どうしていつも、この声が(Side;菜緒)
仮眠室生活も、もう五日目に入った。
日辻さんのことを考えないように、私は毎日、目の回るような忙しさに身を投じていた。
業務の合間には、わざとややこしいケースを引き受け、終業後も同僚の急な欠勤をカバーしていた。
「どうせ病院にいるんで」と笑ってはみせたが、本当は空っぽな時間が怖かった。
友人の夏美は心配して自分の家にくるよう言ってくれたが、彼女は実家暮らしだ。さすがに迷惑がかかる。
毎日、体力を使い果たして、夜は気絶するように眠った。彼のことを思い出さないように。
考えたくなかった。優しい声も、あの温かな眼差しも。思い出せば思い出すほど、自分の中に沁み込んできて、もう戻れない気がしてしまうから。
その朝、鏡を見た瞬間に自分の顔色にギョッとした。青白い肌、目の下の隈。頭はガンガン痛む。
なだめるように鎮痛剤を飲み、厚めに化粧を施した。
「大丈夫、大丈夫。あと少しで家の工事も終わるし、今日はやり切ろう」
午前中は気力で乗り切った。患者の検温、清拭、点滴の管理、手術の準備……。身体は怠かったが、手が覚えている作業をただ無心で繰り返す。
しかし、昼過ぎから異変は明確になった。身体中に重りをつけているような感覚。明らかに熱がある。息苦しさに思わずふらつき、壁に手をついたところを、師長に見つかってしまった。
「すぐ診てもらって。だめよ、そんな体で働いちゃ」
医師からの診察結果は、過労。そのまま点滴を受けることになった。少し楽になった頃、師長がやってきて言った。
「いいから、三日間はしっかり休みなさい。病院にも来ちゃだめ」
素直に頷いたが、すぐに現実的な問題にぶつかった。
さすがにこの体調で仮眠室にはいられない。でも実家は遠いし、拓実は寮暮らし。他の友人に頼るのも気が引けた。せめてビジネスホテルにでも泊まって、眠ってしまえば回復するだろう。その頃には、家の工事も終わっているはずだ。そう考えた。
力の入らない身体をなんとか叱咤し、荷物をまとめた。病院のエントランスを出たとき、後ろから馴染みのある声に呼び止められた。
「姉ちゃん、大丈夫? 熱あるって聞いて……!」
拓実が心配そうに駆け寄ってくる。
「大げさだなぁ、大丈夫。ホテル取って休むから」
本当は話すのもしんどい。でも、弟には心配をかけたくなかった。わざと明るい声を出す。
「じゃあ、せめてホテルまで送るよ」
「今夜当直でしょ? あんたの準備が先——」
そう言って一歩踏み出した瞬間、全身の力が抜けて視界がぐらりと傾いた。
まるで、足元から崩れ落ちていくような感覚。
(あ、やばいかも)
そう思った、その瞬間。
「菜緒さん!」
声が、聞こえた。
低くて、穏やかで、どこまでも優しい。耳の奥まで届いて、心を揺らす声。
——あぁ、どうしていつもこの声なんだろう。
私がつらい時やしんどい時、困った時はいつもこの声が聞こえる。
「ひつじ……さん……」
その名前を呟いて、私の意識は、ゆっくりと遠のいていった。
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