第12章(5) 女王
それを目にしたときの最初の反応は、自分の上腹部に――肝臓のある辺りに手を当てることだった。そんなことをしても無意味なのだが。
誰の肝臓だ? ライデンのか、それとも俺のか。
今のところ体内に痛みも、違和感すらもない。
違和感があるのは、むしろ目の前の光景の方だ。
俺のスクリプトの作用で、サーフェリーの右腕の長さは七分の一に縮んでいる。体積も筋肉量も、元の三四三分の一だ。一方、肝臓の重さは一キログラムを超える。サーフェリーが縮んだ右腕で肝臓を掲げているのは、通常の状態であれば、四百キログラム前後の物体を片手で持ち上げているのに相当する。
「……あんたのスクリプトはまだ未完成だ。そこにはまだ肝臓はない」
ほんのわずかな反応も見逃さないよう、ギャングの親玉に視線を当てながら、俺は推測を声に出した。
「おそらくターゲットがその肝臓の幻を受け取った瞬間に、スクリプトが完全に発動して、肝臓が体外に取り出されるんだな。違うか?」
これまで、《♠6》とグリニング・タイガーがこのスクリプトで殺られるところを見てきたが。
二人とも肝臓を手にとった途端に吐血し、苦しみ始めた。つまり、そこが効果の始期だ。
サーフェリーは歯を剥き出して笑った。
「はっ。頭を働かせたつもりかよ。……てめえの言う通り、確かにこいつは未完成だが、もう開始している。原理がわかったところで止められねえぜ」
「…………返してもらいましょうか。それは俺のものだ……」
ライデンがふらふらとサーフェリーに向かって歩き始めた。
敵のスクリプトのターゲットはやはりこいつだったようだ。
俺はとっさに、後ろからその襟首をつかんで止めようとした。
「てめえ、俺の言ったこと聞いてたか? あれを受け取ったら死ぬぞ」
だが俺はそのセリフを半分も言うことができなかった。
顔面に爆弾が落ちたような衝撃。続いて、一斉に湧き起こる苦痛の大合唱。
我に返ると、床に座り込んでいた。鼻血が出ている感覚がある。
ライデンの奴にぶん殴られたのだ。
「邪魔はさせませんよ。あれは、俺のものだ……俺の大切なものだ。俺はあれを取り戻さなければならない。何があっても」
そう言い放つライデンの目には、何かに取りつかれたような熱が漲っている。
このくそったれめ。見殺しにしてやろうか。
ライデンは基本的に俺の敵だ。こいつさえいなくなれば、俺は《バラート》からの追手を気にせず、ティリーを連れて姿をくらませる。
――だが、死にかけている相手を救わないのは、死へ向かって相手の背中を押すのと同値だ。それを、俺の倫理観が許してくれない。幼い頃に植えつけられたガイナント伝道教会の教義が、まだ心にこびりついているせいだ。
ライデンに殴られた衝撃で俺の[収納自在]が解けたため、手足の長さを取り戻したサーフェリーが身を起こし始めている。ギャングどもも立ち上がり、「ティリーを部屋から連れ出す」という最初のメグの命令を遂行するためベッドへ向かい始めている。
サーフェリーに歩み寄ったライデンが、桃色の肉塊に手を差し伸べた。その指が今にも届きそうだ。
俺は[収納自在]を再発動。効果範囲内の全員の右腕と左脚を縮めた。
サーフェリーとギャングどもが再び倒れる。
ライデンは仰向けに倒れながら、その勢いを利用して床で後転し、無事な右脚で俺を狙ってきやがった。
[収納自在]を食らわせた相手から物理的に反撃されるのは初めてだ。俺はステップバックしてかわしたが、床に転がったライデンは左腕と右脚を巧みに使って回転。常人離れした柔軟性で半身をねじり、再び俺に向けて蹴りを放ってきた。
ライデンの脚が、結構な強さで俺の腰を打った。倒されるほどではなかったが。
その様子を見て、サーフェリーが耳ざわりな笑い声を立てやがった。
俺は[収納自在]をさらに五重に発動させ、室内の阿呆どもの両腕両脚を八分の一の長さに縮めてやった。先ほどからのスクリプトと限定の連発で[冗長大脳皮質]に疲労が溜まり始めているのを感じるが、まだスタミナは残っている。
それから、じっくり丁寧に狙いを定めて、身動きとれない状態のサーフェリーのみぞおちに拳を叩き込んだ。
ぐうっ、というサーフェリーの呻き声と共に、奴の(小さくなった)手から肝臓が消えた。スクリプトが停止したようだ。
全員が戦闘不能に陥った寝室に、まだ意識がある連中の荒い呼吸音だけが響いていた。
俺はベッドに向き直り、ティリーの様子を確認した。まだ眠っている。
こんな騒ぎの中でよく寝ていられるな、と不自然さを感じた。
意識のないティリーはスクリプトの影響を受けていない。こいつは巨大化した脚も倒れたベッドも知覚していない。周囲で大人たちが泣きわめいたり苦痛に呻いたりしているだけのことだ。
だがそれだけでも、相当騒がしいはずだ。なぜ目覚めない? やはり薬を使われているのか?
「ちょっと! 俺の手足は元に戻してくださいよ。俺は正気です。もうあんたに襲いかかったりしません」
背後からライデンの声が響いたが、無視してやった。
――ハクトがいないのは絶好のチャンスだ。このまま《ローズ・ペインターズ同盟》の連中とライデンを無力化しておいて、俺はティリーを連れて逃げる。奴らが俺の追跡を開始できるのは、俺が二十五メートル離れてスクリプトの効果が届かなくなってからだ。最初に稼いだこの二十五メートルは貴重だ。人込みに紛れて街に深く潜れば、そう簡単に見つかりはしない。
まずは、意識を失うまでライデンを殴る必要がある。奴に[無間童唱]を使われると厄介だ。
身動きのとれない人間をタコ殴りするなんて、場合によっては良心が痛むシチュエーションだが。ライデン相手なら「まあいいか」ぐらいにしか感じねえな。
俺が拳を固めて、床に転がるライデンに向き直ったとき。
不意打ちのように、[仮想野]にアラートが走った。
illegal script detected ('crazy_rhetoric')
id ('duchess')
target ('alice', 'mary_ann')
スクリプト名[空言遊戯]、使い手は[公爵夫人]。
――あいつがここにいることは知っていたが、警戒していなかったのは、たぶん心のどこかで「LCはティリーの味方に違いない」などと思い込んでしまっていたせいだ。
LCのスクリプトが発動する。五感が暴走し、世界が奇怪な変質を遂げる。
騎士だ せんな。 し頼み
が よぉ わ 結 た じゃ
何 笑 局あ ん
ダサい・最低・カッコつけ・使えない男!
リデ 下も にさ て
ル 部 ろと ぱん れ っ
一人に もこてん ちゃ
巨大な深紅の文字列が扉からほとばしり、うねり狂う。
明滅する文字たちの向こうにLCが立っているのが見えた。片手を扉にかけ、もう片手を腰に置いて胸を張り、堂々たる態度で室内を睥睨している。もっと年齢の高い女に合うような、高価そうな透け素材のネグリジェを着ている。それが、くしゃくしゃにもつれた髪、ガキ臭いすっぴんの顔と合っていない。
左右に、眠そうに目をこすっているマーチとヘアの双子を従えている。
LCの視線がサーフェリーから俺に移った。
視認はできなかったが、その唇が薄い笑みを形づくったように思えた。
「ねぇ、リデル。あたしをさらいに来てくれたの?
紙幣のシャワーに
シャンパンのプール、
ハイ・ブランドのドレスで
着飾って、ぴっかぴかの
馬車で五つ星ディナーへ
繰り出すの。飽きるまで。
最高の贅沢、
最高のお洒落。
永久に終わらない
素敵なパーティ。
みんながあたしを
ちやほやする。
お姫様みたいに
崇めてくれる。
口先だけだけど。
でもね、そんな暮らし、
捨てたっていいの。
あんたがあたしを
さらって行って
くれるなら。
本当に欲しいのは、
本当のあたしを
愛してくれる男。
それが欲しいの、
それだけでいい。
顔や体やお金に
つられて欲得ずくで
寄ってくる男なんか
もう要らない。
あたし自身を
好きになって
くれるのなら、
何もかも捧げちゃうよ。
《♢A》は、優しいパパだけどぉ。
でも、ただ優しいだけじゃん?
あたしは、本物の愛が欲しい。
――俺はLCのセリフをどうやって知覚しているのか。聴覚か、視覚か、触覚か。そんなことさえはっきりしない。セリフは近づいては遠のき、激しく明滅する。頭がぐらぐら揺れている。
そもそもそれは本当に「セリフ」なのか? 声、表情、体臭のいずれでもあり得る。または、過去の情報の蓄積をもとに俺の脳が勝手に推測したあてずっぽうの疑似現実か。
ただ、沼の底にたゆたう泥のような、粘着質の強烈な情念に、思考がからめ取られていくのを感じる。
LCの香水の香りはあいかわらずどぎつい黄色で、目がチカチカする。いつの間にかすぐ近くまで来ていた少女の手が、俺の頬に触れると、熟れきったマンゴーの甘い味がした。
[仮想野]がエラーメッセージで埋め尽くされ、世界を認識できない。
俺は直立しているのか、それとも倒れかかっているのか。
鼻から吸い込んでいるはずの空気が不意に粘土のような固まりになる。息がうまくできない。窒息の苦しみが、文字列に頭蓋を連打されるリズムと相俟ってホンキートンクピアノのラグタイムに聞こえる。ソラース、ジ・エンターテイナー、イージーウィナーズ。くそっ、エンターテイナーなんかどこにもいやしねえ。道化だ、俺たちはみんな。
「あたしたちはいつでも本気でしゃべっているよ」
「あたしたちの言葉は、文字通りの意味なの」
マーチとヘアの声は、けば立ったタオルで手の甲をこすられる感触だ。鈍色の文字列に呑まれて二人の姿は感知できない。
「地中には、マグマがあるよ」
「地上も地中も、同じ地球だよ」
「結論! 地上にもマグマがあるよ。ドーン!」
たちまちにして、俺は摂氏九百度超のケイ酸塩鉱物の液体に呑み込まれた。灼熱に全身の皮膚と肉を侵される苦痛を、俺は♩=120,000の『アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド』(エンドレス・リピート)として知覚した。燃えさかる火焔はまるで炒めた牡蠣の味わいだ。――こんな滅びなら悪くない。まったく悪くない。
どろどろ流れるマグマの動きが「この老いた聖者は森の中にいて、まだ何も聞いていないのだ。神が死んだということを」という百万人のガキの叫びに変換されて眼前でポップに弾け、網膜を灼いた。
――エラーの蓄積が許容範囲を超え、[補助大脳皮質]のOSが一時停止。
俺の意識は闇の中へ放り込まれた。




