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第12章(12) 女王

「前に『おまえがレジィナを忘れへん限り、俺はおまえを見逃す』と言ったが。あれは半分ぐらいしか本当(ほんま)やない」


 ハクトの言葉を耳にした途端、俺は氷の手で心臓をわしづかみにされたような気がした。今の状況の危険さをただちに実感したのだ。

 黒ずんだ広大な空間の中で、白ずくめの長身の男が、やけにぽつんと突っ立っているように見える。


 ハクトの独白に似たつぶやきが、雨音を越えて届いてきた。


「俺も迷ってるんや。この五年半、ずっと迷ってた。

 レジィナの魂の安楽を願いたい気持ちは今も変わらへん。せやけど、何年経っても俺の心を解放してくれへんレジィナを、うらめしく思う気持ちもある。嫉妬心みたいなもんもある。『嫉妬はあかん』と神さんは言うてはるけど、俺も人間やからな。

 ただの片想いなら、『いつか俺を振り向かせたる』とがんばれるけど……他の男を好きなまま死んでった()なんか、一体どうしたらええねん」


 ハクトは小首をかしげ、ほろ苦く笑った。


「だから、ときどき思てたんや。さっさとおまえの記憶吹っ飛ばして、過去にケリつけて、未来へ向かって歩き始めたらすっきりするんちゃうか、って。永久手配のおまえを仕留めたら、ついでに昇進もゲットできて、言うことなしや。

 今、おまえは[泡沫夢幻(オブリビオン)]を限定(クオリファイ)できへん。こんなチャンスは二度とない。……神さんが俺の背中を押してるんかな、と思てな……」


 今や叩きつけるような勢いで降りしきる雨の中、俺たちは立ち、互いの顔から視線を外せずにいた。


 昔、これと似たような情景があったことを思い出した。六年前の十一月十一日の朝。《バラート》の寮の離れが火事になり、その焼け跡からレジィナらしい遺体が発見されたと告げられたときのことだ。

 ざあざあ降りの雨の中、俺たちは打ちのめされ、立ち呆けていた。


 焼け跡のそばで、ハクトと俺は奇妙に離れて立っていた。

 俺たちは幼い頃からずっと一緒に育った親友で、大事な仲間を失ったばかりだったが――どういうわけか、()()()()()()()()()()()()()()()()()、という強い反発力が働いていた。「信じられない」とか「残念だった」とか「あの娘も可哀想に」とか。そんなありふれたセリフを聞かされたら、その口に拳をねじ込んでしまいそうだ。

 たぶんハクトも似たような気持ちだったんだろう。お互いに、ひとことも口をきかなかった。


 あれから六年か。

 あの日の朝は、今の己と連続性があるとは信じられないほど、はるかに遠い。

 だが同時に、ほんの昨日のことのようにも感じられる。


「――その『他の男』ってのは俺のことか? 誤解だぞ、それは。レジィナと俺とはそんなのじゃなかった……!」


 俺が言い終わらないうちに、ハクトが顔色を変えた。珍しく怒りをあらわにして俺を睨みつける。


「鈍いのも、そこまでいくと罪やぞ? それとも、本当(ほんま)はわかってて、とぼけてるだけか? おまえのそういう態度が、レジィナをどれだけ悲しませてたか……!」

「俺は……!」


 なぜか、言葉が喉の奥で詰まった。これまで何年も、誰に対して何を保とうとしてきたのか、自分でもわからなくなった。周囲には、何一つ取り繕うこともかなわなくなった十数万人の人々が転がっている。死者の無言の圧力。


 前髪から垂れ落ちる雨水が目に入ってわずらわしかったので、払いのけた。

 その拍子に、意外なほどあっけなく、内心が勝手に転がり出た。


「昔から感じてた。おまえとレジィナは相思相愛の……似合いの二人だと。レジィナも、おまえと話す時の方が楽しそうだった。ガキの頃からだ。だから俺は……あいつを女として見ないと決めた。でないと、顔を合わせ続けるのがつらかった。ただの友達、ただの同僚。そう割り切ってれば楽だった」

「おまえ、意外と腰抜けやな? いつも偉そうなこと言うてるくせに、勝負もせんうちに身を引いたんか。一度でもええ。なんでレジィナに正面から気持ちをぶつけへんかったんや」


 ハクトが声に嘲りをはっきりとにじませて叫ぶ。俺は即座に叫び返した。


「そのセリフは、そっくりそのまま返してやる。おまえはいつも、物欲しそうな(つら)してレジィナの隣に立ってるだけで、手さえ握ったことなかっただろう? なんで、あいつをしっかりつかまえなかった? あいつはおまえの手の届くところにいたのに」


 ハクトの表情が曇った。奴は水滴を飛ばしながら、うなだれた。


「そんなこと……できるわけないやろ? 俺はずっと一番近くでレジィナを見てた。だから、嫌でもわかった。あの娘が誰を見てるのか。……あんな横顔見せられたら、手なんか出せへんわ」


 声に勢いがなくなっていく。


 口論は膠着した。俺が腰抜けなら、ハクトも腰抜けだ。長年封じ込めてきた感情を互いに初めて口に出したが、不毛な真実を確認しただけで終わった。

 だがいずれにしても、もう遅すぎる。あの頃には戻れない。失ったものを取り返すこともできない。俺たちが()()()()()だった頃から、長い時間が過ぎてしまったのだ。


 雨に打たれながら、俺たちは、感情に流されて己の弱さをぶちまけてしまったことを恥じた。

 自制心がゆるんだのは――世界の果てのような、この荒廃した場面のせいか。


「俺をカッカさせるより、泣き落としでも試した方がよかったんと違うんか、アリス」


 戦闘モードに戻ったハクトが顔を上げ、のんきな口調でジャブを打ってきた。

 そうだ、これは真剣勝負だ。最初の一撃ファースト・ストライクで勝敗が決まる。


「必要ねえ。おまえが[泡沫夢幻(オブリビオン)]を使うより先に、おまえを殴り倒せば済むことだ」


 俺ものんびりと応じた。


 俺たちは、仕掛けるタイミングを計りながらリングを回るボクサーのように、油断なく対峙した。


「いくら何でも、それは無理やろ。どんなに運動神経の良い人間でも、思考より速く動けるはずがない」

「試してみるか?」


 ――俺は、近くにいる[工作員]がスクリプトを使おうとしたら、その()()を感じ取れる。それは俺に固有の能力だ。スクリプトの発動を事前に察知できるから、タイミング良く限定(クオリファイ)できる。

 だが、ハクトが[泡沫夢幻]を使おうとしているのを察知してから殴りかかったのでは遅すぎる。奴の言う通りだ。脳から手足の筋肉に攻撃の信号が届くまで数十ミリ秒。実際に手足が動いてハクトに攻撃が当たるまで、さらに数百ミリ秒。スクリプトの発動はそれよりはるかに速い。


 だから、勝つためには、ハクトがスクリプトを使おうとし始める前にぶっ飛ばさなければならない。


 ハクトはベテランだが、それでも人を()()()と決意したらさすがに多少は緊張するだろう。

 奴の微妙な精神状態の変化を、この距離で読み取れればいいんだが。


「……実を言うとな。俺はおまえの攻撃パターンが予測できる。長いつき合いやからな。相手との距離や位置関係によって、おまえが選びがちな攻撃は、ちゃーんとデータとして頭に入っとるんや。……最初の一発で俺を倒せへんかったら、おまえの負けやで」


 明らかに内心を読ませないためのわざとらしい笑顔で、ハクトが牽制してきた。


 牽制が必要だとこいつが考えているということは――こいつは自分の優位を確信できていない。俺の先制攻撃を警戒している。俺が動くのを見てから脳内でスクリプトを組んだのでは、後れをとるかもしれないと危惧しているわけか。


「心理戦のつもりか? 俺に攻撃を迷わせたいのか?」


 俺は握った拳をハクトの方へ突き出してみせた。


「右アッパーだ。予告しといてやる。嘘は言わねえ」

「……」

「それがわかってたって、おまえの反射神経じゃよけられねえだろ?」


 ハクトは神妙な面持ちで俺の拳をみつめ、やがて、笑みを広げた。その白い顔を何筋もの水が伝い落ちていった。


「クイズや。虎使いの男と葬列が、小舟に乗って川を渡ろうとしています。虎使いは人食い虎を連れています。葬列は、三人の男が一つの棺桶をかつぎ、それに死人の妻がついてきてます。小舟には一度に二人乗れます。虎も棺桶も一人分としてカウントします。

 虎は、虎使いと一緒にいない限り、人を全員食べます。棺桶を小舟に積んだり降ろしたりするには、三人の男手が必要です。……」


 ――このクイズは、「無言で睨み合っているよりはまし」程度の意義しか持たない。

 俺たちは全身の神経を張りつめて対峙し、相手が隙を見せるのを待っている。隙を突かない限り勝てないからだ。ほんの一瞬の集中力の断絶、心の揺らぎ。それさえあれば攻撃できる。


 ハクトはあまり気を入れずにしゃべっているし、俺も半分以上は聞き流している。


「雨が降っていて、川が増水してきました。向こう岸まで往復するのもあと三回が限界です。

 さて問題です。全員が向こう岸へ渡り終えることはできるでしょうか?」


 出題が終わるが早いか、俺は「簡単だ」と即答していた。ハクトは眉をひそめた。


「え、ホンマか? 虎を殺せばええ、っちゅうのは無しやぞ? あと『泳いで渡る』ってのも」

「虎は殺さねえ。二往復半で全員川を渡れる」

「……どうやって?」

「まず、棺桶を小舟に積み込む。それから、棺桶の蓋を開けて、棺桶をかついできた三人の男が中へ入る。一つの棺桶に四人入るのはきついが、蓋さえ閉めようとしなきゃ問題ねえだろう。で、小舟の空いたスペースに女が乗って、向こう岸まで船を漕いでいく。向こう岸で全員降りたら、次は誰でもいいから一人が船を漕いで元の岸に戻り……」

「待て待て待て! そんな答え、あるかい! みんなで棺桶に入ったらあかんやろ。罰当たりな」


 呆れたように大声を張り上げながらも、ハクトは余裕がある。集中力は保たれており、隙はない。


 が、次の瞬間。

 ハクトの形相が劇的に変わった。眼球がこぼれ落ちそうなほど見開かれた。ぽかんと口が開いた。最高の驚きの表情だ。その間抜け面で、俺の肩越しに、後ろにある()()を凝視している。


 意外と演技派だな、こいつ。本当に驚いているようにしか見えない。

 だが、いくら何でもその手は古すぎるだろう。引っかかった俺が後ろを振り返ると、本気で期待してるのか?


 演技に気をもっていかれたのか、ハクトの精神的なガードが完全に下がった。隙だらけだ。


 俺はすかさず踏み出し、右の拳で奴の顎を打ち抜いた。

 脳震盪必至の一発が決まった。ハクトは、爆弾でできた穴の中に仰向けに転げ落ちた。




「答えは、『できない』でしょ?」


 俺の背後で声が響いた。なつかしい、澄んだ声が。


「『みんなが渡り終えるには何往復すればいいでしょう?』じゃなくて、『みんなで渡り終えることができますか?』というクイズだもんね。だから、答えは『できない』」


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