22話 希望の道
「なぁ、ルカ。カプリコルムって、一体いつから毒の湿原になったんだ?」
「むー……確か、ソロモン様がいなくなって……百年後くらいですかね」
ルカの話から逆算すると、カプリコルムが毒の湿原へと変わったのは九百年くらい前の事だ。一体何が原因で、湿原に毒が蔓延したのだろうか?
それに、魔神でさえも入れない毒の湿原の中に……アスタロトはどんな風に捕まっているんだ? そもそも、アスタロトを捕らえている奴の正体は――
「もしかして、アスタロトは……」
「……ねぇミコト!! アタシの話、聞いてんの!?」
「へっ? あ、ああ、ごめん! ちょっと考え事をしてた」
俺が思考を整理している間、何度か名前を呼ばれていたらしい。
耳にキーンと響くフェニスの怒声に意識を引きずり戻されて、俺は顔を上げる。
「うぉぅ……?」
いつの間にか林道を抜けていたらしく、開けた視界の先にはこれまでとは違った景色が広がっていた。
ただ、その景色を認識するよりも早く……俺の鼻と喉に激痛が走る。
「うぐっ……!?」
臭い。真夏の炎天下で放置されていた生ゴミでも、ここまで酷い臭いじゃない。
息をするだけで鼻腔がズキズキと痛み、喉の奥が焼け付くようだ。
瞳も勝手に潤み、ポロポロと涙が溢れてしまう。そのお陰で俺は、眼前に広がっているカプリコルムの全貌をまともに見る事ができないでいた。
「だ、大丈夫ですか!? ミコト様!!」
苦しさのあまり、崩れ落ちそうになる俺を抱き止めてくれたのはルカ。
普段の俺なら、その柔らかな肌の感触と女の子特有の甘い香りに喜ぶところだけど、この状況ではそんな余裕も持てない。
「だから立ち止まりなさいって言ったでしょ!! もう!!」
「マスターのローブであっても、この毒は完全に……防げない」
「しっかりしてください、ミコト様! すぐにお運びします!」
「かはっ、はぁっ、ふぅっ……ごめ、ん……」
ルカに背負われた俺は、湿原の淵からかなりの距離へと運ばれる。
まだ俺は、一歩もカプリコルムへと足を踏み入れていなかった。
それなのに……ただ近寄っただけで、こんなにも苦しい目に遭うなんて。
「……これが、カプリコルムの毒か」
安全な場所まで戻り、ルカに降ろして貰って……俺はようやく、まともに呼吸を行う事ができた。鼻や喉の痛みも、かなり和らいだ。涙で滲んでいた視界も無事に快復し、心配そうに俺の顔を覗き込むルカ達の顔もちゃんと見える。
「さっきアンタが足を進めた所くらいが、ちょうどデッドラインね。あれより先はアタシだって無事じゃ済まない。実際、何度もここの毒には殺されかけているわ」
フェニスは俺の傍に腰を下ろすと、大きく伸ばしたフランマウィングの両翼で俺の体を包み込む。火傷してしまうのではないかと思わず身構えたが、不思議とそんな事はなく、炎の翼は程よい温度で俺の体を温めてくれた。
「むーふー……困りましたね。ミコト様なら或いは、と思っていたんですが」
「ヴァサゴ、本当にこんな場所にアスタロトがいるの? いくら公爵クラスの魔神でも……この毒には耐えられないでしょ?」
「絶対に、いる。隠捜盤チェラレコンパスに、間違いは無い」
そう答えて、ヴァサゴは服の中から小さな箱を取り出した。
よく見ればそれは、昔の時代の方位磁針……羅針盤みたいな形状をしており、その針の先はまっすぐにカプリコルムの方角を指している。
これがヴァサゴの魔神装具か。思っていたよりも、かなり小さいな。
「距離、ここから歩いて、十数分の位置。そこに、アスタロトは必ず、いる」
手に握り締めた魔神装具を見つめ、自分に言い聞かせるように呟くヴァサゴ。
彼女を疑うつもりはないが、この毒湿原に生物がいるとは非常に考えにくい。
仮にいたとしても、さっきの俺と同じく無事ではいられない筈だ。
「アンタの能力の正確さはよく知っているわよ。でも、だからこそ不思議なの。魔神随一の再生能力を持つアタシですら、この場所には踏み込めないのに……」
フェニスの視線が流れて、カプリコルムへと向けられていく。
枯れ木すら生えておらず、腐食し、黒紫色に濁った泥水のような物が一面に広がり……そこから立ち込める赤黒い瘴気が霧状に立ち込めているカプリコルム。
こうして見れば見る程に、ここが地獄への入口に思えて仕方がない。
「はいはいはい! フェニックスの翼で、空から向かうのはどうでしょうか!?」
「ダメよ。一度試した事があるけど、上空にも毒の瘴気が漂っていたの」
ルカの提案した作戦は、俺も策の一つとして考えてはいた。しかし、フェニスの言う通り、カプリコルムの毒は空から向かえば大丈夫……といったレベルではない。
「なんとか途中で引き返せたけど、逃げるのが少しでも遅れていたら、今でもこの中で腐っては治り、腐っては治り……死と蘇生を繰り返していたでしょうね」
「ひぇっ……! こ、ここ、怖い話は禁止ですよ!!」
フェニスが口にした最悪の状態を想像したのか、ルカは怯えるようにしがみついてくる。俺はフェニスの両翼から体を出すと、ひとまずその手を握ってあげた。
「元マスター。貴方の力なら、この難題を突破できる、筈です」
「……俺の力なら、か」
震えるルカの手を握る、俺の右手。
その指先で妖しく輝きを放つ、赤紫色の指輪。
もし本当に、俺にそんな力があるのなら……頼む、何かヒントをくれよ。
「ミコト。新たな道を切り開きたければ、儂の話をよく聞くがいい」
微かな期待を込めてソロモンの指輪を見つめていると、そんな事は無駄だと言いたげにベリアルが囁きかけてくる。
「……指輪はあくまでも、補助的な役割を果たすに過ぎぬ。お前が契約を行えるのも、魔神の力を引き出せるのも……全て、お前自身の中に眠る力なのじゃ」
俺の中に、力が眠っている……?
「カプリコルムにアスタロトがおるとして……奴と契約する事が運命によって定められておるのならば、貴様は既にその兆候を感じておるじゃろう」
兆候? そんなもの、あったか?
アスタロトとは、会った事も、話した事も無いのに――
「……話した事が、無い?」
(……えますか? わた……の……聞こえ……)
いや、ある。
(…………ます。早く私を……けて、苦しい……痛い)
俺は聞いた筈だ。
(お願い……見つけて、私を……あの方に……れる、前に……)
夢の中で、確かに俺は彼女の声を聞いている。
彼女は俺に救いを求めていた。
俺はその手を取る事はできなかったけど、彼女は間違いなく――
(私の名前は……アスタロト)
「そうだ、そうだよ!! どうして今まで、忘れていたんだ!!」
「「「えっ?」」」
「俺はアスタロトの声を聞いていた! あの子は俺の助けを待っているんだよ!」
唐突に俺が叫び出したので、ルカ達は揃ってポカンとした表情で首を傾げる。
まぁ、いきなりこんな事を言われても、理解できないのは仕方ない。
本当は一から説明すべきなんだろうけど、今はその時間すら惜しいからな。
「……アスタロト。俺は、ちゃんとお前を助けに来たぞ」
俺はそっと瞳を閉じると、開いた手のひらを自分の胸へと押し当てた。
もし、俺の考えが正しければ……ちゃんと意識を集中さえすれば、もう一度彼女の声を聞く事ができる。夢の一件から声が聞こえないのは、俺の意識が他の女の子の事や、雑念によって集中できていなかったからだ。
だからこうして、心の耳をすませば――ほら、聞こえる。
(嬉しい……ああ、ソロモン様)
「アスタロト!? やっぱり、お前がアスタロトなのか!?」
(……はい。私の名はアスタロト)
ルカを魔神憑依した時と同じで、体内に直接響くような声。
昨晩の夢ではノイズがかっていたけど、今ではハッキリと聞く事ができる。
「また話せて良かったよ。なぁ、お前は本当にこの湿原の中に……」
(すみませんが、今の状態では、あまり長くは……話せそうにありません)
アスタロトの声と通じ合ったのはいいが、以前と同じく、彼女の声は弱々しい。
長く話せないという点からも、彼女の置かれている状況は芳しくなさそうだ。
(少しの間だけ……道を、開きます。どうか、私に会いに……助け、に……)
またしても、薄れて消えていくアスタロトの声。
「お、おい? アスタロト!? アスタロト!!」
俺が必死に呼びかけるも、アスタロトからの返事は返ってこない。
どうやら、話せる時間はもう終わってしまったようだ。
「ちょっとミコト! アンタ、いきなりどうしたの!?」
「むふふぅっ! テレパシー的なアレですか!? 何か感じ取ったんですか!?」
意識の集中を解くと、今度はフェニスとルカの声が耳に入ってくる。
目を開いて見てみれば、ドン引き気味の青褪めたフェニスの顔と、対照的に興奮した様子のルカの顔が視界いっぱいに映った。
「元マスター……今のは、まさか?」
「ああ。アスタロトと話していたんだ」
ヴァサゴだけは、俺の行動の真相を理解していたらしい。
俺が頷きながら答えると、珍しく驚いたような表情で瞳を丸めていた。
「お、おおおお! ミコト様がなんだか、パワーアップしています!」
「これをパワーアップと呼ぶのは、どうかと思うけど……」
ぴょんぴょんと喜び跳ねるルカの横を通り、俺はカプリコルムの方へと進む。
数分前、俺が大ダメージを受けたデッドラインはもう目と鼻の先に迫ってきているけど……俺の足が歩みを止める事は無い。
「ちょっ!? 馬鹿ッ!! 死ぬつもり!?」
「あああああっ! ミコト様ぁぁぁぁぁっ!! 死んじゃいますよぉぉぉ!」
「……大丈夫。もう、道は開いているから」
俺の身を案ずるフェニスとルカに笑顔で手を振りながら、俺は毒の瘴気に満ち溢れた湿原へと足を踏み入れた。
もしこの場所が、さっきまでと変わっていなければ……俺は死んでいただろう。
「ほら、無事だったろ?」
「ぁぁぁぁぁぁぁっ……はれ? ミコト様が、生きてる?」
絶叫を途切れさせて、キョトンとするルカ。
未だ、何が起こっているのか理解できていないようだ。
「毒が、消えた……? それも一直線に、ですって!?」
「そう。どうやったのかは分からないけど、アスタロトが道を開いてくれたんだ」
いち早く異変に気付いたフェニスが口にしたように、カプリコルムには先程までは見られなかった……毒の存在しない通り道が現れている。
俺は毒に耐えているわけではなく、ただその道の上を歩いていただけだ。
「急ごう。アスタロトの話じゃ、道は少しの間しか開けていられないらしいから」
この通り道は間違いなく、アスタロトの居場所へと続いている。
進んだ先にどんな敵が、困難が待ち受けているのか……まだまだ不安は残るし、恐怖だってある。
だけど、自分の中に誰かを救える力があると知った以上――
「さっさとアスタロトを助け出して、お楽しみの契約タイムといこうぜ!」
俺にはもう、前へ進む事しか許されないのだろう。
いつも本作をご覧頂いて、誠にありがとうございます。
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