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第12章(15) 女王

 [全因果否定(オールネゲート)]はすべての物理法則を否定するスクリプトだ。

 それを食らって、レジィナに何が起きたのか。ハードウェアの消滅を知覚したか――それとも、電気信号である意識が瞬時に消滅したのか。

 どちらにしても、電子的意識としての存在を維持できなくなり、彼女は消えてしまった。


 苦しくはなかっただろう、と信じたい。

 「何も感じない」とレジィナ自身が言っていた。その中には苦痛も含まれる。



 レジィナを見送って、かっきり十秒後。俺の体に異変が現れた。


 全身が急に重くなった。腕と脚が一斉に筋肉痛を主張し始めた。

 あり得ないほどの悪臭を知覚した。動物どもがたむろする公園で嗅ぐ臭いを、何百倍も強烈にしたようなやつだ。異臭は物理的な痛みをもって、鋭く鼻腔を刺す。

 おそろしい寒さが、俺の全身を包み込んだ。冷気という名の衣服をまとったかのようだ。体じゅうが凍りつき、こわばる。


 そして――目の前が完全な黒に塗りつぶされた。


 何も見えない。すぐ鼻先に暗幕が下りたかのように、視界は分厚い黒に閉ざされている。

 それだけじゃない。[仮想野(スパイムビュー)]に常時表示されている周辺情報も、すべて消えてしまった。


 自分の立ち位置の緯度経度標高も、地形情報も、温度湿度も、施設概要も、周囲三十メートル以内に存在する人間の個別データも、何一つわからない。

 外界とのつながりを突然断ち切られ、俺は裸で戸外に立っているような頼りなさを覚えた。


「ティリー! ティリー、どこにいる!?」


 俺の叫びに答えて、「アリス!」というかぼそい叫びが、すぐ近くで聞こえた。


 俺は声の方角へおそるおそる手を伸ばした。何も()()()()ということが、これほど心もとないとは。指先に子供の体が触れ、心底ほっとした。

 冷えきった小さな手が、俺の手にからみついてきた。

 俺たちはしっかりと手を握り合った。


「おーい、アリス」


 ハクトの声が聞こえた。何かを腹に秘めているような、ためらいがちな発声だ。


「おまえ……何か異常あらへんか? [仮想野(スパイムビュー)]に何か変なもん映ってへんか?」

「それを訊くってことは、おまえにも異常が起きてるのか」

「今『おまえ()()』って言うたか?」

「[仮想野(スパイムビュー)]の機能が停止してる。俺の[補助大脳皮質(エクスパンション)]にエラーが発生したのかと思ってたが……おまえにも同じ症状が出てるなら、原因は個人的なもんじゃねえな」


 少し沈黙があった。


「まさか。電脳ネットワークそのものが、停止しとるんか? レジィナと一緒に、[ダイモン]の自我も……[ダイモン]全体が消滅してしもたってことか? 全世界で?」


 ハクトが愕然としたように叫んだ。


 俺は試しに、スクリプトを発動させてみようとした――激しい頭痛がいつの間にか消えていたからだ。だが脳内は妙に()()()としていて手ごたえがない。そもそも[仮想野(スパイムビュー)]に標的が映っていない状態ではスクリプトを組み上げられない。


「そうらしいな。もう、いがみ合ってる場合じゃねえぞ、ハクト。スクリプトが使えなくなってる」

「マジで? ……うわっ、ほんまや。どないしよ!?」




 人類は[ダイモン]によって制御されてきた。[ダイモン]は人間を環境に合わせることで、人間の快適な暮らしを実現してきた。

 [ダイモン]のおかげで、俺たちは明暗も寒暖も、極端な騒音や悪臭も、知覚せずに生きてこられた。

 また、[ダイモン]は人間の体内にも作用し、免疫力や代謝を最適な状態に保ってきた。


 それが一切合切消え失せた結果が、これだ。


 俺たちが生きている場所は、本当はこんなにも臭く、耐えがたいほど寒い場所だった。[ダイモン]が俺たちの知覚を制御して、不快さを感じさせないようにしていただけなのだ。

 体が急に重く感じられるのは、[ダイモン]による体力の底上げがなくなったせいだ。


 そして――視野を塗りつぶす、この黒。これがいわゆる「闇」というやつか。


 視神経からの入力を自動的に増幅してくれる[ダイモン]が消滅した今。俺たちは、十分な光がなければ、物を見ることができない。太陽が昇らない限り、視界は回復しない。


 それにしても、初めて体験するこの「闇」というやつは、思った以上に圧倒的だ。視界を奪われただけで、足を前へ踏み出す力が奪われてしまう。なすすべもなくその場に立ち尽くすしかできない。


 俺は、握りしめたティリーの手を感じながら、ただ立ち呆けていた。

 何をすべきか、どう動くべきか、皆目見当がつかない。

 もし本当に[ダイモン]が完全消滅したのなら――この世界は、おしまいだ。すべての科学技術、すべての社会構造が一瞬で消えてしまった。待ち受けるのは混沌。地獄のような混沌だ。

 世界中のあらゆる場所で湧き起こる、全人類の絶望の叫びが聞こえるようだ。


 そのとき。

 暗闇の中に、光が現れた。


 俺は見上げた。神を仰ぐ信仰者のように。


 ハクトの手の中に小さな炎があった。儀式で使う蝋燭に火をともすために、説法師や教父はライターを携帯していることが多い。それがこんなときに役立ったのだ。

 ちらちらと頼りない炎ではあったが、それでも驚くほどの広範囲が、うすぼんやりと照らし出されていた。

 はるか上にあるように感じられる穴の淵の輪郭。そこに取りついているハクトの姿。斜面のそこかしこに転がる死体。


 炎はすぐに雨に負けた。世界は再び闇に閉ざされ、「くそっ、消えてしもた!」というハクトの叫びが響いた。




 ――[ダイモン]が消えて初めて、俺は闇というものの威力を知った。

 闇を知って初めて、俺は光のありがたさを知った。




 今ちらりと照らし出された光景。その記憶があれば十分だ。

 たとえ何も見えなくても。たとえ、斜面までの正確な距離、斜面の勾配と材質、転がる死体の数と位置が[仮想野(スパイムビュー)]に表示されていなくても。斜面までたどり着いて登ることぐらいはできる。


 たとえ世界が終わっても。俺たちはまだ生きている。これからも生き続けなくてはならない。

 いつまでもこんな所に突っ立って、雨に打たれ続けているわけにはいかないのだ。ティリーに風邪をひかせちまう。

 さっさとこの穴から出て、屋根のある場所へ移動する。それが手始めだ。


 俺はティリーを背負い、穴を出るために歩き始めた。

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