサゴのあの変わりよう、一体何があったのですか?」


 そんな歴史的快挙を目の当たりにして、とても信じられないといった様相で佇むのは……つい先程までは無様な姿で快感の絶頂に酔いしれていたアガレスだ。

 

「あら。大切な妹の変貌ぶりが心配なの?」


「いえ、そういうわけではありませんが……些か、気になりまして」


「大丈夫、安心していいわ。あの子の変化と成長も、妾の計画の内だから」


「計画……ですか?」


「ええ、そうよ。あの子はこれから、もっともっと……ソロモン様の為に更なる成長を遂げていく。それこそが妾の狙いなの」


 その為ならば、最愛の恋人の奪還すらも後回しにする。

 バエルの取った行動と合わせて考えてみても、ヴァサゴの成長がバエルの計画にどれほど必要不可欠な要素だったのかは……実に明白だ。

 

「ふふふっ。でもそのせいで、あの子はいずれ取り返しのつかない選択を選ぶ事になるのよ。ああっ、今からその日が訪れるのが……待ち遠しいわ」


 バエルは嗤う。

 愛に目覚め、愚かしくも身の丈に合わない幻想を抱くヴァサゴの夢を。

 自身が辿る末路も知らず、運命に抗おうとする彼女の哀れさを。


「……マスター。ヴァサゴは、アナタの為に……頑張ります」

  

 ヴァサゴは誓う。

 たとえ傍にいられなくても、契約を交わせていなくとも。

 自分はこの場所で、あの人の役に立ってみせるのだと。


「だから、待っています」


 今はまだバエルに従うしか無いが、いつの日か彼女が探し求めるアレを見つけ出し、それを想い人に渡す事ができれば……この世界の運命は大きく変わるだろう。

 だからその役目を果たすまでは、どんなに苦い日々であっても耐えてみせる。


「いつまでもずっと、待っています」


 そう遠くはならないであろう、いつの日か。

 あの人と一緒に笑い合い、楽しい事や面白い話をいっぱいして……イチャイチャできる幸せな日々を夢見て――

 

「アナタが、ヴァサゴを迎えに来てくれる日を」


 ヴァサゴはミコトへの確かな想いを、しっかりと胸の奥に刻み込むのであった。 


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