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この手をずっと離さない

「また、水族館行ってもいいですか?」


 それは、結ばれた朝のこと。

 まだ布団の中で、眠気と幸福の余韻に包まれていた俺を、菜緒さんの声がそっと撫でた。


 柔らかくて、甘くて、でもどこか子どもみたいに遠慮がちで。

 俺は、そんな声を胸に抱きしめるようにして答えた。


「もちろん」


 あの日の水族館は、ふたりにとって最初の、そして最後の“ただの友人”としての思い出だった。

 もう一度行くなら、今度は“恋人”として、彼女の手を握って——そう願っていたから。



 そして今日。

 約束通り、俺たちは再び水族館にやってきた。繋いだ手のぬくもりが、確かに“今”を教えてくれる。


 ふわふわと風に揺れる白いワンピース。細い足首に優しく馴染むサンダル。小ぶりのバッグにいつものペンギンのキーホルダー。

 なんで俺の彼女は、こんなにも可愛いんだろう。


 横を歩く彼女を見てると、ついそんなことばかり考えてしまう。

 真面目に考えれば考えるほど、馬鹿みたいに顔が緩む。


「ひつじさん」


 不意に呼びかけられて、立ち止まる。


 ……それ、どっちの俺?


「さぁ、どっちでしょー?」



 少しイタズラっぽく笑う菜緒さんに、苦笑いで返しながら、つい口を尖らせる。


「ってかさ、四宮のことは“セイくん”呼びだよね……」


「だって、セイくん以外の呼び方、知らないし——」


 拗ねたフリをしてみせたけど、そんな俺を見て笑う彼女が、たまらなく愛しい。

 そんな俺の腕をそっと取って、ぎゅっと絡めてきた彼女が言った。


「早く行こ! ペンギンショー、見たいな。……智士くん」


 ……名前を呼ばれただけで、こんなに心が跳ねるなんて。

 やっぱり、俺はこの人に、もう抗えない。


 菜緒さんが笑って、俺の隣にいてくれる——

 それだけで、世界が満たされていく気がする。




 帰りの電車は、あの時と同じく満員だった。

 だけど、まるで違う。今度は俺の隣に、彼女がいる。


 自然に彼女の背中に手を添え、人混みから守るように立っていた。

 たぶん無意識だったけど、それができる“立場”になったことが、ただ嬉しかった。


 すると、俺の手元でそっと動きがあった。


 菜緒さんが、ふわっと笑って、小さく背伸びした。俺の耳元に口を寄せる。


「……ありがとう」


 ——ああ。


 その顔。


 忘れられるわけがない。

 ずっと、心に焼きついてる。


 あの日、名前も知らなかった彼女。

 一目で俺の胸を鷲掴みにして、虜にしてしまったあの微笑みとまったく同じだった。


 手をつなぐことも、肩を寄せ合うことも、何もかもが自然になった今。


 それでも、菜緒さんのその笑顔は、俺の心をまた確かに震わせる。


(……こんな日が、ずっと続けばいい)


 そう、心の中で願いながら——

 俺は、彼女の手を、もう一度ぎゅっと握り直した。


 世界で一番、大切な人の手を。

読んでいただき、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
失礼します。 ようやく拝読できました。 とても爽やかな、気持ちの良くなる読後感でした。飲み物を飲んで、あ~いいよねこれ、みたいな感覚です。 少年漫画のような純粋さと、もどかしさと、温かさ。世界って、捨…
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