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第12章(3) 女王

 俺のついた嘘は、狙い通り、メグに突き刺さった。

 メグは髪を振り乱して顔を上げた。憤怒と悲嘆の赤黒いマグマが垣間(かいま)見えるような(ひとみ)で、俺を睨み据えた。一瞬で臨界点を超えた憎悪がスクリプトとなって(ほとばし)った。


illegal script detected ('total_fantasy')

id ('gryphon')


 叩きつけるかのように、[事実無根トータル・ファンタジー]が炸裂する。

 待ち構えていた俺は、それをそっくりそのままメグに反転(リバース)させた。


qualify target=('total_fantasy')

 id=('gryphon')

  attribute=('direction:reverse')


 不意に、メグの鼻の穴から濃い色の血がぷつっと噴き出した。スクリプト発動が女の[冗長大脳皮質(リダンダント)]に負荷をかけているようだ。おそらく、メグも[事実無根トータル・ファンタジー]を短期間に何度も使うことはできないのだろう。


 だが、女は鼻血を気にかけている様子はなかった。

 その顔が本気の恐怖に歪められた。見開かれた目が、俺たちには見えない何かを凝視していた。


「やっ、うそっ! ……どこから火が出たの!?」


 メグが知覚しているのは、こいつが[事実無根トータル・ファンタジー]を使って俺たちに知覚させようとした「ありもしない」状況だ。

 どうやらこの寝室が火事になったという設定らしいな。


 メグはあわてふためいて、開いたままのガラス戸からテラスへ飛び出していった。ためらわず柵に片足を引っかけ、飛び降りようとした。

 ここが十六階だという事実はメグの認識からは消えているようだ。


 なるほど。こうやって、俺たちをテラスから飛び降りさせようとしたわけか。

 そのことがわかっても、俺としては、メグが死ぬのを黙って見過ごすことはできなかった。出せる限りのスピードでテラスへ駆けつけ、柵からほとんど落ちそうになっている女の体をきわどいタイミングでつかまえた。


 安全圏へ引きずり戻すと、メグは狂ったように暴れた。

 女は炎に包まれた部屋を知覚している。眼前にあるのは焼死の危機だ。半狂乱になるのは当然だろう。死に直面すると、女の細腕でも驚くほどの力が出る。

 思いがけず良い一発を頬に食らい、俺はうっかり力をゆるめてしまった。

 その隙にメグは俺の手を振り払い、再びテラスの柵から飛び降りようとした。


 ああ、くそっ。面倒くせえ女だな。

 俺が服の襟をひっつかんでメグをテラスの柵から引き離すと、メグはけたたましい悲鳴を上げながら必死で抵抗した。


「どうしたの、《♠K(キング)》。何かあったの?」


 寝室のドアを誰かが外からノックした。低い女の声が響く。


「悪いけど、中へ入るわよ。……みんな別々の寝室にいたんじゃ、護衛の意味がないじゃない、まったく。LCちゃんのワガママにも困ったものだわ。遊びで高級ホテルに泊まってるわけじゃないんだから……」


 金の縁取りがある扉が大きく開かれた。

 あいかわらず妙にこじゃれたロングドレスに身を包んだ《♠7》こと[可愛い料理番(プリティ・コック)]が立っていた。


 ――扉を開けるまで、[料理番]の認識は「悲鳴みたいなものが聞こえた気がする」程度のものだったんだろう。やはり、ここがホテルの最上階であるという事実がこいつらを相当油断させている。本気で何かが起きているとは思っていないような、どこかのんきな空気をまとって[料理番]は登場した。

 扉を開けた[料理番]の目に飛び込んできたのは、派手に鼻血を流しているメグを、俺が床に押さえ込んでいるという光景だった。


 中年女の表情がとたんに険しくなった。


「……女に暴力をふるうなんて。あんたを見損なったわ、《♠10(テン)》。そんな男だとは思わなかった」


 [料理番]は発信機とおぼしき銀色の球体を握りしめている。関節の色が変わるほど強く、[料理番]の細い指が球体を押すのが見て取れた。


「彼女を放しなさい!」

「……俺が手を離したら、こいつは自殺するぞ。テラスから飛び降りて」

「ハッタリには乗らないわよ。《♠K(キング)》は自殺なんかする子じゃないし、あんたの能力は他人を操る系のものじゃない。ちゃんと分析・研究済みなんだから」


 [料理番]を押しのけるようにして、銃を構えたギャングどもが寝室になだれ込んできた。だが、


「やめなさい!」


 妙に貫禄のある態度で[料理番]が命令すると、男たちはぴたりと足を止めた。


「銃を引っ込めなさい。ティリー様を怖がらせたら承知しないわよ。……侵入者には、《♠8》と私とで対処する。私たちはそのためにいるんだから。銃の出番なんかないわ。……あんたたちはティリー様をここから連れ出して」

「……!」


 俺は舌打ちしたい気分で、ベッドに向かうギャングどもを眺めた。


 こんな大騒ぎの中でもティリーはまだぐっすり眠っている。シーツの海の中で、やけに小じんまりと見える金髪頭は微動だにしない。その瞳は静かに閉じられている。

 せっかく手の届くところまで来たのだ。もう二度と奪われてたまるか。


 俺の隣で、ライデンが握り拳をもう片方の手のひらに叩き込むバチンという音が響いた。


「どちらの方が大勢倒せるか、勝負しませんか?」

「遊びに来てるんじゃねえぞ」


 俺は奴に視線も向けなかった。こっちは、ちょっとでも目を離したら四十六メートル下の地面めがけてダイブしちまうヒステリー女にも対処しなくちゃならないんだ。二対十の大乱闘、などという非効率的な道は選んでいられない(「勝てない」という意味ではない)。


target=all('exception: mary_ann')

run ('easy_contraction')


 俺は[収納自在イージー・コントラクション]を発動。半径二十五メートル以内にいる、ライデン以外の全員の右腕と左脚を縮めてやった。

 ギャングどもと[料理番]がバランスを失って倒れた。いくらもがいても立ち上がれなくなったメグが「熱い! 助けて! 死んじゃう!」と派手な悲鳴をあげ、激しく咳き込み始めた。


 俺は、床に転がっている[料理番]が余裕の笑みを浮かべているのに気づいた。


illegal script detected ('hysterical_flier')

id ('pretty_cook')


 [仮想野(スパイムビュー)]を横切るアラートを読むまでもない。[料理番]のスクリプト[凶器乱舞ヒステリカル・フライヤー]が発動した。手近な飾り棚の上にあったガラス製の「花と花瓶」がすっ飛んできて、俺の額に激突した。

 ――ぶつかった瞬間の衝撃はそれほどでもなかったが。見るからに薄そうなガラスは、かしゃっ、というような音を立てて砕け散った。俺の額にぬるっとした感触が生まれた。粘度の高い液体が顔の半分を覆い尽くすようにして垂れていく。どうやらガラスで皮膚が切れて出血したらしい。肉の深部にまで響くような鋭い痛みが走る。


 [料理番]は立て続けにスクリプトを発動させた。ガラス細工が次々と宙に浮き、俺の頭にぶつかってきた。


 相手が使ってくるスクリプトがわかっているのに、そのまま食らうしかない。

 俺は、自分のスクリプトの発動と他人のスクリプトの限定(クオリファイ)を同時にできないからだ。


 スクリプトの多重発動ならできる。敵を間違いなく足止めしたいときには、たいてい[収納自在イージー・コントラクション]を二重に発動する。だが限定(クオリファイ)は、[冗長大脳皮質(リダンダント)]の別の回路を使うものだ。スクリプトとは同時に行使できない。 


「……私の[凶器乱舞ヒステリカル・フライヤー]は、あんたのスクリプトほど重い物を飛ばせないし、ゆっくりしか飛ばせない。……まあ、その点について今さらどうこう言っても仕方ない。だから準備をしておいたのよ。弱いスクリプトの殺傷力を上げるための手段を」


 [料理番]は今やはっきりと微笑んでいた。


「この、素敵なトウィンクル・バットのガラス細工。妖精の羽根のように薄くて軽いの。簡単に割れて……よく研いだナイフのように皮膚を裂くわ。そしてあんたはたぶん、人の手足を縮めながら物を飛ばすことはできないのよね?」

「誰がそんなこと言った?」


 俺は痛みをこらえ、にやりと笑い返した。ふてぶてしく見えることを希望する。


「このガラス細工を買い揃えるとき、想像しなかったのか。これが一斉に、高速で()()()襲いかかってきたらどうなるだろう、と」


 ハッタリだ、もちろん。俺には現時点で、ガラス細工を[料理番]にぶつけ返す手段がない。

 切り傷だらけの頭から大量の血が流れ、足元のカーペットがぐっしょりと濡れ始めている。俺は失血による眩暈(めまい)と猛烈な脱力感を知覚した。まずい――目の前が暗くなる。スクリプトを維持できない。


「あ。そう言えば」


 床に転がるギャングどもから銃を回収していたライデンが、ひどくのんびりした声をあげた。


「俺、あんたを援護しなきゃならないんでしたね。今はいちおうチームなんだから。……うっかりしてましたよ」


 うっかりしてましたじゃねえだろうこの空洞頭が、と俺がツッコむより早く、[仮想野(スパイムビュー)]のアラートがライデンのスクリプト発動を告げた。[無間童唱(サーキュラー・カノン)]。

 [料理番]が、自由に動く左手で耳を押さえ、顔をしかめた。


「うわっ、この変な歌っ……! 頭痛い……! ルーちゃんが言ってた通りだわ」


 その「ルーちゃん」ってのはまさかルーラント・サーフェリーのことか? ツッコミが間に合わねえ。

 [料理番]がスクリプトを維持できなくなり、[凶器乱舞ヒステリカル・フライヤー]の効果が消滅。俺は一瞬にして痛みと眩暈から解放され、ひと息つくことができた。足元の血だまりも消失した。床で粉々に砕けていたはずのガラス細工も、すべて何事もなかったかのように元の位置へ戻っている。


「今よ、《♠8(エイト)》!」


 [料理番]が声を振り絞った。


 《♠8》こと[アオムシ]は寝室の扉のすぐ外にいる。俺の[収納自在イージー・コントラクション]が効いているので、おそらく床にすっ転がっていることだろう。

 このタイミングで奴に巨大化されるのは、かなり面倒くさい。


「ライデン!」


 俺も叫んでいた。[無間童唱(サーキュラー・カノン)]で[アオムシ]のスクリプト発動を止めろ、という意味だ。

 マキヤの居城でも気づいたことだが、ライデンは[無間童唱(サーキュラー・カノン)]を広域に発動できない。ターゲット一人ずつに発動していくのだ。だから今、[無間童唱]の効果を受けているのは[料理番]一人で、[アオムシ]は完全にフリーな状態だ。


 ライデンは小首をかしげやがった。

 俺の意図はこの鳥頭には伝わらなかったようだ。


「[無間童唱(サーキュラー・カノン)]を使えって言ってんだよ、この間抜け野郎!」


 俺が叫ぶのとほぼ同時に、[仮想野(スパイムビュー)]でアラートが不吉に明滅した。


illegal script detected ('disdimension')

id ('caterpillar')


 [アオムシ]のスクリプト[大小異同(ディスディメンション)]が発動する――!

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