37話 信じてるから
序列第3位、公爵クラスの力を持つ魔神ヴァサゴ。
千年前に仕えていた契約者を失ってからの彼女は、姉のアガレスと共に、強大な力を持つ魔神バエルに従い……苦難の日々を過ごしてきた。
もっとも、彼女にとって最愛の姉に付き添う事は幸せであったし、恐怖による支配であろうと、バエルの庇護にある事は絶大な安心感をもたらしてくれた。
だからこそ彼女は、自分の進む道を疑った事はおろか、選んだ道を後悔する事さえ無い。これまでも、これからも。自分は姉の影として生き、バエルに従って生きていけばいい。そう、思っていた筈なのに――
「う、うわぁあああああああああああああっ!?」
恐怖に駆られた叫び声が、響き渡る室内。自分の過去をぼんやりと振り返っていたヴァサゴは、その叫び声によって意識を取り戻した。
「あ、あぁ……う、うぁ……」
「ミ、ミコト様!? キマリスッ! ミコト様に何をしたんですか!?」
上に乗せた赤いぬいぐるみごと頭を抱えて蹲る尊。そんな彼を案じて駆け寄るフルカスは、事の発端とも言えるキマリスを問い詰める。
彼女が自身の魔神装具の先端を尊に向けた瞬間――彼は突然叫びだし、何かに怯えるようにして、こんな状態に陥ってしまったのだ。
「むぅん! 案ずるな、フルカス! 吾の力を忘れたか?」
「キマリスの力って……? えっと、えっとえっと……」
「確か名前は勇湧旗ウィルトゥシルム。【勇気を操る】事ができる魔神装具ね」
キマリスへの返答に詰まるフルカスに助け舟を出すように、落ち着いた表情のフェニックスが、その能力について解説を挟む。
「でも、その力は……勇気を湧かせる事が、主な筈。こんな風に、元マスターを苦しめるとなると――まさか?」
「その通りだ、ヴァサゴ。吾は今、このウィルトゥシルムの力を用いて……勇士の持つ勇気を操り、その全てを消し去ったのだ!」
ヴァサゴはキマリスの堂々たる言葉に、驚愕を隠せなかった。
彼女が知るキマリスという魔神はかなりマイペースで、自分とは噛み合わないタイプではあったが……その愚直さと誠実さは評価していた。
戦いの際、味方の士気を上げる為に能力を用いる事はあっても、決して相手の勇気を奪うような真似はしなかったキマリス。そんな彼女が、元は仕えていた主に対して拷問にも等しい行いをしている事が、ヴァサゴには信じ難かったのだ。
「むがぁっ! なんて事をするんですか!? 早く元に戻してくださいっ!」
「ひぃっ!? うぁぁあああああああっ!」
「ミコト様!? ち、違います! 今のはミコト様に言ったわけじゃなくて!」
「馬鹿ね。勇気を失った奴の前でデカイ声を出したらどうなるか、考えなさいよ」
キマリスに食ってかかるフルカスの声にすら驚き、怯え、体を震わせるミコト。
この場にいる全員が、彼と出会った頃から感じていた前向きな明るさと、滲み出る確かな自信は……もはや、見る影も無く消え失せていた。
「あややや、その通りです。臆病な奴には勇気が無いと思われがちですが、そんな事は決してありません。逃げる事や危機を回避する為に行動する事にも、僅かばかりでも勇気が要るものです。しかし、今のミコト氏にはそれだけの勇気も無い。何かを行動する為の活力を作り出す事もできず、目の前にある全ての存在に怯えるだけの……言ってしまえば、地上最弱の生物ですね」
「アンドレアルフス……! そんな言い方は……!」
歯に衣着せぬアンドレアルフスに対し、極力声を抑えながら反論するフルカス。
しかしそれでも、腕の中に抱くミコトはより一層怯えるばかりであった。
「キマリス、これが試練だという事は分かります。でも、ミコト様がこんなにも辛そうにしている姿を……私はこれ以上見ていられません。もう、やめてください」
勇気を完全に失った状態から、尊が立ち上がる事ができるかどうか。
そんな内容の試練である事は、フルカスを始め、フェニックスやヴァサゴにも理解できる。しかし、先のアンドレアルフスの試練に比べて、今回の試練はあまりにも手荒い内容だ。フルカスが反対の意思を見せるのも、当然だった。
「ヴァサゴも、フルカスに賛成。こんな試練、挑む必要は無い」
そして、反対の意思を見せたのはヴァサゴも同じ。
彼女は細くて白い腕をローブの中から出すと、ゴキゴキと拳を鳴らし始める。
「わざわざ試練なんて、受けなくても……キマリスを倒せばいい。今なら元マスターに止められる事も無い。私は好きに、やるだけ」
アンドレアルフスの時は、尊が反対する手前、強攻策には出られなかった。
しかし今のミコトはまともに話す事もできない状態。ならば、自分がどんな手段でキマリスを打ち破ろうとも、責められる心配は無いという判断だ。
「中位魔神の分際で、調子に……乗りすぎ、かも」
この場にいる総勢五名の魔神の中で、唯一の上位魔神――公爵クラスに位置するヴァサゴ。彼女が本気で倒しにかかれば、いくら戦闘能力に長けたキマリスであろうとも、一対一では到底勝ち目が無い。
それに加えてヴァサゴには、一応の仲間であるフルカスとフェニックス、尊と契約したばかりのアンドレアルフスも味方に付いているのだ。
ならば、尊を危険に晒し、尚且つ勝算の低い賭けに出る必要は皆無。
そういう考えの元、ヴァサゴがキマリスをねじ伏せようと動く。
「待ちなさい、ヴァサゴ。勝手な真似は、アタシが許さないわよ」
しかし、そんなヴァサゴを引き止めるように、鋭い瞳をしたフェニックスが炎の両翼を広げて……彼女の行く手を阻む。
「フェニックス? どうしてあなたが、止めるんですか?」
自分の行動を止める者がいるとすれば、尊の意思をとにかく尊重しようとするフルカスか、彼に試練を与える事を望んでいるアンドレアルフスのどちらかだとヴァサゴは踏んでいたのだ。
だが実際は、この中で最も血の気が多く、尊への忠誠心も低そうなフェニックスが自分を止めに入った。ヴァサゴにとっては、信じがたい出来事だった。
「あなたも、アンドレアルフスの時には……実力行使に賛成、だった筈」
「まぁ、そうね。ぶっちゃけ今でも、こんな面倒な試練なんて無視して、キマリスをぶっ飛ばした方が手っ取り早いって思っているわよ」
「それなら、なぜ?」
「…………信じてるから」
「はい?」
全員に対して背を向け、炎の両翼で顔を覆い隠すようにしながら……フェニックスは、微かに聞き取れる程の小さな声で呟く。
ヴァサゴはまたしても、フェニックスの言葉で呆気に取られる事となった。
「そりゃあ、あの頃のソロモンと比べると……ミコトは馬鹿で間抜けだし、強さもカリスマも足りてない。アタシ達の主として、まだまだ不甲斐ない男よ」
顔を隠したまま、フェニックスは淡々と言葉を続ける。
その部分だけを切り取れば、いつもの彼女らしい毒舌が繰り広げられているのであるが、この場にいる他の魔神全員とも……そうは思っていなかった。
なぜなら、彼女が尊について語るその声色は――
「だけど、ミコトはそれでも……なんとかしちゃう気がするのよね。どんな苦難や試練が待っていても、ハーレムを作る為なら乗り越えちゃうっていうか」
まるで恋する乙女のように、とても可愛らしいものであったから。
「とにかく。あのハーレム馬鹿が、勇気を失ったくらいでへこたれるわけがないじゃない。だからアタシ達は、ただアイツを信じて待っているだけでいいのよ」
ボボボッと炎の翼の揺らめきを一層激しくさせて、フェニックスは話の最後をそう締めくくる。それによって、周囲に漂うのはどこか照れくさい空気。
アンドレアルフスはモジモジと内股を擦らせながら両腕で肩を抱き……フルカスは何度も首を縦に振りながら、喜びの涙で顔中を濡らしている。
キマリスは気恥ずかしそうに頬を指で掻き、目線を天井へと向けていた。
「……信じる?」
しかしヴァサゴだけは、フェニックスのデレデレな発言に困惑を深めるばかり。
彼女もフェニックスの言う事を理解はできるのだが、そこまでの盲信を尊に対して行えるかというと……そうではない。
「うぅ、ぁ……ぁぁぁぁ……」
キマリスに勇気を奪われてから、ずっと怯え続けたままの尊。
ずっと大事そうに頭に乗せていたぬいぐるみを今は胸に抱いて……悪夢を見た幼子のように震えている彼を、ヴァサゴは未だ信じられずにいた。
「マスター……あなたを」
それはきっと、今に始まった事ではなく。
「もう一度、信じてみても――いいのですか?」
千年前の別れから、ずっと――
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