第36話 月光少年
「ぷはー! この一杯がたまらないんだよなー!」
「おかえり、湯加減どうだった?」
「なかなか悪くないぞ。しかもほとんど貸し切りだ」
大浴場から帰ってきた理沙がビン牛乳を飲み干してそう言う。多分彼女はあと数年したら、そのビン牛乳が銀色のヤツに変わっているに違いない。
ちなみに時雨はフルーツ牛乳をちびちびと飲んでいる。こっちは数年後、甘い缶チューハイを同じようにちびちび飲んでいそうだ。
合宿所に到着後は即座にバンド練習漬けだった。
オリジナル曲やコピー曲を練習したり、それを録音して聴き返したり。はたまた、よくわからないセッションが始まって収集がつかなくなったり。
このバンドを組んで以降、こんなに長い時間練習したのは初めてだった。気がつけば夕食の時刻になっていて、食べ終えるやいなや今日の汗を流しに女性陣2人は大浴場へ向かったわけだ。
彼女達が部屋に帰ってきたので、入れ替わるように僕が大浴場へと向かう。
部屋の鍵がひとつしかないので、こうやってかわりばんこに部屋を出るのが1番合理的だ。それに湯上がりの女子達は僕に見られたくないようなケアをしなきゃいけないこともあるだろうし、僕もひとりになりたくなる時間帯だからちょうどいい。
理沙の言うとおり風呂の湯加減は最高で、他の客もいなくて貸し切り状態。
朝から晩までずっとドラムを叩きっぱなしだったこともあって、その疲労が湯へ溶け出していくかのような気持ち良さだった。こんな入浴が毎日出来るならば、ずっと合宿をしていたい気分だ。
「あと2日……、か」
僕は誰もいない大浴場で、なおかつ誰にも聞こえない声量でつぶやいた。
バンド演奏の完成度を高める時間はたくさんある。でも、いざステージに立ったとき、時雨にトラウマの恐怖に立ち向かえる自信みたいなものが身につくには、いくら時間があっても足りない。
どうやったら僕は時雨を支えてあげられるだろうか、そんな事を考えていたら少しのぼせてしまったようだ。
湯冷ましに時間がかかったおかげで、部屋に戻ったときには2人とも寝息を立てていた。
明日もバンド漬けだ。僕も早いところ寝て体力回復するとしよう。
◆
深夜1時を回ったぐらいだろうか、僕はふと目が覚めてしまった。
ばかに月明かりが僕の枕元に差し込むせいだろうか、不思議と自然に覚醒してしまったみたいだ。
水を一杯飲んでもう一度床につこう。そう思って部屋を出ようとしたら、時雨の姿がないことに気がついた。
彼女の布団は抜け殻のようになっていて、おまけにギターの入っているギグバッグもない。
もしかしてと思い、僕は練習スタジオの方へ足を伸ばした。すると静まり返ったスタジオエリアから、エレキギターのシャカシャカした生音と、澄んだ声の歌が聴こえてくる。
間違いない、時雨だ。
寝付けないので練習でもしているのだろうか。
でも彼女の歌っているその歌には聴き覚えがない。奈良原時雨のアルバムを聴き尽くしたオタクの僕ですら、今時雨が歌っているメロディに心当たりがなかった。
僕は気になって仕方がなくなって、その歌の聴こえてくる練習室の防音扉を開けた。中にはやっぱり時雨がひとりギターを弾きながら歌っている。
服装は寝間着のまま。
僕個人の勝手なイメージで、時雨はパステルカラーでもこもこした感じのルームウェアを着ていると思っていたのだけど、実際に着ているのは普通のジャージだった。
「と……、融……!? どうしたのこんな時間に」
「いや、なんだか目が覚めちゃってさ。そしたら時雨が布団にいないからここかなと思って」
まさかこんな夜中に来訪者が訪れるなんて思っていなかったのか、時雨は結構な驚きようだった。
「時雨は何をしていたの?」
「ええっと……、歌詞を考え直そうかなと思ってたらちょっと別に曲が浮かんできちゃって」
「そうだったのか。ごめんね、なんだかお邪魔しちゃって」
「い、いいのいいの。とりあえずメロディは録音出来たし、この曲はまた後で仕上げるから」
時雨の手元には録音アプリが起動しているスマホがあった。彼女はメロディ先行で曲を書くらしく、この録音データをもとに曲を仕上げていくらしい。
さすがに週末のライブには間に合わないだろうから、コンテスト出場が決まったときまでこの曲のことは棚上げだろう。
「歌詞の方はどう?」
「ええっと……、これでいいのかなってちょっと悩んでる。よかったら融、ちょっと聴いてくれないかな?」
「もちろん」
時雨はオリジナル曲『時雨』を歌いはじめた。
彼女いわくまだタイトルも確定しておらず、とりあえず今は『時雨』という仮タイトルでバンド内でも通している。
彼女の歌う『時雨』は、僕が1周目で擦り切れるほど聴いた『時雨』とは全くの別物になっていた。
本来の『時雨』は、奈良原時雨自身の孤独感や疎外感を冷たい雨のように歌い上げたもの。
でも、今のこの歌は違う。
メロディこそほとんど変わらないが、例えるならそれは仲間との絆を示すような、優しい恵みの雨。
包み込むような歌を歌う、僕の知らない奈良原時雨がそこにはいた。
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ちなみにサブタイトルの元ネタはランクヘッドの『月光少』です
カッコいいのでぜひ聴いてみてください




