第37話 胸がドキドキ
夢でも見ているのかと思った。
奈良原時雨から、これほどまでに優しい歌が聴こえてくるとは僕には思えなかったから。
「……どう、かな……?」
時雨は歌い終えると、少し不安げに僕の方を見る。
僕は率直に感想を述べた。
「……見違えるようだった。凄く良いと思う」
「本当? だったら嬉しいなあ」
時雨はいつもより5割増ぐらいではにかんだ。
彼女のこの表情を独占している僕は、そろそろ本当に断罪されても仕方がないのかもしれない。
「タイトルも変えようかなって思ってるんだけど、いいかな?」
「良いと思うよ。時雨の曲なんだし、時雨の思うままにタイトルをつければいいと思う」
「……じゃあ、『our song』ってのはどうかな」
それはすなわち、『僕らのうた』と直訳できる。
僕はシンプルながらそのタイトルにびっくりした。
1周目では奈良原時雨の歌詞の中に、一人称複数の代名詞が使われることは1度もなかったから。
彼女はここにきて、仲間というものを強く意識するようになったのだ。
2周目の時雨は、1周目とはまた違う方向に進化している。
そう感じざるを得なかった。
「……賛成。というか、もうそれしかない感じがする」
「よかった……。実は理沙にもお風呂のときに相談してOKを貰ったんだけど、融にだけ違うって言われたらどうしようかと思ってた」
時雨は胸を撫でおろす。
静まり返ったスタジオの中に、小さく「ふぅ……」というため息の音だけが流れた。
「この歌はね、融のおかげで完成したんだ。多分、私ひとりじゃ一生未完成のままだったと思う」
「僕のおかげだなんてそんな……」
「あの日、軽音楽部室のドアを開けて融が飛び込んで来なかったら、私は一人のままだったんだもん。もしかしたら、学校だって辞めてどこかに消えていったかもしれない」
その先のストーリーを僕は知っている。
君は一度シンデレラガールとなって世に知れ渡るけれど、結局悲劇の最期を迎えてしまうんだ。
今となってみれば僕はただ単に悲しい未来を避けたい一心だったのだけど、こんな風に時雨に想われるようになるとはさすがに思っていなかった。
自分のひとつひとつの行動が、人をこれほどまでに動かす。
感慨深いような、むず痒いような、変な気持ちだ。
「まるで未来から来たヒーローみたいだった。私のこと、なんかお見通しって感じで」
「そ、そんなことないよ。……た、ただの偶然だよ」
まるで心臓を素手で握られたかと思うような時雨の発言に、僕は人生で一番ドキッとした。
「ふふっ……、冗談冗談。そうだったら面白いなと思っただけ」
その面白いと思っていることが、まさに目の前で起きているんだよ。とは言わない。
僕がタイムリープしてきたことを時雨に打ち明けることはおそらく無い。理由は自分でもよく分からないけど、言ってしまったらそこで何かが終わってしまうような、そんな気がした。
「……そろそろ部屋に戻ろっか。もう2時になるし」
「そ、そうだな。明日もバンド漬けだし、ちゃんと寝ないと体力持たないから」
僕がそう言うと、椅子に座っていた時雨は立ち上がろうとする。すると、不意に彼女はバランスを崩してしまった。
多分、もう時雨はかなり疲れていたのだろうと思う。慣れない遠出をし、長時間のバンド練習、そして夜ふかしまで。
そんな倒れそうになった彼女の身体を、僕はとっさに抱きかかえた。いや、どちらかというと抱きしめたと言ってもいい。
「だ、大丈夫!?」
「……う、うん」
不可抗力とはいえ、時雨の細い身体を抱きしめてしまったことに僕はドキドキしてしまった。
さっき時雨に確信めいたことを言われたのもあって、余計にその鼓動はやかましくなっている。BPMで言ったら130くらいだろうか。
この心音を時雨に聴かれるのが、なんとも恥ずかしい。
「……融、ドキドキしてるね」
「ご、ごめん……、びっくりしたもんだから」
「なんか……、ううん、なんでもない」
時雨は何か言いたげだったけど、その先のことは言わなかった。
今まで僕は時雨のことを、『推し』とか『ファン』だとか、バンドを組むようになってからは『仲間』だというように思ってきた。
でも今、僕の心の奥底から、それとは別のとある感情が沸き立ちそうになる。
なんだよ、この気持ちは。
その気持ちはバンドをやる上で、絶対に仲間に対して抱いてはいけないと教わってきた、そんな気持ちに似ていた気がする。
……駄目だ駄目だ、この感情に気づいてはいけない。
今はまだ、心の奥底に押し殺しておかないと。
僕は深呼吸をして、抱きしめていた時雨を離す。
彼女のふらつきは治まったようなので、僕らは何もなかったかのようにスタジオを出て部屋に戻った。
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ちなみにサブタイトルの元ネタはザ・ハイロウズの『胸がドキドキ』です
カッコいいのでぜひ聴いてみてください




