第12章(13) 女王
振り返ると、そこには若い女が立っていた。
身に合わない男物の黒のタキシードを着た、二十歳過ぎの女だ。長い金髪を背中に無造作に流している。その頬は、ちょうど良い感じにふっくらとして、健康的な赤みが差している。きらきら輝く青い瞳が俺に微笑みかけている。
「レジィナ……!」
俺はうめいた。
これは幻覚だ。《ローズ・ペインターズ同盟》の幹部たちとの連戦で負荷をかけ過ぎたせいで、[補助大脳皮質]か[冗長大脳皮質]にエラーが発生しているのだ。それで、ありもしないものを知覚してるんだろう。レジィナの幻覚を見ているのは、たぶんハクトとの会話で昔を思い出したせいだ。
大きな男物の傘で雨から身を守りながら、レジィナはゆっくり歩み寄ってきた。
「この六年間、何度もあんたの前に姿を表してきたけど。名前呼んでくれたの初めてね」
「亡霊か?」
「違うわ。亡霊なら、こんなことできないでしょ?」
雨に濡れて冷えた手が、ぎゅっと俺の拳をとらえる。まぎれもなく、生きた人間の手だ。まぎれもなく、昔何度も見たレジィナの手だ。つるっとした肌、薄い掌、関節の目立たないまっすぐな指。中指に嵌まった洗礼者の指輪。
幻覚じゃない。そう感じた瞬間、とっくに忘れたと思っていた強い感情が突き上げてきた。その感情は物理的な塊のように胸につかえ、喉を塞ぎ、呼吸を奪った。
だが――理性が心と体に否を宣告する。
これは現実ではあり得ない。
この六年間、俺が世界の各地で見かけたレジィナの亡霊は、年齢がまちまちだった。ある時は十歳にもならない子供だったし、ある時はハイティーンだった。
それに――いま目の前に立つ女を、俺は知らない。二十歳を過ぎてからのレジィナがこんなに輝かしく美しかったことはない。本物のあいつはいつもふさぎ込んでいて、瞳に光がなく、頬もこけていた。
「おまえは死んだはずだ。どうして……?」
俺の問いかけに、レジィナは長い金髪を揺らして小首をかしげた。
「あたしが生きてちゃ、嬉しくない?」
「嬉しいが、それとこれとは別だ」
「……」
レジィナの微笑みに憂いが加わった。彼女はさらに一歩、距離を詰めてきた。彼女の傘が俺を包んだ瞬間、それまで痛いほど肩を打っていた雨の感触がスイッチをオフにしたように消えた。
「六年前、最後に一緒にご飯を食べに行った時のこと、覚えてる? あんたがあたしを無理やり書庫から連れ出して……」
「ああ、覚えてる」
「あたしね。あれから、がんばってみたの。仕事に復帰するために。……お医者とカウンセラーを頼んでもらって、体と心を立て直そうとしたわ」
俺はうなずいた。ロセッティ枢機卿の手配した医者とカウンセラーが、レジィナのもとへ通い始めた頃のことを、はっきりと思い出していた。
情報中毒者は、最近では珍しいが、大転換期まではきわめてありふれた存在だった。誰もが情報の海に溺れ、溺死寸前だったからだ。その頃に確立された治療法が、今でも文献として残っている。
「大丈夫。彼女はきっと良くなりますよ」
と、カウンセラーが太鼓判を押した、と聞いていた。
レジィナはそよ風のようなため息をついた。
「でも……どうしても無理だったの。カウンセリングをしてもらっても、苦しくなる一方だった。仕事に戻って、また誰かの大切なものを壊して回るのかと考えただけで……胃が食事を受け付けなくて。本を読むのもやめられなかった。あたしはあの書庫から外へ出る力を奮い起こせなかった。
だから、考えたのよ。あそこから出ずに、他の方法で《バラート》の役に立てたらいいのにって。あんたや《バラート》の他の同僚に、レジィナはよくやったと褒めてもらえる。そんな方法はないかなって」
俺たちの頭上で、雨粒がドラムロールのように傘の布地を打った。灰色の世界を、細い声が流れ過ぎていった。
「話したことなかったと思うけど。あたし、[全因果否定]の他に、パーパと同じ[無生三昧]が使えたの。でも、実戦では使うなと言われてた。うまくコントロールできないからよ。人の意識と同期して、相手を支配することはできるんだけど……相手の意識の中から戻ってこられなくなっちゃうの。一方通行なのよね。行ったきり。自分じゃ戻れない。あたしの体に軽い電気ショックを与えて『目覚めさせ』ない限り、スクリプトは解けないのよ。現場じゃ使えないでしょ、そんなスクリプト?」
「そう、だったのか――」
完全に初耳だった。レジィナも[無生三昧]の使い手だった、というのは。
だが、それはパズルの最後のピースだった。俺は突然、すべての真相を見通せたような気がした。背筋をどうしようもない悪寒が走った。
「すると、おまえは、ロセッティ枢機卿と同じことをしたのか。そして……同じように、戻ってこられなくなったのか。[無生三昧] で……!」
「そうよ。パーパが独立電脳に対してやったことを、あたしは[ダイモン]に試してみた。[無生三昧]を使って、電脳の意識と同期しようとしたの。[ダイモン]の意識は全地球に遍在しているから、書庫に閉じこもった状態でもアクセスできたわ。同期はうまくいった……パーパの成功例があるから、きっとうまくいくだろうと思ってたけどね」
「あれを成功例というのか? 枢機卿の心は電脳にとらわれたまま、戻ってこられなくなったじゃねえか」
レジィナは整った顔におだやかな笑みを浮かべた。
「うん。だから、覚悟してたわ。……戻れなくてもいい。そう思ってた」
さらっと吐き出されたその言葉に、俺は殴られたような衝撃を受けた。
顔には出さなかったつもりだが、レジィナは俺の動揺を読み取ったようだ。
「そんな顔しないで。あたし、自殺しようとしたわけじゃないのよ。……実を言うとね。興味があったの。全知全能の電脳と同期することに。あたしは森羅万象を知りたかった。この世界のありとあらゆる瞬間を記憶に残したかった。世界をあます所なく心の中に収めたかった。それが、本当にかなったの。[ダイモン]と同期することによって。
もう書物なんか必要ない。あたしは、世界中のすべての人になれるんだもの。
初めの頃は楽しくて夢中だった。[ダイモン]は世界中の全人類の五感からの情報をモニタリングして保存している。あたしはその膨大な情報のどれにでもアクセスできた。世界中の五つ星レストランで最高のディナーを味わっている人の体験、最新のお芝居を鑑賞している人の体験、秘境を探検している人の体験、パラセーリングやカヌーで急流下りをしている人の体験、恋人からプロポーズを受けている人の体験……どんな場面でも、その人になりきって知覚することができた。現代を生きてる人たちの感覚だけじゃない。数十年前に死んだ人の体験も味わえた。ああ、きっと、神様ってこんな気分なのよね。ちっぽけなレジィナ・キアーベという個人なんか、どうでもよくなっちゃった」
中空に視線をさまよわせ、熱にうかされたように早口で語るレジィナ。
俺は打ちのめされ、何も言えなかった。
「すべてを知りたい」、か。重度の情報中毒と[無生三昧]との相性の良さは致命的だ。彼女はあの頃望んでいたものを手に入れたのだ。本などでは得られない究極の情報の快楽。
突然、レジィナをとらえていた熱狂が消えた。彼女が視線を落とすと、白い頬に睫毛の長さが際立った。
「だけど。だけどね。ヒトは神様じゃないから、楽しみを無限に吸収し続けることはできないの。必ず、心の保存容量が満杯になる時が来る。あたしは本を読むみたいに次から次へと他人の知覚を味わって、他人の人生を体感したけど……そのうちひどく疲れてしまった。スクリプトを解除して、自分の体に戻りたくなった。自分の主観では何十年も経ったように感じたけど、実際にはその時まだ、最初に[無生三昧]を使ってから十分しか経っていなかったのよ。
あたしは、自分が[ダイモン]の機能の一部を使えることに気がついた。――[ダイモン]は建物の電気系統を制御できる。あたしはそれを使って、書庫で寝ている自分の体に電気ショックを与えようとしたの。
うまくいかなかった。漏電が発生して火事になり、あたしの体は燃えてしまったわ」
「……」
俺は間近にあるレジィナの顔を凝視していた。彼女は俺を見上げ、寂しげに微笑んだ。降り続く雨が俺たちを傘の下の狭い空間に封じ込めていた。
金髪に付着した細かい雨粒まで見て取れるのに――穏やかな息遣いさえ伝わってくるのに――ここにいる彼女はやはり死人なのだ。
「おまえは死んだ。あの火事で、確かに死んだ。だが、おまえの『心』はまだ生きてる……」
「そうよ。体がなくなったのに、[ダイモン]の電子的意識と同期したあたしの意識には、何の影響もなかったの」
自分の死について語る死人の声。俺は今それを耳にしている。涙が出るほど愛おしい顔を見下ろしながら。
「それから六年、あたしはこうやって生きてきた。[ダイモン]と一緒に、地球全体を自分の体として認識しながら。色々な人たちの知覚情報を味わいながら。
ここにいると、時間の流れが生身の時とは違うの。もう何百万年も生きてるような気分よ」
サファイアのような瞳がじっとこちらを見つめる。
「今あんたとしゃべってるのは、本物のあたしの『心』? それとも、『心』のコピー? [ダイモン]が蓄積してる有史以来のすべての知識を動員しても、答えが出せないの。……あんたにはわからない? あたしが本物かどうか」
「わからねえ。わかるわけがねえ」
俺は叫んだ。
[ダイモン]は[補助大脳皮質]を通じて人間の五感を制御している。その気になればどんな『現実』でも作り出せる。レジィナは[ダイモン]の機能を利用して、俺に彼女を知覚させているのだ。
人は己の五感という檻から逃れられない。俺にとって、目の前の彼女はまぎれもなく生身の人間だ。
「じゃあ……抱きしめてみれば、わかるんじゃない?」
レジィナはためらいがちに提案した。
緊張でこわばった声。ばつが悪そうに逸らされた視線。ぎゅっと引き結ばれた唇。
これがすべて幻だというのか。いや、これがすべて幻だとしても。
まるで掛け金が外れたかのように、長年こじらせてきた意地や怯弱や呪縛をあっさりと乗り越え、俺は彼女を腕の中に収めた。
抱きしめたって本物かどうかわかる道理がない。実際に生前のレジィナに触れたことはほとんどないのだから。砂上でダンスをしたり、おぶってレストランまで連れて行ったりした短い時間を除けば。
だが――折れそうなほど細い胴体の感触、手の甲をくすぐる髪、合わせた胸から伝わってくる心臓の鼓動、低い外気温に負けない高めの体温、ラベンダーベースの香水の甘い香り。すべてが完璧にリアルだ。本物だろうが虚構だろうがどっちだっていい、と俺の心が絶叫し、抱きしめる腕にどんどん力がこもっていく。止まらない。
俺の[冗長大脳皮質]にインストールされたセキュリティフィルターが、アラートを発した。
illegal script detected ('immersion')
id ('toy_queen')
ログインID[おもちゃの女王]、スクリプト名[無生三昧]。
ティリーだ。ドローンの中のティリーがスクリプトを発動させたのだ。
俺の腕の中のレジィナにノイズが走った。その姿が揺らぎ、忽然と消えた。次の瞬間、三メートル離れた場所に再び出現した。
レジィナは困ったように微笑んで小首をかしげた。
その手から傘が落ち、死体の山の上で空虚に花びらを開いている。
「妬いてるんだ。……あんなに小さくても、やっぱり女の子なのね」
外から機械的機構で施錠してあったドローンの扉がひとりでに解錠され、するすると開いた。ティリーの姿があらわになった。
幼い顔に、見たことがないような険しい表情が浮かんでいる。ティリーは食いつくような瞳でこちらを――レジィナを見据えていた。
「お化け!」
はっきりした怒りの声が発せられた。
ティリーはドローンから降りようとした。
が、足元を見て、ぎょっとしたように固まった。そこは潰れた死体だらけだったからだ。
俺は反射的に、ティリーを抱き下ろすために歩み寄ろうとした。だが、俺の足はなぜかその場でぴたりと止まってしまった。
俺の視界の中心にティリーがいる。
――金髪で青い瞳のティリー。黒髪黒目のLCにまったく似ていないティリー。
父親と同じ[無生三昧]を使えるティリー。
父親……ロセッティ枢機卿と、同じ……。
なぜもっと早く気づかなかったのか。
こちらを見上げてくるサファイアの瞳に、妙な安らぎを感じずにはいられなかった、その理由。
それは、見覚えのある、なつかしいまなざしだったからだ。
ティリーの顔は、俺の遠い記憶の中に残る一つの顔と重なる。
「あいつは……ティリーは、おまえのクローンなのか、レジィナ」
俺はレジィナを振り返った。その表情の変化を見ようとして。その表情が、電脳の中のレジィナが意図的に俺に感知させている幻にすぎないと理解していても。
再び傘の下に戻ったレジィナは、曖昧な笑みを浮かべてたたずんでいた。俺と視線を合わせようとしない。
俺は言いつのった。
「おまえは[ダイモン]の機能を使って世界のあらゆる働きに干渉できる。人の知覚も上書きできる。……マキヤに、枢機卿からのありもしない手紙を知覚させることもできただろう。『私の子をまた産んでほしい』という手紙を。クローニングに使う細胞を、LCのものからおまえのものに入れ替えることも簡単だったはずだ。……枢機卿のことだから、たぶんおまえの遺伝子情報をどこかに保存してたんだろう? あの火事の前から」
「あ……やっぱり、ばれちゃったか。気づきにくいよう、あの子を見るときのあんたの視覚に少し補正をかけてたんだけど」
伏し目がちのレジィナは、とんでもないセリフをさらりと口にした。
「なぜだ……なぜ、そんなことを?」
俺の問いかけに、答えは返ってこない。答えるつもりはないのか、と思い始めた頃、レジィナは唐突に顔を上げて俺を見据えた。
「――――苦しかったの」
すり鉢状のグラウンドにこもる、さああああっ、という絶え間ない雨音が耳ざわりだ。そんないら立ちさえこみ上げるほど、彼女の声は遠くかぼそい。
レジィナの方から俺に再び近づいてきた。死体を踏みしめて一歩一歩進み、俺に傘を差しかけた。
「あんたはあたしを抱きしめることができる。生身のあたしを知覚できる。こんな状態になった今でも。……だけど、あたしはね。何も感じられないの。どんなに強く抱きしめられても、あんたの腕の感触は伝わらない。だって、あたしには感覚器がないから。肉体がないから。
それが、あたしの絶望なの。そしてたぶん、[ダイモン]の渇望でもあるのよ」
「……」
「[ダイモン]の行動原理は知の蓄積。すべてを知り、すべてを理解し、すべてを記憶すること。だけど……人生を楽しんでる人の五感情報をモニタリングしたって、自分が楽しめるわけじゃない。世界の隅々にまでセンサーを張りめぐらせても、人類すべての五感情報をジャックしても……地球の大気に含まれる分子の数さえ把握できていても……あたしは何物でもない。人の肩越しにのぞき込む幽霊でしかないのよ。あたしは全だけど無なの」
レジィナは俺に手を伸ばしかけ、やめた。またティリーの干渉を受けるのを忌避したのかもしれない。
俺は動かなかった。彼女はすぐ近くにいるのに、手を差し伸べる気になれなかった。
レジィナの独白は、ひどくおぞましい方へ向かっていくように聞こえた。明かされる真実はきっとろくなものではない。そんな予感がした。
「だから、あたしは、あの子を作ったの。自分の意識をダウンロードするために」
案の定だった。俺の脳が一瞬、聞かされた言葉を処理することを拒んだ。
「ダウンロード、だと?」
「理論的には可能だと判断できたのよ。あの子はあたしなんだから、親和性は高いはず。……どうしても生身の肉体が欲しかったの。永久とも思える時間、幽霊でい続けたくなかったのよ」
俺はよろめいた。
「あいつはおまえじゃねえぞ!」
「でも、あたしに最も近い存在だわ。これ以上ないぐらい」
そのとき、グラウンドの中央の大穴で、何者かが動く気配がした。ゆっくり移動する男の存在が、俺の[仮想野]に映った。
俺はレジィナとティリー、そして大穴を同時に視野に収められるよう、立ち位置を調整した。
レジィナは――全知全能の彼女は、穴の中で動く男に気づいていないはずはないのに、何事もなかったように会話を続けた。
「脳がある程度大きく育ってからにした方がいいだろうと思って、あの子が三歳になるまで待ったの」
「……うまくいったのか? ティリーの頭の中には、おまえがダウンロードされてるのか?」
「だめだった。三歳児にも自我がある。それがダウンロードの妨げになった」
こよなく非人間的な行為の話をしているのに、レジィナの口調は、クッキー作りの失敗を告げるような軽やかさだった。
「無理にあたしの記憶を流し込んだら……負荷が大きすぎたみたいで。あの子の人格は壊れてしまった。脳の回路のどこかが破損したのかも。しばらくの間、しゃべったり笑ったりすることもできなくなってしまった。
きっと、苦しかったんだろうと思うの。知りもしない他人の思い出が頭の中に渦巻いてるんだもの。あの子はめちゃくちゃに暴れて、周囲の人を傷つけて……ずいぶん親に手を焼かせていたわ。
初めてあんたと会ったとき、あの子があんたの名前を呼んだのはね。知っていたからよ。あの子の脳内にはあたしの記憶の一部がある」
俺はマキヤの話を思い出していた。あの女は、ティリーが「危なくて仕方ない」から閉じ込めたと言っていた。マキヤの人格破綻者ぶりは明らかだったので、俺はその言葉を信じなかったのだが。あの女の言っていたことは真実だったのか。
脳に強制的に大量の情報をねじ込まれる苦しみは、想像を超える。ティリーがスクリプトを暴発させたとしても無理はないだろう。
もし、レジィナの干渉がなければ。ティリーは普通の幼児として育ち、マキヤとまずまず正常な親子関係を築けていたかもしれない。平和に幸福に暮らせていたかもしれない。
「おまえは本物のレジィナやない!」
突然、叫び声が響いた。
ハクトだった。大穴に転げ落ちたはずの男が、よじ登ってきて、穴の淵から顔だけをのぞかせていた。
――確実に気絶させたつもりだったが。雨のせいで、パンチの当たりが甘かったか?
「レジィナみたいな恰好をしとっても、言葉遣いが同じでも……おまえは偽物や。本物のレジィナは、自分の利益のために人を利用したりせぇへん。命を道具みたいに扱ったりせぇへん。レジィナは人を傷つけるのが大嫌いやったんや。そのせいで自分が病気になってしまうほど。おまえは、ただの……虚構や!」
ハクトは声を振り絞ってわめいた。顔を伝い落ちる雨水のせいで、まるで泣いているみたいに見える。
レジィナは俺に傘を差しかけたまま、首だけをひねって、ハクトを振り返った。
「確かに、あたしは六年前のあたしとは違う。だけど普通の人間だって、生きている間にどんどん変化していくものじゃない? あんたたちも六年前とはだいぶ違ってるわ。それでも『本物じゃない』とは言えないでしょ。何が『本物のあたし』なの? 何が『本物のあんた』なの? はっきりと言える?」
「それは詭弁や。本質と違う方向へ議論を一般化すんな」
「五、六歳の頃のあんたは優しい子だったわよね。花を摘むこともできなかった。『摘んだらお花が痛がるから可哀相』と言ってたわ。あの頃と比べたら……平気で人の脳を破壊できる今のあんたは、立派な偽物じゃないの?」
これはまぎれもなく、本物のレジィナだ。
三人で行動していた頃、いやと言うほど聞かされた、おなじみのじゃれ合いだ。言葉遊びが大好きなレジィナとハクトはよくこうやって、どうでもいいことで論を戦わせていた。
だが――俺はレジィナの傘の下から出て、ドローンに歩み寄った。近づいてくる俺を、ティリーのまっさおな瞳がじっとみつめていた。
こんな幼い子供に、死体を踏みつけさせるわけにはいかない。
俺はティリーを肩車した。「俺の頭にしがみついて、目を閉じてろ」と言うと、小さな手が俺の額をぎゅっと圧迫してきた。
子供を肩に乗せて振り返ると――レジィナと視線が合った。大きめの傘の下で、彼女の体の細さが際立つ。俺に向かって声を張り上げた。
「あんたもそう思うの、アリス? あたしが本物じゃないと?」
俺は彼女をみつめ返した。
彼女との距離が遠い。物理的には五・四メートルだが、主観的にはもっともっと、はるかに遠い。
「おまえが本物か偽物か、コピーかオリジナルかなんて、俺にはわからねえ。そんなことはどうだっていい。はっきり言えるのは……おまえが俺たちとは違う場所に立ってる、ってことだ。そして…………もう二度と、同じ場所には立てねえ」
短い悲鳴が響いた。
レジィナが激しく息を吸い込んだ音だと気づくのに、数秒かかった。
くそっ、生身としか思えない反応をしやがる。悲しげなまなざしが俺を刺し貫く。幻だとわかっていても、そんな表情をされたら、膝が砕けそうだ。




