第12章(10) 女王
「雨が降りそうやな」
夜空を見上げ、ハクトが気の抜けた口調でつぶやいた。
俺は答えなかった。気合いと怒りの力で進み続けているものの、本当はうずくまりたいほどの激しい頭痛に苛まれていた。空を見上げるために頭を動かしたりしたら、吐くかもしれない。痛みは頭蓋内でけたたましく自己主張を続けている。
周囲には通行人が多かった。クリケット・グラウンドの異常事態をテレビで見て、洗脳されていない市民が野次馬として集まり始めていた。
グラウンドの各ゲートの前で群れを成し、安全圏から何とか中の様子をかいま見ようとしている。駅や商業施設からグラウンドの二階ゲートに直結している歩道橋でも、大勢の人が流れている。
「おまえ、これからどうすんのか、考えとるんか?」
陰にこもったようなハクトの声が響いた。
俺は、歩く速度が遅いハクトを、若干のいら立ちと共に見やった。本来なら病院まで駆けて行きたいのだが、頭痛がひど過ぎて走れそうにない。それだけでももどかしいのに、この男はのんびりおしゃべりをしようというのか。
「……考える必要なんかあるか? やるべきことは明々白々だろう」
「スナークっていうおっさんをタコ殴りにして、ティリーちゃんを取り返す。まあ、そこまではええわ。問題はその先や。おまえはスナークを止めるつもりか?」
「どういう意味だ」
俺の問いかけに、ハクトは答えようとせず、視線をそらした。
しばらく経ってから、
「あー、やっぱりええわ。忘れてくれ」
「途中でやめんなよ。言いたいことがあるならはっきり言え」
そう言いながらも、俺も本気でおしゃべりを続行したかったわけではない。病院の建物の角を回り込むと、夜間通用口が視界に入ってきた。その扉にはシャッターは下りていなかった。ただ、扉を守るように、二人の大男がさりげなさを装ってたたずんでいた。
二人ともバッジはつけていない。だが、俺は[料理番]の目を通して見たから間違いない。こいつらはクラブの幹部だ。
「……奴らは敵だ」
「了・解。唐辛子の特大サービスを食らわせたるわ」
立ち止まったハクトをその場に残し、俺は男たちに近づいた。
絶妙のタイミングでハクトの[茶菓山積]が発動した。
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俺を追い越した深紅の奔流が二人組の顔面に激しくぶつかった。《VIVA☆カプサイシン》の唐辛子粉末が、男たちの目や鼻の粘膜を襲う。
二人が体を二つに折り、顔をかきむしって苦しみ始めたちょうどそのとき、俺は奴らを攻撃できる間合いに入った。――絶妙のタイミングというのは、そういうことだ。
俺は男たちのみぞおちに三発ずつ入れて、地べたに這いつくばらせた。
殺さないよう十分気をつけて、ただし重大なダメージを与える力加減で、奴らの顔面を蹴りつけた。
《バラート》のセオリーに従って、無力化した男たちから銃を取り上げた後、通用口の扉を押してみた。施錠されておらず、スムーズに開く。よし、順調だ。さっそく病院内へ踏み込もうとして、俺はハクトの奴が元の場所から一歩も動いていないことに気がついた。
何やってんだ、と振り返ると、ハクトは空を見上げていた。
「アリス! あれ見てみぃ!」
ただならぬ様子で頭上を指さしている。
俺は歯を食いしばって頭痛をこらえながら、ハクトの指さす方向を目で追った。
分厚い雲に覆われた空を、円形に配置された六つのプロペラにぶら下がった銀色の機体が横切っていく。病院の緊急搬送用ドローンだ。
ドローンは、コルカタ・クリケット・グラウンドの外壁の向こうへ消えていった。
クリケット・グラウンドの四番ゲートは破壊され、チケットを持たない者でも自由に出入りできる状態になっている。ゲートの中ではすでに、物見高い野次馬どもが屋内通路にひしめいていた。あちこちの壁に張られた〈コートボール〉のカラフルな宣伝ポスターが、今となっては空しい。
俺は人込みを荒っぽくかき分けて通路を進んだ。
どこかで吐いた奴がいるのか。刺すような吐瀉物の臭いが、進むにつれて強くなる。
不意に、視界が開けた。
俺は突然、クリケット・グラウンドの一階観客席の中腹部に立っていた。
直径百七十メートルの卵型のピッチが、遮るものなく眼前に広がっていた。原色に塗り分けられた真新しい観客席は四階建てで、すり鉢状にそびえ立ち、広々したピッチをぐるりと取り巻いている。
巨大施設のスケール感は圧巻だった。
ひどく破壊され、血と煤で汚された今となっても。
観客席はグラウンドへ向けて急勾配で下っている。座席にも通路にも、ぼろきれのようになった人体が転がっていた。この空間を埋めていた超満員の観客が一斉に立ち上がってグラウンドへ殺到したとき、押し倒された人々の死体だ。無数の靴に踏みにじられ、どの死体も顔はぐちゃぐちゃだ。服は破れ、折れた手足が奇妙な方向にねじ曲がっている。搾り出された柑橘類の果汁のように、たっぷりと流れ出した血液が、硬い材質の座席の上を這い、したたり落ちている。
だが、死体をよけて歩くスペースがあるだけ、観客席はましだった。低いフェンスを越えた先、数時間前まで美しい芝生が広がっていたはずのグラウンドには、さらに地獄的な光景が展開していた。
広大な敷地に、直径百二十メートルほどの穴が開いている。爆発で抉り取られてできた、歪な形状の穴だ。穴の縁には死体が山と積み上がっていた。足の踏み場もなく、どこもかしこも死体だらけだった。こんなにもたくさん死体があると、感覚が錯覚を起こし、それが「人」であるとは思えなくなってくる。もはやカラフルな土嚢にしか見えない。
土嚢は穴の周りを縁取っているだけでなく、底へ向かって傾斜している穴の側壁もびっしり埋め尽くしていた。側壁は、土がむき出しになっているはずだが、土嚢のせいで茶色はほとんど見えない。
どれだけの人がここで命を落としたのか。
信仰を知らない人間は、惨事を目にすると、「本当に神が存在しているなら、こんなにひどいことが起こるはずはない」などと口にする。
しかし、それは人間という卑小な生き物の視点でしかない。神は惨事を容認する。神のルールは、人間のものとはまるで異なっているのだ。
神の目から見て必要だと判断されれば、惨事は起きる。
神は個々の人間の苦しみ、悲しみを救わない。
それがわかっていても。
突然抗いようもなくすべてを奪われ、無残な肉塊となって地べたに転がる何万人もの人々を目の当たりにすると。
そりゃあねえだろう、と神を呪いたくなる。
神よ、あんたはこれを止めることができたんじゃねえのか?
スナークの人海戦術は功を奏したらしい。上空には一機のドローンも見当たらない。
データセンターを守るため、地中から雲霞のごとく大量に飛び立った迎撃ドローンは、あり得ないほどの大群衆に迎え撃たれ、一機残らず姿を消していた。
しかし、その戦いは相打ちで終わったようだ。
人間側の被害も甚大だった。見渡す限り死人しかない。壮麗な施設に、もの言わぬ者たちがひしめいている。
場内で動いているのは、観客席を横切っている何人かの野次馬(報道関係者かもしれないが)。そして、グラウンドの穴のへりに立つスナークとクラブの幹部たち。それだけだった。
病院の屋上から飛び立った緊急搬送用ドローンが、穴の縁にきわどく着地していた。
ドローンの重みで、その下にある死体が押しつぶされ、脳漿や内臓をはみ出させている。スナークも三人の手下も死体を踏みつけて立っている。
奴らは何か口論をしている様子だった。生きている者のほとんどいない巨大なすり鉢の底で、スナークたちの声はよく響いた。
「いなかった? そんなはずはないでしょう。部屋を間違えたんじゃないですか?」
スナークの叱責は、いら立ちのためひどく尖っている。
それに対するクラブの幹部たちの返事は、ぼそぼそしており聞き取りにくい。
「間違えてません。ちゃんと会議室へ行きました」
「ストレッチャーも置いてありました」
「でも、誰もいませんでした」
スナークは「ああ、もう」と叫び出さんばかりに両腕を振った。
「《♠7》ですね、きっと……あの女が逃がしたんだ。あの裏切者を会議室へ行かせたのは失敗でした。教団に弓を引きかねない女だと、前からわかっていたのに」
緊張感のない姿勢でたたずんでいる子分たちに、スナークは檄を飛ばした。
「彼を探しに行きなさい。今すぐ。ついさっきまで、あの会議室にいたんだ。遠くへ逃げたはずはない。……彼がいないと、計画はすべて台無しになるんですよ、この土壇場で。彼が、電脳へ達するための鍵なのです。必ず見つけ出さなくては」
「えーっと……顔写真か何か、もらえますかね。どんな男なんです?」
「てめえらが探してるのは、俺か?」
俺が声をかけると、スナークは文字通り飛び上がった。
クラブの幹部たちもこちらを振り返った。若者、初老の男、少年という三人組だ。若者と初老の男は、振り返りながら、自然な動作で銃を抜き始めている。
二人が銃を構えた瞬間、ハクトが[茶菓山積]を発動させた。茶色の奔流――五百粒のキャラメル――が二十五メートルの距離を一秒未満で移動。途中で半液体状のキャラメルシートに変わり、男たちの銃を包み込んだ。
男たちは罵声を発しながらキャラメルシートを剥がそうと努めるが、再び固形化したキャラメルが、銃とそれを握る手をがっちりと封じ込めらている。撃つことは不可能だ。
敵がうろたえている間に、俺は敵との距離を一気に詰めた。観客席の階段を駆け下り、低いフェンスを乗り越え、ピッチに飛び降りた。
着地したのは死体の上だった。
靴ごしに伝わってくる人の背中や頭の感触はあまりにおぞましく、心がくじけそうになる。本能が、死者を踏みつけることを猛烈に嫌悪する。
しかし、ピッチには隙間なく人体が積み上がっており、避けて歩くことは不可能だ。
(悪ぃ。今だけちょっと勘弁してくれ。あとで必ず供養するから)
心の中で死者たちに詫び、俺はやわらかい足場の上をダッシュした。
まだ泡を食っている若者の鼻を殴りつける。次いで、「やめて! 僕は関係ない!」と懸命にわめき立てている少年のみぞおちを蹴り飛ばす([料理番]の目を通してホテルで見たとき、こいつの落ち着き払った物腰は素人とは思えなかった。念のためにぶちのめしておくにこしたことはない)。そして、初老の男の頬骨に肘打ちを食らわせる。
踏み込んだ足が死人たちの隙間にずるりと埋まり込んだせいで、肘打ちに必殺の勢いを込めることができなかった。打撃が弱い。初老の男はこたえた風も見せない。男の丸い眼が魚のようにまばたきせず俺を見据える。
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id ('happy_zombie')
「仮想野]を横切るアラートを目にしたときには、すでに敵のスクリプト[破調賛歌]が発動していた。強烈な高音が錐のように鋭く鼓膜を貫く。掌で耳をふさいでも音の暴力から逃れることはできない。
脳をひっかき回されるようなキーンという音のせいで、ハクトが集中できなくなったらしい。[茶菓山積]の効果が切れ、男たちの手を固めていたキャラメルが消えた。
頭がおかしくなりそうな大音声の中、二つの銃口が近い位置から俺を睨みつけていた。敵は二人ともはっきりした殺意をみなぎらせていた。特に、若い方の男は憎しみで形相を歪めている。俺が殴ったせいで、顔の下半分が鼻血で覆われている。今にも引き金を引きそうだ。
普段なら、武装した敵が何人いようと問題ではないが。
[収納自在]を使えない今の状況は、かなりまずい。




