羊とチンチラ(2)
翌日。
様子を見るためにそっと寝室に行くと、菜緒さんの呼吸は昨日より楽そうだった。表情も、穏やかに見える。
(よかった。目が覚めたら、何か食べられるかな)
少し安心して、部屋を出ようとした時、床に置かれていた彼女のバッグに足を引っかけてしまい、その中身が床に飛び出した。
「わっ、悪い……」
慌てて散らばった中身を戻そうと手を伸ばした。ポーチ、財布、ハンカチ、そして——タブレット。手に取った瞬間、スリープが解除され、画面が点いた。
目に入った画面には、あのチンチラのぬいぐるみが壁紙として映っていた。
リボンがつけられ、可愛くデコレーションされたチンチラ。彼女がぬいぐるみにリボンを結んで、カメラを向ける姿を思い浮かべて、思わず笑みがこぼれる。
そこへ浮かぶ、通知のポップアップに目がいく。
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(——……え?)
それを見た瞬間、まさか、という言葉が頭の中で回り始めた。現実感のないその情報に思考が追いつかない。
そのとき、ベッドの上の菜緒さんが目を覚ました。
「ん……、あれ……日辻……さん? え? 日辻さん? ……ここ、どこ……? なんで……?」
混乱して思わず起き上がる彼女。不安そうに周りと俺を交互に見る。昨日、倒れたことはよく覚えてないようだった。簡単に状況を説明する。
「俺、たまたま昨日、その場に遭遇して。拓実くんから家のこととかの事情は聞いたよ。とにかく休んでもらいたくて、俺の家、連れてきたんだ。勝手なことして、ごめん」
嘘は言っていない、と思う。『たまたま』だったのかは疑問が残るが、あの場にいられてよかったとすら思っている。好きな人があんな状態でいるの、放っておくことなんて、できない。
菜緒さんは俺の話を聞くと「そうだったんですね。ありがとうございます」と頭を下げた。そして小さく「あれは本当に日辻さんだったんだ…」と呟いた。
ふと、俺が今、彼女のタブレットを手にしていることに気づいてハッとした。
「あ…、それ……私の……?」
「あぁ、ごめん。カバン、引っかかってぶちまけちゃってさ」
そう応えると、一瞬フリーズしたあと、恐る恐る尋ねてきた。
「あの……もしかして、通知…見ちゃいました……よね?」
「……見ました」
「見ちゃいましたかぁ……」
二つ折りになって布団に顔をうずめた彼女は首まで真っ赤になっている。その姿を可愛いな、と思うと同時に、ふっと何かが頭をよぎった。
(あの動物園のとき、チンチラを見て、彼女はなんて言った?)
「『話には聞いてたけど』、ほんと、可愛い」
そう、確かにそう言った。
……“誰”の話だ?
チンチラの話を、誰から聞いてたって?
そのときは深く考えなかった。けど、今ならわかる。
羊、だ。
配信で話した記憶がある。
「チンチラって、めっちゃくちゃ可愛いんすよ!」
そう言った俺の言葉を、彼女は聞いていた。
リスナーとして、あの時すでに。
あの頃から、彼女は俺の声を、受け取ってくれていたんだ。
ずっと前から届いてたんだ。
言葉も、声も、感情も。
俺が誰かに届けようとしていたものが。
誰よりも彼女に届いていた。
胸の奥がじわっと熱くなった。何かがそっとほどけるような、そんな感覚だった。
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