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96話 それは、まぎれもなく


「相変わらず、姑息な真似しか能のねぇ奴ですね」


「がぅぅぅっ!!」


 不意に頭上から聞こえてきた声を受けて、咄嗟に上を向くビフロンス。

 するとそこには、剣を構えながら飛びかかってくる魔神エリゴスの姿があった。


「うがぁぁぁぁぁっ!?」


 振り下ろされる斬撃を躱そうとして身をよじるビフロンスであったが、あまりにも突然の不意打ちを前に……回避は間に合わない。

 右の肩に一撃を受け、赤い鮮血を撒き散らしながら……ビフロンスは必死に後方へと下がる。ギリギリ致命傷には及ばなかったものの、それなりの深傷である。


「ふぅ、困りますね。折角、グズのアナタでも避けられるように声を掛けてあげたのに……もう、斬られやがりましたか」


 ビフロンスの肩を切り裂き、地面へと降り立つエリゴス。

 それから彼女は手に握る剣をひと振りすると、その刀身に付いた血を払う。

 その言動の節々には、確かな余裕と……底知れない嗜虐心が溢れていた。


「が、う……!?」


「あんな下等な幻影に騙されるのは、使えねぇカス共ぐれぇですよ。公爵クラスであるこの私も騙せると思ったら……大間違いですよっ!!」


「ぐるるるるっ!! がぁぁぁうっ!!」


 今度はかろうじてエリゴスの攻撃を回避し、凄まじい剣幕で威嚇を行うビフロンス。しかしその内心は実のところ、動揺と恐怖によって平静を保てずにいた。


「が、がぅ……がぁぁっ!」


「ですが、笑えますねぇ。ちょっと引っかかったフリをすれば、調子に乗って姿を現してくれやがるなんて」


 そう、エリゴスは全て見抜いていた。

 だからこそあえてビフロンスの思惑に乗り、案内役のエルフを救出するところも見過ごしたのだ。

 彼女が自分の作戦が上手くいったと安堵し、油断するこの瞬間を狙う為に。


「不完全な幻影ですよ、全く。見てくれだけで、気配も匂いも感触すらも無い幻影如き……ちょっと目を瞑れば、簡単に嘘だと分かっちまいますから」


「うがぁぁぁっ!!」

 

「だから、無駄だと言っているのが分からねぇんですか?」


 窮地に立たされたビフロンスは、大量の木々の幻影を生み出し……自分の姿を覆い隠そうとする。

 だが、エリゴスはそんな幻影などまるで眼中に無いといった様子で……まっすぐにビフロンスが身を隠そうとした茂みへと斬撃を飛ばす。


「ぐがぁっ!?」


「一度アナタの気配を覚えちまえば、後はずっとそれを追い続けるだけでいい。視界にしか作用しない不完全な能力では……私は倒せねぇですよ!!」


 一、二、三回と。

 無慈悲にも振るわれる剣撃が、容赦なくビフロンスの肌を斬りつける。

 それを回避しようと、ビフロンスも懸命に様々な幻影を繰り出そうとするも……そのことごとくが、エリゴスには通じない。


「が、うぅ……がぅ……」


「伯爵クラスのてめぇが、公爵クラスの私に勝てるとでも?」


 傷だらけになり、息も絶え絶えに丸くなるビフロンスの腹部を――エリゴスはまるでボールのように蹴り飛ばす。


「がっ!?」


「はぁ……エルフ共に手を貸している他の仲間を聞き出そうにも、まともに喋れねぇてめぇじゃ役に立たねぇですし」


 血を吐きながら、苦痛にのたうち回るビフロンス。

 そんな彼女を冷たい瞳で見下ろしながら――エリゴスは淡々と喋り続ける。


「使えねぇカスばかりとはいえ、てめぇのせいで多くの兵が幻影に惑わされて森の外に連れ出されちまいました」


「がふっ、げふっ、がっ、はぁ……っ!!」


 苦しむビフロンスの首筋に、そっと添えられる剣先。

 彼女は涙の滲む瞳で、剣の持ち主であるエリゴスを見上げる。


「……もうここで、死んじまいやがれです」


「がぅ……」


 彼女は悟った。

 自分はもうここで、死んでしまうのだと


「あ、ぅ……がう、がぁ……」


「命乞いですか? それなら、最期の言葉として……聞いてあげましょう」


 窮地に立たされたビフロンスは、ふと思う。

 こんな事なら、あの人と契約を結んでおけばよかったと。


「がぅぅ……ぁぁ」


 いつか自分とも契約を交わしてみせると意気込んでいた彼は……自分が死ねば、きっと悲しむに違いない。

 いや、彼だけではない。

 一番の親友である魔神も、これまでずっと共にソロモン王の帰還を待ち続けた同士達も……最近新たに増えた、賑やかで騒がしい仲間達も。


「う、うぅ……こと……さ……」


 ようやく、昔の楽しかった頃のユーディリアが戻ってきたのに。

 あの人がユーディリアを、自分の周りを明るく変えてくれたというのに。

 朧げになる意識の中で、そう思いながら……ビフロンスは魔神装具の力を用いて一つの幻影を生み出した。


「ぷっ、くくく……なんですかそれ? 最期の最期に、もはやこの世に存在しない男の幻影を生み出すなんて」


「がうぁ、み………うぁ、と……がぅ、ま……」


 ビフロンスが最後の気力を振り絞って生み出した幻影を見て、心底おかしそうに笑うエリゴス。

 しかしビフロンスは、もはやエリゴスなど眼中に無かった。

 せめて死ぬ前に、彼の笑っている顔を見たかった。

 そして何より、今まで一度もできなかった事を……幻影相手にでも、果たしたかったのだ。


「みこ、と……さ、ま……」


「は?」


「ミコト、様……!」


 何度も、何度も。

 ぎこちない発音で、自分が作り出した幻影に……呼びかけるビフロンス。


「ミコト様? 何を言っているのか分からねぇですけど……もう、十分ですね」


 幻影で作り出した男の名前を呼ぶビフロンス。幻影は変わらず、生み出された時のまま……明るい笑顔でビフロンスを見下ろしている。

 そんな彼の優しい表情が、ビフロンスは大好きだった。

 

「とっとと、あの世に行きやがれですっ!!」


「ミコト様ぁっ!!」


 終わりの時。

 エリゴスがトドメの一撃をビフロンスへと振り下ろす瞬間、彼女は必死に……大声で彼の名を呼んだ。

 本人には決して届く筈が無い、悲痛な叫び。

 それでもビフロンスは信じていた。

 たとえそれが、万に一つの可能性であったとしても、藁にも縋る思いで――彼女は彼の名を口にしたのだ。


「なっ!?」


「…………がう?」


 もしかすると、この奇跡は――その純粋でひたむきな思いが、呼び寄せたのかもしれない。


「が、がぁ……が、がぅぅぅ……!!」


 涙で歪んだ視界の先には、幻影で生み出した男の姿が二つ映っている。

 片方は先程と変わらず、優しい微笑みを携えたまま。

 そして、残るもう一つは――


「ありがとう、フロン。やっと……俺の名前、呼んでくれたな」


 エリゴスが振り下ろした剣を素手で受け止め、普段からは想像も付かないような凛々しい表情で……ビフロンスを庇うようにして立っている。


「が、がぅぅぅっ!!」


「遅れて悪かった!! 今からお前を、助けるぞ!!」


 男の名前は、根来尊。

 彼は幻影でも、幻覚でもなく本物の――

 

「がぅっ!! ミコト様っ!!」


 彼女にとっての、救世主であった。

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